備後歴史雑学 

幕末剣心伝27「天然理心流・土方歳三H」

「鳥羽・伏見の戦い決戦」


 伏見奉行所に入った新選組は、幕府が名付けた「新遊撃隊御雇」などという改称を受け付けず、
あくまで「新選組」で押し通した。

 伏見の薩摩藩邸には、高台寺党の加納・阿部らがいる。加納らは17日に京都の薩摩藩邸へ行
き、そちらにいる篠原・富山らにこのことを知らせた。
「伊藤先生の恨みをはらす時が、とうとうやってきたな。近藤のことだから、必ず二条城へ来るに違
いない。その帰りを待ち伏せして、先生の仇を取ろう」と篠原がいった。

 18日の午後、近藤は二条城を出て伏見へ向かった。竹田街道を通り、墨染という所に達した時、
いきなり銃撃された。
 その篠原泰之進は日記に書いている。
「即十二月十八日夕七つ過ぎまで街道に於て待ちしに、向うより近藤なる者、意気揚々として肥馬
に乗て来れり。余が輩は人家に潜伏して障子の蔭より発砲するに過たず、近藤の肩を打抜きたり。
血淋漓として流るるを意とせず、馬上に伏て逃げ去れり。付属輩を代りに斃し相戦ふに、二人跡に
在て打向ふ。依て余一人を槍にて突伏すれば、加納来つて討取たり。一人は阿部十郎、富山弥兵
衛の刀下に伏す」(泰林親日記)
 ここでは近藤を狙撃したのは、篠原本人のように記されているが、実際は富山弥兵衛が狙った銃
弾が右肩と胸の間に当たった。

 近藤の回復ははかばかしくなかった。知らせを聞いた松平容保の命令で、見舞の使者が訪れ、
「わが殿はもとより、上様もご心配遊ばされております。大坂には、松本良順先生がおられます故、
すぐに移せとの仰せでござる」と伝えた。
「大坂へ行ったらしっかり養生して、一日も早く戻ってもらいたい。いずれ薩長と正面切って対決する
ことになるだろうが、それまでは、おれに任せてくれ」と歳三はいった。「頼む」と一言近藤は答えた。
 翌朝、近藤と沖田は伏見を出て船便で大坂へ向かった。


 そのころから伏見に新選組が駐屯したことが、京都及び大坂の政情に微妙な影を落しはじめた。
 朝廷は、参与となった尾張藩の勤王家田宮如雲を伏見取締に任命した。
 ところが、勤王派殺戮の元凶新選組が伏見奉行所を占領しているのである。田宮は閉口して、旧
幕府要人に、
「伏見奉行所から、何とか引き揚げさせて下さい」と交渉した。
 しかし、尾張藩は御三家の一つである。その藩士が伏見取締を引き受けたことは、宗家である徳
川慶喜に叛いたことを意味するので、幕臣としては誰も聞く耳を持てないのである。

 田宮はついに直接土方に交渉すると、土方は、
「われわれは、坂命で在陣している」とつっぱねた。
 ついで、彦根藩主に井伊掃部頭直憲が、朝廷に自ら願い出て、四塚関門の守備を命ぜられた。井
伊は徳川譜代筆頭である。
 この知らせは大坂城中の会桑二藩の主戦派を激昂させた。

 12月25日、江戸で異変が突発した。
 関東各地で、西郷の命をうけた薩摩人を中心に、擾乱事件が相ついで起こっていた。
 江戸市中取締にあたっている庄内藩の屯所に、薩摩人の一隊が発砲した。庄内藩は堪忍袋の緒
を切った。
 25日早朝、約二千名の兵をくり出して、三田の薩摩藩邸を攻撃した。益満休之助らは捕えられた
が、伊牟田尚平ら約三十名は品川沖の藩船翔鳳丸に逃れた。
 幕府海軍回天がこれを追撃し、数弾を命中させたものの横須賀沖で日没となり、翔鳳丸はかろう
じて脱出した。

 28日、この報が大坂城に届いた。
 兵力比は、幕府軍一万五千に対し、政府軍約五千である。
 主戦派は慶喜に迫って「討薩の表」を掲げて京に向かった。慶喜はこの時風邪をひいていたが、
「とめても止まらないので、うっちゃらかしておいた・・・・」と後日語った。

