備後歴史雑学 

幕末剣心伝28「天然理心流・土方歳三I」

「宇都宮戦」


 流山で官軍に投降した近藤勇は、慶応4年(1868)4月25日の朝、板橋の刑場で処刑された。
 流山に残った土方歳三は、残っている人数と武器を調べさせた。
 近藤が降伏する前は二百名を超えていたのだが、大将が敵に降ったので雲散霧消してしまい、約
四十名に激減していた。

 大砲は差し出してしまったが、小銃が五十挺ほど残していたが、弾丸は一挺につき十発程度だっ
た。
 歳三の決意は何名であろうと変ることはない。薩長土を相手にとことん戦うつもりである。

 箱根から西の諸藩は、いまや官軍に兵を差し出している。しかし、東北の諸藩は会津・庄内を軸と
して、同盟が進んでいる。また関東には小さな藩が多く、向背を決しかねている。
 こうした情勢下で、天険の地の日光に立て籠って官軍を悩ませていれば、寄せ集めの官軍は動揺
をきたすに違いない。そうなれば、天下分け目の大博打をもう一度打つことができる、と歳三は思っ
ている。
 が、四十名ではその博打の元手にはならない。少なくとも一千名にしなければ、勝負にならない。

 江戸には恭順に不満の者がいる。その者たちが江戸を脱出するには、市川へ出るしかない。
「諸君、これからわが隊は日光へ向かうが、まず市川にて、江戸から脱出して来る者を収容する」と
いった。
 歳三らが市川の町はずれの鴻ノ台という高台にある廃城跡に布陣すると、はたして身を投じて来
る者が続出した。

 天野雷四郎ら旧幕臣が多くいた。歳三がもっとも喜んだのは、会津藩士の秋月登之助が数名の
同志を連れて加わったことである。会津へはすでに斎藤一を送っているので、連絡が取りやすくな
り、会津と提携してこそ力を発揮できるのである。

 次に、桑名藩の立見尚文らが砲二門を持って合流し、この噂を伝え聞いて馳せ参ずる者も多く、数
日間で千八百名にふくれ上がった。
 さらに、歩兵奉行の大鳥圭介が大手前大隊約二百五十名を率いて、これに加わった。
 大鳥については歳三も知っている。元来は播州の村医者の子で、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学
を勉強し、ついでフランス語を学んで兵書を訳した。フランスが派遣した軍事顧問団に配属され直参
に取り立てられた。
 要するに秀才官僚であり、歳三のもっとも嫌いな型の能吏だった。


 総督就任に、この大鳥圭介を推す幕臣たちが多くいて、(まずいことになった)と歳三は思った。歳
三は秋月を招いて、
「大鳥君の伝習隊が加わると、二千名以上になる。前軍・中軍・後軍と分けた方がいい。そこで、秋
月さんと私で前軍を指揮し、桑名の砲二門と砲隊も前軍に属する編成としたい」と歳三はいった。
 鳥合の衆は大鳥に任せて、精鋭と砲隊をもらって以後の戦闘を一手に引き受けよう、という狙いで
ある。

 結局、総督は大鳥、参謀は土方に決まり、すぐに三軍の編成が行われた。
 前軍は第一大隊とし、砲二門を有する桑名隊を含めて約八百五十名で、大隊長は秋月。
 中軍は第二大隊とし、伝習隊を主力として約八百名で、大鳥総督の直属とする。後軍は残りの約
六百名で、大隊長は天野とした。
4月12日、歳三の第一大隊は宇都宮目指して出発し、大鳥は日光へ向けて出発した。
 このころ、官軍は宇都宮に有馬・香川の軍が駐屯していた。指揮官は薩長土から出ているが、兵
は宇都宮藩兵と彦根を主力とする三百名である。日光東照宮はすでに官軍が押さえていた。

 歳三らは16日、下妻へ到着した。ここは一万石の小藩である、江戸の官軍本営へは帰順してい
たが、あっさり降伏して士卒十名を供出した。
 歳三は秋月にそこを任せ、翌17日二百五十名を率いて下館藩へ向かった。下館は石川若狭守の
居城で兵力はわずか百名。石川も官軍に帰順していたが、指揮官が土方歳三であると聞いて開城
した。
 歳三はここで武器・食料を供出させたのち、秋月と合流して宇都宮の南の蓼沼に布陣した。 

