備後歴史雑学 

幕末剣心伝26「天然理心流・土方歳三G」

「鳥羽・伏見の戦い前夜」


 慶応3年(1867)6月、新選組総員百五名は幕府直参に取り立てられ、再編成が行われた。
 さらに鳥羽伏見の戦いを控えた同年12月、新選組は総員百五十七名を再編成し直した。実質的
な第三次編成といえる。
 高台寺党に潜入していた斎藤一(山口二郎と変名)が副長助勤に復帰した。

 この編成で注目されるのは、局長付と両長召抱人の設置である。局長付というのは新入隊の者を
一定期間、仮隊士として局長の支配下に置く制度であり、両長召抱人の方は、文字通り局長と副長
の小姓をつとめるものであった。

局長=近藤勇。副長=土方歳三。局長付、両長召抱人。
副長助勤=沖田総司・永倉新八・井上源三郎・山口二郎・
       原田左之助・山崎蒸。

諸士調役兼監察=大石鍬次郎・吉村貫一郎・安藤勇次郎・
            尾形俊太郎・村上清。

勘定方=岸島芳太郎・大谷勇雄・安富才輔・中村玄道。

この下に伍長及び平隊士がいて総員百五十七名。


 この年12月9日、有名な小御所会議で王政復古大号令が可決された。
 8日の夕刻、朝廷は二条斉敬(なりゆき)をはじめ、諸親王・三大臣・前関白・議奏や在京の諸大
名を招集した。
 この中には、徳川慶喜・松平容保・松平定敬(さだあき)らも含まれていたが、慶喜ら三名は出席し
なかった。

 筋書きを描いたのは岩倉と西郷であるが、実際に事を運んだのは中山忠能(ただやす)だった。
 朝議は、長州藩主父子や岩倉の赦免をめぐって翌朝まで揉め、夜が明けたころになって、ようやく
可決された。
 西郷はすぐさま行動を起こした。薩・尾・越・芸四藩の兵を各宮門に配置した。

 蛤御門は会津藩が守っていたが、薩摩の伊地知正治は兵が率い、
「朝命によって、わが藩が受け持つことになった」と宣言した。
 そういう朝命は出されていなかったが、藩主が病気を理由に欠席していたので、何が決定された
かもわからず、疑問を残しつつも交代せざるを得なかったのである。

 岩倉・西郷の計画は、見事に成功した。四藩のほかに土佐を加えるはずだったが、土佐兵は、山
内容堂の命令によって出動を拒否した。
 容堂は、後藤象二郎から西郷のもくろみを聞いて激怒していた。大勢は決したかも知れないが、ま
だ逆転する余地があると考えていた。

 9日夕刻、容堂は参内した。
 王政復古の大号令に反対する者はいなかったが、それに続く議題、徳川家に領地を返上させよう
という件になったとき、容堂はたまりかねて発言した。
 徳川家には三百年近い平和を保った功績があり、しかも当主の慶喜が勤王の志を持つことは天
下に知られている。それなのに、この会議に呼ばれなかったのは、一部の公卿の陰謀ではないか。
と、中山・岩倉を指してなじった。

 岩倉は平然としていた。いいたいだけ好きなようにいわせてやろう。
 容堂はいいつのった。
「公卿などと申す輩は、昔からろくでなしの集まりである。その証拠に、信長を殺した明智光秀にさ
え、彼が京都を制圧したときに、官位を与えたではないか」たしかにその通りである。誰も反発する
者はいない。
「そしていま、幼冲の天子を擁し奉り、政権をほしいままにせんと・・・・」
 岩倉はこの機会を待っていた。
「待たれい!」とまず一喝し、玉座に向かって身をかがめてから、
「幼冲の天子とは、何たる不敬ぞ」と声を張り上げた。
 天皇はこのとき16歳で、武家においては元服する年齢である。けっして子供っぽいとはいえない。
それを思えば容堂の大失言であった。岩倉から不敬である、と大喝されても致し方ないのである。
 勝負はここでついた。会議は一旦休憩となったが、あとは岩倉の思うままである。慶喜に辞官、納
地を命ずることを決した。


 このことはすぐに二条城に詰めていた徳川方の大名たちに伝わった。
 大政奉還後は、万機を諸大名会同の上で決することになっていたにも関わらず、一部の大名だけ
を召して決するのは、陰謀にほかならない。
「かくなる上は、実力をもって君側の奸を除くべし」と多くの者は激昂した。

 慶喜がもっとも恐れていたのは、朝敵になることであった。
 このままでは、会津・桑名の兵は勝手に行動を起こしかねない。そこで慶喜は、10日に、京都守
護職と所司代の職を廃止してしまった。