 全軍総督は松平豊前守(大多喜藩主大河内正質)、副総督は塚原但馬守昌義。大目付滝川播磨
守をして上京させることになった。
 鳥羽街道は桑名兵を主力に、伏見街道は会津兵及び陸軍奉行竹中丹後守重固が進むことになっ
た。
 伏見方面には先発隊として、歩兵奉行城和泉守と歩兵頭窪田備前守の二大隊約千名が砲四門
とともに入った。また会津兵も林権助以下八百名が加わった。

 滝川が鳥羽街道の四塚関門にさしかかったのは1月3日の午後五時ころだった。薩摩の監軍との
間で通せ、通さぬの押し問答を繰り返しているうちに、近くの城南宮に布陣していた薩摩の砲兵隊
が発砲した。
 以下、新選組を中心に記載します。


 この砲声が伏見にも聞こえた。
 御香宮に布陣していた薩兵の指揮官は吉井幸輔である。またその東にある竜雲寺山に大山弥助
(厳)の砲兵隊が、砲口を伏見奉行所へ向けていた。大山は鳥羽方面の砲声を聞くや否や、
「撃て!」と命令した。その第一弾が奉行所の物見櫓に命中した。
「きやがったか」と歳三は嬉しそうな声を出した。
「副長、押し出しましょう」と永倉が声を荒げていった。
「新八、そう急くなよ。いま押し出したところで、敵の鉄砲の餌食になるだけだ。暗くなるのを待つしか
ない」「待ってどうする?」
「知れたことだ。斬り込む一手よ。それまでは、鉄砲で応戦するしかない。柵のところから撃ちまくる
んだ」歳三は、逸る永倉らを抑えた。
 徳川軍にも大砲はあったが旧式のもので、薩長両軍の大砲は、徳川軍の旧式砲の三倍の射程距
離を有していた。

 この間、御香宮の背後にあった長州兵が迂回して奉行所の背後に回り、竹林の中にひそみ、闇
が訪れるころに襲いかかってきた。
 徳川軍の歩兵は鉄砲で応戦したが、この銃も旧式の先込め銃であった。

 歳三は指揮を永倉に任せ、原田ら十数名を率いて裏門に走った。
「諸君、いよいよおれたちの出番がきた。斬って斬って斬りまくるんだ」
「左之、続け!」銃声が一段と激しくなった。
 歳三は竹林めがけて疾駆した。耳元を銃弾がかすめる。
 前方に黒い影が立ちはだかった。歳三は跳躍し、抜きはなった和泉守兼定を揮った。その刀身が
敵兵の骨を斬り下げた。
「ギャッ」という声が流れたときには、歳三は次の敵兵めがけて突進した。
 歳三は右に駆け左に奔って、斬りまくった。むろん原田らも負けじと刀を揮った。
「引け」長州兵の指揮官が号令を発した。
 歳三はそれ以上は追わなかった。追って竹林を出てしまえば、敵の銃火が待っているのだ。

 この戦闘で、長州兵は後藤深蔵・相木岡四郎・宇佐川熊蔵の三人の参謀を失い、小隊司令宮田
半四郎ら十四名が重傷を負った。(宮田は翌日死亡したという)
「歳さん、勝ったな」と原田が声をかけた。
「左之か。まだわからん。表がどうなっているか・・・」
 歳三は奉行所の中に戻り、点検した。約半数に減っていた。


 表門では、林権助らの会津兵を中心に、永倉らも加わって突出していたが、こちらは大苦戦であっ
た。
 敵の銃撃が激しく、路上に釘付けにされていた。その上、林は銃弾を浴びて門内に担ぎ込まれて
いた。
 代って指揮を執っているのは、佐川官兵衛である。その佐川は右目をやられたようで、白布で顔半
分をぐるぐる巻きにしていた。