 一方、大鳥らの中軍は、その後江戸を脱出した小さな隊がいくつか加わり、そのうちの一隊が小
山で官軍(館林兵)を蹴散らした。
 この報告が江戸へ届き、板垣が自ら征討に向かうことになるのだが、近藤勇の運命もそれによっ
て決した。
 大鳥はこの後、栃木へ出て19日鹿沼へ入った。
 この日、歳三らは宇都宮へ攻撃をしかけた。


 宇都宮城を守っていたのは、宇都宮藩兵と彦根を主力とする約三百名である。有馬は、攻撃してく
る敵の兵力を知って、城門を閉ざし籠城作戦をとった。兵力比が三対一なのだから当然の策であ
る。
 大手門の堀は深く、これを突破するのは容易ではない。

 歳三は秋月に諮った、秋月は、
「大手からの攻撃は、損害を増やすだけでしょう。ここは大手を攻めるとみせかけて、南の搦手に主
力をぶつけるべきでしょう。搦手は、雑木林もあるし、堀も浅いし一部は干上がっています」
「お説の通りだが、突入したら、すぐさま火を放つ」と歳三はいう。
「お言葉ですが、火を用いた場合、城を攻略することは出来ても、そのあと、使い物になりません」
「秋月さん、この城を取ったからといって、この城を守る必要はない。どうせ敵は大兵力でこの城を奪
い返しにやってくる。この守りにくい城では、十日も保たんでしょう。われわれの目標は日光にある。
この城を無疵で残しておくと、敵の有力な中継地になる。それを潰しておくのです」
「恐れ入りました」と秋月は頭を下げた。

 戦闘は朝九時ごろから始まった。秋月は砲二門で大手から攻めた。といっても、兵力の損耗をさけ
るために、攻めかかるふりだけである。
 その間に、歳三は兵三百名を率いて搦め手に回った。夕暮れまで歳三は動かなかった。
 城方は、大手門の防備に兵の大半を振り向けた。形の上では、何度も撃退したことになっている。

 ようやく暗くなった。その間に、歳三は秋月の許から、立見の率いる砲隊と砲一門を回送させてい
る。その砲で搦手の城門を砲撃させた。門扉が吹っ飛んだ。
 歳三は和泉守兼定を抜き放ち、「行くぞ!」疾風のように突進し、城内へ突入した。
 数人が銃を捨てて逃げようとしたが、歳三は追って斬った。
「火を放て!」たちまち燃え上がった。
 有馬は、すぐに大手門の兵を振り向けようとしたが、火の手が上がったのを見て、
「よし、大手門を開いて一団となって突出するんだ」と号令した。
 薩人の有馬には、降伏という考え方はない。その凄まじい勢いに押されて、寄せ手は二つに割れ
有馬らを逃がした。だが、有馬は負傷し、後送された。
 歳三は城が燃えるに任せた。その夜は城外に宿営した。

 この火を鹿沼にあった大鳥が望見し、翌日中軍を率いてやってきた。
「お手柄でした。だが、どうして火を消さなかったのです?」と大鳥が聞いた。「土方先生の指示に従
ったのです」と秋月は答えた。
「土方さん、惜しいことをしましたな。これでは、再建するのに時間がかかる。敵はそれまで待っては
くれぬでしょう」
「再建する?これは信じられん考えだ」歳三は哄笑した。
「どうなさる気か、聞かせていただこう」大鳥はむっとしたように聞いた。
「この城は守る必要はありませんよ。敵がくる前にさっさとここを出て、今市から日光にかけて布陣す
べきです」
「これは異なことを承るものだ。古来、奪った城を棄てるというのを聞いたことがない」
「この城はね、守れば負けるように造られているんです。つまり守るだけの値打がない。その点、日
光はうしろに山を背負っているし、山伝いに越後や会津とも連絡がとれる」
「それはわかっている。しかし、この城を抑えておけば、敵が日光を攻めるとき、脅かすことができ
る。兵を二つに分けて、ここに駐屯させるべきだ」
 結局、歳三と大鳥の戦略は平行線を辿り、
「わたしは総督として、ここに滞陣することを布告します」と大鳥はいった。


