備後歴史雑学 

幕末剣心伝17「天然理心流・近藤勇E」

「新選組崩壊」落日の譜


 慶応4年(1868)1月7日、新政府は徳川慶喜の追討令を出した。
 ついで新政府は慶喜の官位を奪い、幕府領を天皇直轄地とすることを宣言した。さらに東久通禧・
外国事務取調掛が兵庫で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡した。
 これによって慶喜がもっていた経済的基盤や外交権もすべて新政府が吸収した。

 2月3日、天皇自ら慶喜を征伐するという詔が出されるに至って、12日に慶喜は江戸城を出て、寛
永寺大慈院に謹慎した。
 結局、大久保一翁・勝海舟・山岡鉄舟・十三代将軍家定夫人天璋院などの尽力で、徳川家の処分
が寛大になされた。
 慶喜は水戸に向かい、閏4月29日、田安家の亀之助が徳川宗家を相続することになり、さらに5
月24日、徳川家は駿府七十万石の一大名として、版籍奉還まで生き延びることになった。
 かわりに9月20日、明治天皇は東幸のため京都を出発し、10月13日江戸城に入り、ここに将軍
の千代田城は天皇の居城、すなわち皇居となった。


 1月15日、富士山艦で江戸へ戻った近藤勇は、土方歳三とともに登城し、再征の議を閣老に諮っ
た。
 21日に徳川慶喜に拝謁した近藤が、「鉄砲疵は未だ全快仕まつらず」と申したことが記録されて
いる。
 ともあれ、ここにおいて近藤・土方が主戦派としての色を濃くしている。

 2月28には新選組を主力とする甲陽鎮撫隊が編成され、若年寄格となった近藤は大久保大和剛
(つよし)を名乗り、浅草弾左衛門の配下や八王子千人同心などの一部を加え、計二百人ほどを率
いて甲州城乗っ取りに出発した。
 近藤は甲州城を自分の力で手に入れ、ここに慶喜を移そうとする計画を立てたのである。
 この計画は慶喜の内諾を得ていたそうだが、一日新選組の役付すなわち副長土方、副長助勤の
沖田・永倉・斎藤・原田・尾形、調役の大石・川村を呼び集めて右の計画をうち明け、首尾よく甲州城
百万石が手にいらば、近藤は十万石、土方は五万石、副長助勤は各三万石、調役は一万石づつ分
配しよう・・・。
 そこで表面は甲州鎮撫ということになり、軍用金五千両、大砲二門、小銃五百挺を下付される。

 軍事総裁勝海舟が近藤の願意をいれたのは、この爆裂弾のような危険人物を慶喜の前に近づけ
まい所存からなのであった。
 近藤・土方の心中では、江戸城を堅持してあくまで官軍に反抗しようと考えていたようである。


 近藤らが江戸を発ったのは3月1日だった。その日は新宿に一泊した。
 新宿は甲州街道の出発点であり、八王子まで行くのが普通である。甲陽鎮撫隊の歩みが遅いの
は、近藤が大名駕籠に乗っているせいであった。
 町道場の撃剣の師匠がいまや大名格に出世したのである。
「冗談じゃない、これから戦に行くんだぜ」と土方はどなりつけたかったが、わかってくれよ、といわん
ばかりの近藤の顔を見ると、
「しょうがねえな」というしかなかった。
 二日は府中に泊り、三日は土方の郷里である日野で休憩ををして、名主の佐藤彦五郎邸で昼食を
とった。

 伝え聞いた数十人の若者たちが佐藤屋敷に押しかけ、近藤の前に平伏して、「どうかご家来の端
にお加え下さい」と懇願した。
 近藤の話を聞いている限りは、出世する絶好の機会なのである。
 近藤は困ったように歳三の顔を見た。土方が一同の前に立ち、
「よく聞け、近藤先生のお伴を許されるには、それにふさわしい資格が必要である。まず理心流を学
んで目録以上の許しを得た者は、前へ出よ」三十五名が進み出た。集まった者の半分以上である。
(多すぎる)
「では、もう一つたずねる。いま前へ出た者のうち、家の後継ぎに定められている者は手を挙げよ」
十五名が挙手した。
「その者たちは下がれ」
 そのあと土方は、佐藤彦五郎に近藤用の馬を依頼した。
「ただちに出発する」と土方は号令を発した。
 与瀬に着いたところで日が暮れた。

 土方は、日野で入隊した者の中から、馬に乗れて甲州の地理に通じている者を選び、甲府城代の
佐藤駿河守にあてた書状を持たせた。
(会津藩兵の一部を含む約三千名の甲陽鎮撫隊が笹子峠を経て勝沼から甲府へ向かうにつき、迎
えの用意を怠らぬように)という内容である。


 翌4日、甲陽鎮撫隊は笹子峠を越え、5日の昼ごろ勝沼に達した。甲府はもう指呼の間である。
 そこへ使いに出した者が馬を駆って戻ってきた。板垣軍約一千名が甲府城に迫り、佐藤城代はあ
っさり降伏したというのである。
(やはり二日遅れたか)と土方は思った。

 それより、近藤・土方にとって痛かったのは、敵兵一千名と聞いて隊士たちの間に動揺が生じたこ
とだった。新選組を除いて、まだ実戦を経験したことのない者たちなのである。
「歳、どうする?」と近藤が聞いた。
「勝沼と石和の間に栗原というところがあって、やや平地になっている。そのあたりが主戦場になる
だろう。こちらは高いところに陣を敷き、運んできた砲二門で対抗すれば夜までは保つ。そのあと俺
が永倉や原田を率いて夜襲をかける。うまくいけば、敵は総崩れになる」