 佐川は歳三を見ると、
「矢ぶすまなら何とかなるが、やつらの新式銃はどうも始末が悪い」
「佐川さん、たしかにやつらの銃は強力だが、それは敵味方の間合いが、やつらに有利だからです
よ。間合いを詰めれば、刀も役に立つ。いまからお見せしますよ」歳三はそういうと、残っている新選
組の隊士を集めた。
 永倉らの一隊を除くと、約五十名に減っている。

「いいか。このまま陣屋にへばりついていたって、間合いは詰まらねえ。いまから市街地を回って敵
陣の背後に出る。先頭にはおれが立つ。おれの声が聞こえる限り、駆けろ」それから、歳三は身に
着けていた小具足を脱ぎ、隊士たちにも見習わせた。歳三は通用門から市街地へ出た。
 原田らがそのあとに続く。

 後詰めの長州兵と市街の北部でぶつかった。
「新選組、進め!進め!」歳三は連呼しながら敵中に突進した。
 長州兵は民家の軒先に身をひそめて、撃ってくる。歳三は駆けた。
「死ね!」歳三は和泉守兼定を揮った。
 血のりで斬れなくなっているのだが、いちいち拭っている余裕はない。首に刀を叩きつけて戦闘力
を失わせるのが精一杯だった。

 歳三は知る由もないが、この方面に配備されたのは第二奇兵隊の第二中隊で、農民出身者が多
い。白兵戦となれば、新選組の敵ではなかった。
 中隊司令は相木又兵衛といい、すでに戦死した参謀相木四郎の兄である。「みんな引け!」と号
令を発した。
(こいつが指揮官か)歳三は逃げる相木の背に一撃を加えた。相木はもんどり打って倒れた。
 そのとき、御香宮の薩兵が砲撃の目標を歳三らに変えた。たちまち民家が火を発した。
 歳三はいったん兵をまとめた。この間、佐川らの会津兵も突出し、御香宮の薩軍陣地に斬り込ん
で激しい白兵戦を繰り広げた。
 不利と見たか、薩兵は退却しはじめた。が、すぐに盛り返してきた。

 会津兵は、斃した敵の首級を古法に則って打ち首とし、それを腰に下げた。重い鎧を身につけた
上に、首をさげたのでは行動ができない。
 佐川はこれを見て、引き揚げ命令を出した。
 歳三は歯ぎしりする思いだった。首級にこだわらずになおも進めば、敵は総崩れになるところだっ
たのだ。
「佐川さん、刀槍もまんざら棄てたものじゃないでしょう」
「お主のいうとおりだ。大いに教えられた」と佐川はうなずいた。
「佐川さん、あえていわせていただくが、もう一歩のところで大勝利となる戦が、引き分け同然になっ
てしまった。そのわけは、おわかりでしょうね」
「関ヶ原のころと同じだ、といいたいのだろう?」
「それだけじゃない。せっかくの一番首を誰に見せようというんです?」
「いうな」佐川は口許を歪めた。

 戦場に総大将が出ると出ないとでは、兵の士気や戦意が違う。
 武士は主君の馬前で戦い、死ぬことをもって本望とするのである。
 歳三は、自分たちと佐川ら会津藩士とは、立場の異なることもわかっていた。歳三は、徳川慶喜と
いう人物を主君と思っていないし、慶喜のために戦っているという気がしない。
 佐川らはそうではない。松平容保は先祖代々の主君なのである。君、君たらずとも、臣、臣たるべ
し、と教えこまれている。あれこれいうことは、不忠の極みなのだ。
(いっても無駄だ)と、歳三は諦めた。


 伏見方面の戦闘は、新選組と会津兵の勇戦で真夜中ごろまで五分五分だったが、鳥羽方面は徳
川軍が不利に終始した。
 鳥羽方面の形勢不利を知って、伏見方面の指揮官である竹中は、会津兵と新選組に中書島(ちゅ
うしょじま)まで退くよう命令した。
「たわけたことを!」歳三は憤慨した。
 しかし、林権助は重傷で指揮を執るとこが出来ず、佐川は竹中の命令に従うことにした。