 秋月が、「小耳にした事ですが、後軍の中に靖兵隊と称す一隊が江戸からやってきて、その中に
新選組の方々もいるとか」
「そうですか」歳三は短くいった。靖兵隊ならば、永倉新八や原田左之助たちだろう。
「わたしから総督に進言して、前軍に配備してもらいましょう」
「秋月さん、それは止めていただこう」「なぜです?」
「永倉も原田も役に立つ男だ。わたしとしても懐かしい。だが、もう新選組というものはなくなったの
だ」歳三は声を抑えていった。
 その気持ちを察したとみえ、秋月はそれ以上何もいわなかった。

 中軍の大鳥圭介から伝令がきた。
 敵の主力が南の壬生城に入ったので、前軍は宇都宮と壬生の中間にある安塚へ布陣せよ。とい
うのである。
 歳三は伝令に聞いた。
「敵主力の兵力はどれほどか」「約千八百だと壬生藩士が申しておりました」「主将は?」
「土佐の板垣退助である、と聞いています。18日に江戸を出発し、昼夜を分かたぬ行軍で壬生に入
った様子です」

 大鳥軍は全軍合わせて二千名以上の兵力になっている。
 戦闘は22日の早朝から始まった。大鳥は中軍を指揮して宇都宮街道を南下した。大鳥から見て
右翼の茂呂山よりに前軍、左翼に米田桂次の指揮する後軍を配置した。永倉らはこの後軍にいる。
 大鳥の作戦は、砲撃に負けたふりをして後退する。それを追ってくる敵兵を左右から挟撃して、敵
の砲を奪取するというのだ。
(子供だましだ)と歳三は思った。板垣がどうゆう指揮官か歳三にはわかっている。


 大鳥の中軍は、予定通り退却とみせて敵を誘いこんだ。
「秋月さん、いまこそ出撃しよう。このまま南下して壬生城を攻略するのだ。敵は少数しかいないだ
ろう。わが軍だけで乗っ取ることができる」
「ああ、なんと・・・」秋月は感嘆の声を放った。
 前軍は敵兵の退路を断つ感じで、いっせいに動き出した。敵兵の反撃に備え、一部を残して主力
は壬生を目ざした。

 板垣は、茂呂山の中腹からこの動きを見ていた。むろん大鳥の作戦は看破していた。ゆえに弱兵
に追わせ、敵が左右から挟撃してきた時、敵の後ろから攻撃しようと考えていた。
 だが、板垣の予期に反して、歳三の前軍は壬生に向かったのである。彼はうろたえ、隊長の大石
守高に、
「敵は作戦を変えた。前軍に新選組の残党がいるという噂は本当のようだな。君はあの敵を追え」と
命じた。
「きたな」歳三は雀躍りして、これで甲州の仇がとれるな、近藤さんよ。
「あいつらは、わたしが引き受けるから、あんたは壬生へ進んでくれ」と秋月にいった。すぐに喊声が
起こり、土佐兵が襲ってきた。

 歳三は、手元の兵二百名に、一斉射撃を命じた。
「死ね!」と土佐兵は猛烈な勢いで突っ込んできた。
 こうなれば白兵戦である。歳三は和泉守兼定を抜き放ち、シャグマの敵兵のなかで、大声で指揮を
執っている男を目ざして駆けた。
 一刀両断であった。歳三が斬ったのは大石であった。しかし、相手の士気は衰えなかった。
 白兵戦が続いている最中、壬生城を目ざしていた秋月隊が、応援するつもりか馳せ戻ってきた。
「たわけが!」歳三は群がる敵兵をかき分け、秋月の姿を求めた。

 土佐兵は、歳三一人に攻撃を集中しはじめた。さすがに、土佐兵はよく訓練されていた。それにひ
きかえ歳三の前軍は、よせ集めに近かった。集団戦闘の訓練が不十分で、歳三が指示を与えても
実行されない。

 歳三はようやく秋月を探しあてると、
「どうして戻ってきた。ここはわたしに任せて、早く壬生城を抜くのだ」
「壬生へは一隊を向かわせてあります。それより、あなたを失ってはならない」「わたしは大丈夫だ」
歳三がそう答えた時。
 歳三は右足に鋭い痛みを感じて、その場に倒れた。皮肉なことに流れ弾が命中したのである。秋
月は顔色を変え、
「土方先生、ここはわたしが引き受けますから、いったん退いて下さい」
 歳三は刀を杖にして立ちあがり、
「気にしたもうな。これしきの傷で死にはせんよ」歳三はいい、秋月に早く壬生城攻略に戻るようにい
ったが、秋月はきかなかった。
 このとき、豪雨が戦場一帯に降りはじめた。