 10日の夕刻近く、朝廷の命をうけて、尾張藩主の徳川慶勝と松平春嶽が二条城にやってきた。
 果たして両名が城中に入ると、殺気立った会桑二藩の藩士たちが、
「薩摩と手を組んで、徳川家を売るとは何事ぞ」と罵言を浴びせた。

 慶喜は、辞官・納地の朝命に逆らうつもりはないが、今ここでお受けすれば、ご覧の通りの城中の
憤激はいっそう燃え上がることになりましょう。必ず鎮めますから、その上でお受けする。と奏上して
いただきたい、といった。
 慶勝と春嶽はそれを了承し、朝廷に戻って復命した。
「われら両名が責任をもちますから、どうかお任せ下さい」ともいった。

 西郷と大久保は、
「それは許されぬ。ただちに辞官・納地をお受けしないのは、下心があってのことであろう」といい張
った。
 薩摩としては、徳川方が暴発することを望んでいたのである。

 ここで山内容堂が徳川のために反撃に出た。王政一新がなった以上、諸候会同をすみやかに開く
べきである。また慶喜に納地を命ずるのであれば、ほかの諸候もそれに見習うべきである。というの
である。
 岩倉は大久保らとやや異なった意見をもっていた。慶喜がおとなしく辞官・納地を実行するならば、
議定として召し出してもよい、というのである。
 岩倉の考えは、松平春嶽を通じて慶喜の耳に入った。
 慶喜は再び希望の灯が点ったのを感じた。大政奉還によって、雄藩連合の首班になるのが、大政
奉還策の真の狙いだった。岩倉案が実現すれば、その狙いを達成できるのである。
 だが、自陣内に難問を抱えていた。

 二条城内には、幕軍五千名、会津藩三千名、桑名藩千五百名が集結していた。合わせて約一万
の兵力である。
 これに対して薩摩兵は約二千。罪を許された長州藩兵も一部が10日に入京し、東山東福寺に入
ったにすぎない。

 慶喜は城内に駐屯している各隊の隊長を集めて、
「予が割腹したりと聞かば、汝らはいかようにも好きにせよ。なれど、このように生きてある限りは、
決して妄動するでないぞ」と訓示した。
 各隊長は平伏した。だが、慶喜としては不安であった。兵を京都へ留めている限りは、不測の事
態が起こりうるのである。

 大久保の挑発にのらず、巻き返しをはかるには、大坂にいて形勢を観望するのが賢明である。
 慶喜はこの考えを松平容保に語り、「予と同行してもらいたい」といった。
 容保が下坂すれば会津藩兵も随従せざるを得ないが、強硬派が下知に従うかどうか、容保として
も自信はなかった。
 では、家老をここに呼んでもらいたい、と慶喜はいった。

 容保は家老の田中土佐を召し出した。田中は主君に呼ばれたと思っていたが、そこに慶喜がいる
ので仰天した。慶喜は、
「苦しゅうない」と声をかけ、まず薩摩を罵った。
「帝を擁しているものだから、勝手放題に振舞っている。されど京において兵を動かすのは、いかに
も恐れ多い。また、外夷の干渉を招くかも知れぬ。それでは、政権を奉還した素志も水泡に帰するで
あろう。よっていったん下坂し、後図をはかろうと思う。肥後守も同行するにつき、汝らも共にきたれ」
と慶喜はいった。

 田中は承服して引き下がった。しかし、田中からこの話を聞いた佐川官兵衛と林権助は、「とんで
もない話だ」といって、城門を閉じて出られないようにする、ともいった。
 慶喜はこれを聞くと、佐川と林を呼び、
「予が下坂せんとするのは、実は深謀があるからである。しかし、それを城中の者たちに明かすこと
はできぬ。謀事は密でなければならぬ。心配せずに、予に任せよ」と声をひそめるようにいった。
 深謀があるというのは、大坂城に大軍を集めて、京の薩長を討伐することだ、と両名は推察した。
「ありがたき仰せ、拝謝仕ります」と喜んで退出し、部下を慰撫した。

 慶喜は将士を城中の広場に集め、酒樽を開いて盃を配った。そして自ら飲みほし、盃を投げて砕
いた。古来からの出陣のしきたりである。将士たちは大喊声をあげて、これにならった。
 慶喜らは、夜を徹しての行軍で、枚方に着いたのは13日の朝であった。