 新選組もそうだが、会津も第一日の激戦で約三分の一を失っていた。やはり銃砲の差が決定的だ
った。
「この上は、大坂城で決戦だ」と、会津兵も新選組も合言葉のように叫びながら、伏見から退いた。
 新選組は、3日・4日・5日・6日と退いては陣を張り、陣を破られてはまた退く、という戦いを繰り返
しながら、会津兵と一緒に淀城に入って陣容の建て直しをはかろうとした。
 しかし、城を守っていた城代の稲葉長門は城門を閉ざして、会津兵らの入城を拒んだ。

 ついで6日には、山崎を守っていた藤堂藩が寝返って、徳川軍に砲撃を加えてきた。
 こうなったら完全な負け戦さである。歳三は、負傷者を船で大坂へ送り、歩ける者を率いて大坂へ
向かった。
「大坂城へ戻ってから守りを固め、その間に江戸から銃砲隊を呼び寄せれば、こんどは勝つ」と歳三
はいった。実際、そう信じていた。

 歳三らは、6日の夜になって、宿舎に割り当てられた天満橋西詰の代官屋敷に入った。人数を調
べてみると、約五十名だった。
 この戦いで新選組は、井上源三郎・山崎蒸・和田十郎・三品一郎・宮川数馬・鈴木直人・伊藤鉄五
郎・池田小太郎・小林峰三郎・林小三郎・今井裕三郎・水口市松・青柳牧大夫・等、キャリアのある
隊士を多数死傷させた。

 歳三らが大坂へ着いてみると、総大将の慶喜がすでに脱走してしまっていたのである。酒井・板倉
の両老中、それに会津・桑名の二藩主を連れて、沖合にいる幕艦開陽丸に乗り移ってしまったとい
う。
「近藤さん。一体、どうゆう了簡ですかねえ」
 慶喜だけならともかく、あれほど新選組を庇い、苦楽を共にしてきた守護職の会津藩主まで逃げ出
すとは、と無念の思いをこめて歳三は近藤に聞いた。白布で腕を吊った近藤は、
「おれにもわからねえ」と渋い表情でいった。

 事後処理に当たった老中の松平豊前守(大河内正質)と永井尚志は、城内の佐幕諸軍に、
「軍は解散する。諸藩兵はそれぞれ藩地に帰られたい。幕臣の士は、海路あるいは陸路で江戸へ
戻るように」と触れた。
「江戸で決戦ですかな」つぶやく歳三に、近藤は、
「さあ、どうかな」と気のない応じ方をした。
 脇から沖田総司が、痩せ細った青黒い顔で心配そうに、
「戦に負けた上、江戸まで歩くのは骨だな」と頼りなくいった。
 歳三は飛び出した。海軍副総裁の榎本釜次郎に交渉して、新選組隊士全員を幕艦富士山丸に乗
せてもらうことにした。

 1月12日、艦は出航した。同じ日、慶喜は江戸に着いていた。



 以後の土方歳三の足跡は、流山で近藤と別れてのち以降から記載します。
 その間の記載は幕末剣心伝17「天然理心流・近藤勇E」を参照してください。


 新選組で一番強い男といわれた吉村(嘉村)貫一郎(盛岡藩脱藩)は、一説に、この鳥羽・伏見の
戦いで手傷を負い、幕軍が大坂を撤退したのち、大坂の盛岡藩仮屋敷の留守居役(大野次郎右衛
門?)を頼り、これからは勤王のために御奉公したいから、しばらくの間匿ってほしいと頼み込んだ。
 ところが、その転向を激しく非難され、そかも士道を立てての切腹を勧められたのである。

 その夜、考えあぐねた末に、吉村は切腹して果てるが、明け方まで呻き声が聞こえ、その痛みに
耐え兼ねてころげ廻ったらしく、部屋中血だらけだったという悲惨な最期であった。
 また、床の間に小刀と二分金が十枚ほど入った紙入れが置かれており、傍らの壁に「此弐品拙者
家へ」と血で書かれていたという。

 この吉村の息子が箱館戦争では、榎本軍に参加している。


土方歳三の刀・会津十一代和泉守兼定。この愛刀はどれだけの修羅場をかいくぐってきたの
であろうか。

近藤勇の虎徹は贋物説が非常に多いですが、明治になって金子堅太郎家にあり、それを観た
剣道家は本物に間違いなかったという。


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