 明治後年になってから板垣の回想によると、10メートル先が見えない程の雨で、日没も重なって
自然に引き分けの形で戦闘が終わったという。
 板垣が後で肝をひやしたのは、秋月隊の一部約五十名が、壬生城にたどりついて攻撃をしかけて
きた。とわかったときだった。
 このとき城に残っていたのは、十数名にすぎなかったのだ。負傷して後送された真辺戒作がその
十数名を指揮して城門を閉ざし、一斉射撃を加えた。攻め方はそれにひるみ、一戦も交えず後退し
た。
 城兵がわずか十数名だったとは、誰も気がつかなかったのだ。
「まことに危ないところだった。敵にしっかりした指揮官がいれば、わが軍は壬生を失っていただろ
う、そうなれば、情勢は大いに違ったものとなっていた」と板垣はいっている。


 大鳥は全軍を宇都宮へ集結し、軍議を開いた。
 歳三の傷は思いのほか深かった。大鳥に聞かれたとき、
「なに、大したことはござらぬ。足先を弾がかすったまでのこと」
 と答えたが、実際は骨の一部がくだけており、歩行困難であった。
「一日も早く日光へ移るべきです。ここを守るのは自殺するようなものだ」
 と歳三は主張した。
「そうは思わない。安塚では五分五分に戦ったのだから、城に籠れば有利になる」と大鳥はいった。
 この二人の主張は平行線のままで、他に発言する者がいなかった。
 総督と参謀が対立しているのだ。気まずい軍議になった。大鳥は、
「明朝、再びお集まり願いたい」と宣言して、この夜の軍議を終えた。

 ところが、歳三も予想していなかったことが、翌朝になって起きた。
 板垣軍が夜のうちに進出してきて、宇都宮城を包囲したのである。この日に、結城方面から薩兵
三百名が参謀伊地知正治に率いられてくるという報告を受け、板垣は一気に決着をつける作戦をと
った。
 大鳥は、西に第一大隊、北の大手門に第二大隊、南を靖兵隊に守らせた。

 戦闘は午前九時ごろから開始されたが、すぐに大鳥自身が負傷し、次いで第一大隊長の秋月、
第二大隊長の本田幸七郎も負傷した。いずれも薩兵のもっていた新式のライフル銃に狙撃された
のである。
 大鳥は、もはや守りきれぬと判断し、日光への転進を命じた。
 板垣は、わざと東を空けていて、同時に日光街道を塞いでいた。
 その道筋をバラバラになって逃げてくる大鳥軍を攻撃したのだ。
 大鳥軍の一部は降伏し、結局約一千名が裏道を抜けて今市から日光へ走った。兵力半減であ
る。
 その上、負け戦で全員が沈みこんでいる。

 大鳥の負傷は足に破片が入ったもので、歩行に支障はなかった。彼は、歳三と秋月の陣へ見舞
にきて、
「わたしの失敗だった。その責任を取って、総督を退きたい」といった。
「誰に指揮をゆだねるつもりです?」歳三は問いかえした。
「むろん、あなただ。ほかに人はいない」「わたしは断る」
「そういわずに、引き受けてもらいたい。一千名に減じたが、日光の天嶮をもってすれば戦える。そ
れがあなたの当初からの持論だったはずです」
「それは負ける前のことだ。敗兵を建て直すには時間がかかる。こうなったからには、会津へ行きま
しょう」と歳三は進言した。

 大鳥は渋った。会津藩の指揮系統に組み入れられるのが、面白くないらしいが、妥協して、
「では、あなたと秋月君に先発していただこう。わたしは、兵をまとめてからあとを追う」と大鳥はいっ
た。

 一方、板垣は宇都宮を攻略したのち、すぐに城を出て今市に布陣した。さすがに兵略家である。宇
都宮は守りにくいことを見抜き、伊地知に任せた。板垣の目は、日光の大鳥軍よりも、会津から南下
してくる敵軍に向いていた。

 その一隊は、旧幕臣沼間慎次郎(守一)に率いられた約六百名であった。主力は会津兵で一部は
旧伝習隊の様式軍である。
 沼間は、江戸を出ると会津へ行き、西郷頼母に依頼されて会津兵に様式調練をほどこした。
 歳三らは会津めざして出発した。


「会津戦」へ続く


トップへ戻る     戻る     次へ



inserted by FC2 system