 この間新選組は、会津藩から11日に伏見奉行所へ移れという指示があった。新選組は、近藤は
じめ首脳部はすでに幕臣の資格を得ており、会津藩の家来ではなかったのだが、文久3年以来の
関係で、何か指示がくればそれに従っていたのである。

 歳三は移転の手配をすませると、隊士たちに二刻の猶予を与えた。長く京都にいる隊士たちは、
休息所という形で事実上の妻帯をしている者もいるし、なかには子供を儲けている者もあった。
 歳三自身にも志乃がおり、志乃あてに手紙を書いた。
(公用で伏見へ移ることになったが、お前との縁がこれで切れるとは思っていない。いずれ京へ戻る
つもりでいるが、当座の金として百両を遣わしておくが、一つだけ頼みがある。この手紙と金を持た
せる沖田をしばらく預かってもらいたい。前にも話したことがあるが、沖田は自分にとって弟のような
男である。沖田を世話してやってほしい。いま身体を悪くしているので、食事に気をつかってくれると
ありがたい。)
 歳三はそれを書き終えると、沖田の部屋へ行った。

「総司、頼みがある。皆には京を離れる前にしばしの暇を出したが、おれはここを一歩も離れること
ができん。この手紙と金を持って、志乃のところへ行ってもらいたい。どうか頼む」
「わかりました。これを届けてすぐに戻ります」
「もうひとつ頼みがある。先のことを考えると、京の情勢が気になる。そこで総司は志乃のところに潜
伏して、薩長のやつらの動きを調べてくれ」
「お志乃さんのところに、いつまでですか?」
「どうせ戦になる。それまでだ」
「わかりました」沖田は、何か苦いものを口に含んだようにいった。

 伏見への移転の指示は11日だったが、その翌日には大坂へ下る慶喜を護衛せよという指示に変
り、新選組は随行した。
 慶喜と容保らが大坂城へ着いたのは、14日午後四時だった。
 この下坂の道中で、近藤たち新選組は、慶喜がどうして京を退去したかの事情を聞いた。
「さすがに上様は非凡な考えをお持ちであらせられる」と近藤は感服して歳三にいった。歳三は首を
かしげた。
「岩倉と薩摩が徳川家の処分をめぐって対立しているという話は、とうてい信じられない。岩倉と大
久保とは、同じ穴の貉なのだ。対立したというのは、策略だろう。二心殿はじめ、みんなが、岩倉の
策謀にうまうまと乗せられたのよ」と歳三は口にした。
「岩倉の策謀とはどういうことだ?」
「二条城には約一万の軍勢がたむろしていた。薩摩はたった二千だ。あのまま居れば、戦は必定だ
った。岩倉はとうてい勝ち目はないとみて、舌先三寸をもって徳川方を大坂へ追い払うことにしたの
だ。恭順の意が明らかであれば、議定として召し出すという餌を撒いてね。つまりは薩摩の危急を救
うためにやったこと、対立などしているものか」と歳三はいった。
「そんなことが・・・・」と近藤は絶句した。
「あろうはずがない、といいたいのだろうが、岩倉は稀代の策謀家だ、二心殿も一廉の策謀家だが、
岩倉の敵ではあるまいね」
「その二心殿という言葉を慎め」近藤は腹に据えかねるようにいった。

 京に帰った新選組は、永井尚志からの要請で伏見を固めることになった。会津藩からも林権助が
三百名を率いて伏見に入った。
 永井は元来穏健派だったが、その永井でさえ薩摩のやり方に対して激しい怒りを燃やしていた。

 京都においては、松平春嶽や山内容堂が、大久保の出した徳川処分案を何とか骨抜きにしようと
工作を続けている。春嶽は兵を国許に残してきており、容堂は約二百名を連れてきているに過ぎな
い。
 これに対し、薩摩は二千名、長州は先鋒約六百名が入京した。
 容堂は後藤象二郎を使って、
「われらの主張をご採用にならぬのであれば、土佐へ引き揚げますぞ」といわせた。諸候会議をつ
ぶすぞ、というおどかしである。

 だが、岩倉はこのおどしに屈しなかった。
「帰国したければ、好きなようになさるがよかろう」とつっぱねた。二百名しか連れてきていない容堂
の足下を見すかしていた。

 こうした情勢のもと、新選組百五十名と会津兵三百名が伏見に控えていれば、親徳川派は大いに
心強いと、永井は見たのだ。
 近藤・土方の率いた新選組が12月16日に伏見奉行所に入り、
[新選組本陣]の看板を掲げると、京都政界の空気は微妙に変化しはじめた。


「鳥羽・伏見の戦い決戦」へ続く


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