「二百五十名ではどうにもなるまい。お前が応援を求めに神奈川へ行ってくれ。菜葉隊がきてくれれ
ば、皆も奮い立つ」
「そりゃ無理だ。ここから神奈川まで早馬でもまる一日、準備に一日。かりに千名がきてくれるとして
も、往復四日。とうてい保つまいよ」
「なあに、こちらは三千名の兵力だと甲府へ知らせておいた。それが役に立つ。敵は一千名という
から、押し出してはこないだろう」
「そうだな、板垣という男が凡将ならば動くまいがね」

 土佐における軍略家として他藩にまで知られていたのは、乾退助であった。近藤・土方もその名な
らば聞いていた。
 乾退助は、武田信玄の謀将板垣信形の血筋を引いていた。京を出たのち大垣で旧姓に復した。
甲府を攻めるには、都合がよかったからである。
「わかった。敵が凡将であることに望みをつないで、神奈川へ行ってみよう」土方は馬に飛び乗り、
月の薄明りを頼りに駆けた。


 甲府城内で板垣が軍議を開くと、大半の者が、
「敵は三千。ここは城に籠って、守りを固めるべきです」と主張した。
 板垣は一喝した。

「三千名の大軍など、やってくるものか。せいぜい三百だろう」
 板垣は土佐兵のなかで、もっとも勇猛な士官である小笠原謙吉に先鋒を命じた。そして砲隊の士
官に砲五門をもって石和へ進むよう命じた。

 近藤は、街道に急造の陣地を築き、二門の砲を山腹に据えた。夜になると、兵の一人一人に炬火
を持たせて散開させ、いかにも大軍が駐屯しているように見せかけた。
 近藤にとって痛手だったのは、籠城すると期待していた敵が出撃してきたことであり、それが兵た
ちに伝わると逃亡する者が続出したことだった。
 夜が明けて点呼をとると、兵は半減して百二十余名になっていた。

 板垣は兵を二手に分け、近藤隊を前後から挟み撃ちにしてきた。
 近藤は片手で剣をふるい、かろうじて脱出した。永倉新八・原田左之助も命からがら退却し、いっ
たん八王子へ退いた。

 近藤は敗走の途中、八王子で隊を一応解散し、本所の大久保主膳正の邸で再開するよう約束し
た。
 一足遅れて大久保邸へたどり着いた近藤だが、その間に永倉新八や原田左之助は、新たに隊を
編成して会津に走る相談をした。
 結局ここで永倉・原田らと袂を別ってしまう。

 板垣の率いる東山道軍は、甲陽鎮撫隊を一蹴したのち、破竹の勢いで八王子・府中と進み、3月
14日新宿に本営を設けた。


 近藤と土方らは、五兵衛新田(綾瀬)の金子家に五十名ほどの隊士と押しかけ、3月14日から4
月1日まで居座っている。
 その間に近藤たちは、旧幕府の陸軍奉行並だった松平太郎と連絡をとり、指示を待っていたもの
と思われる。

 4月2日には流山に移った。その一隊が政府軍(薩摩の有馬藤太の率いる部隊)に包囲された。
 流山での近藤勇就縛と、板橋での処刑はよく知られているが、この時の捕われ方については諸説
ある。
 もっとも普遍化しているのは、近藤勇はもう疲れたと言って、土方が止めるのを振り切って、有馬藤
太に「幕臣大久保大和」と名乗り、
「不穏な旧幕兵の鎮撫に出張しているので、官軍に対しては、いささかの叛心もない」と告げたとい
う説である。
 また近藤が自首することで、土方たちを逃げ延びさせる時間稼ぎをしたのだ、という解釈が付され
ている。

 板橋の政府軍の陣営に行くと、旧高台寺党の加納道之助がいて、
「やあ、近藤さんしばらく」と、その正体を見破られ、斬首されたというものである。
 就縛後、薩摩藩の寛大論に対して土佐藩は極刑論を唱えた。
 仮にも最後は直参に擬された武士を、浮浪の徒として扱い斬首の上、近藤の首は京の三条大橋
の畔にさらされた後、大坂でもさらされた。

 近藤にとって不幸だったのは、土佐出身の香川敬三や谷守部(干城)がその取り調べに当たった
ことだ。
 彼ら土佐人は、坂本龍馬や中岡慎太郎を暗殺した下手人を、新選組と思い込んでいたのである。

 幽閉中に近藤は次のような漢詩を作っている。
「孤軍援絶えて俘囚となる かえりみて君恩おもえば涙更に流る 一片の丹衷よく節に殉ず ?陽千
古これわが儔」
「他になびき今日また何をか言わん 義をとり生をすつるは吾が尊ぶところ 快く受く電光三尺の剣 
ただまさに一死もつて君恩に報いん」

 慶応4年(1868)4月25日の朝、近藤勇は板橋の刑場で処刑された。
 享年35歳。
「34年の馬鹿騒ぎであった。我愛刀虎徹にてお願いできれば、思い残すこと無し」の心境だったの
ではあるまいか。

 ちょうどその頃、土方歳三は日光口今市の戦いに敗れ、負傷して会津へ向かう途中だった。
 土方には島田魁や中島登ら六人の隊士が同行している。しかし近藤の処刑を知ったのは、かなり
後のことであった。


近藤勇の肖像画


天然理心流の奉納額


近藤勇使用の木刀と勇が京から江戸へ持ち帰った刀
銘は大和守源秀国、愛刀の虎徹は偽名という説が多い


「沖田総司」へ続く


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