備後歴史雑学 

[宇喜多直家D]
 浦上宗景は三村氏滅亡の前、嫡子松之丞宗次の妻に宇喜多直家の娘を迎えていた。そうすれ
ば、直家が主君であるうえに姻戚となった宗景を攻めることはなかろうと考えたのである。
 だが直家は宗景が思っているような単純な性格ではない。天正元年の頃から、宗景を攻める名分
をひそかにもうけていた。
 宗景はかつて兄政宗のあとを継ぎ、浦上本家の当主として播磨室津城にいた甥の忠宗を暗殺し
所領を奪った。殺された忠宗の妻は、播州姫路城にいる小寺(黒田)官兵衛孝高の娘であった。官
兵衛は忠宗の遺子久松丸を播磨置塩で養育していた。
 直家は天正元年に久松丸を岡山城へ迎えようと考え、官兵衛に申し入れた。官兵衛は謀将であ
る。直家の心中をすみやかに読みとったが、久松丸の今後を考えると、彼を後楯とするのに異存は
ない。直家はただちに久松丸と家来たちを岡山城中へ迎えた。直家は浦上宗家の遺子を奉じ、分
家の宗景を討つ名分を得た。宗景はこのような事情を知らなかった。

 三村攻めが終わった天正5年(1577)の夏、宗景の嫡男宗次が岡山城へ直家の機嫌伺いにおと
ずれた。直家はおおいに喜び歓迎の酒宴をひらいて、手厚いみやげを与えた。宗次は喜んで天神
山城へ帰ったが、その夜息をひきとった。29歳の最後であった。宗景は身を震わせて言った「おの
れ直家め、非道にもわが娘婿に毒を盛りおったな・・・人非人じゃ」
 直家は宗次を毒殺してのち、ただちに天神山城攻略の支度にとりかかった。わが娘の安否など探
るすべもなかった。同年9月直家は久松丸を奉じ、岡山城を出陣した。播州浦上宗家の軍勢と称し
天神山城を攻め、宗景を追い落とした。
 宗景は東播磨最大の強豪、三木城の別所長治を頼り、京都へ出て信長に謁見し、家来の宇喜多
氏に城領を奪われたことを告げた。信長は宗景を中国侵略の尖兵に用いようと思いつき彼を歓待し
たが、内心では宗景を見限っていた。
 宗景はその後、播磨御着城の小寺政職、三木城の別所長治ら、東播磨の強豪たちのもとに寄食
し旧領回復の機をうかがったが、ついに奪回の日はこなかった。
 宇喜多直家は、浦上宗景を追放したのち、天神山城を廃した。


天神山城跡西より望む:ポインターを当てると北面になります

 前年の天正4年毛利輝元は織田信長に糧道をたたれた大坂石山本願寺の救援をはじめた。7月
13日毛利水軍は木津川口で、織田水軍を壊滅させた。
 天正5年3月15日信長はようやく紀州雑賀衆を降参させた。宇喜多直家は3月20日万余の軍勢を
率い、備前から播磨へ乱入し、赤松勢を撃破した。4月23日吉川元春、小早川隆景ら毛利勢5,00
0余が播州室津に着陣した。信長は羽柴秀吉、荒木村重を作用郡に出動させ、さらに惟任光秀、滝
川一益、丹羽長秀を播磨へ、織田信忠、北畠信雄を加古川へ着陣させた。
 毛利勢は織田諸軍の対応を見て兵を引いた。直家は上月城、福原城、利神城に守兵を置き岡山
城へ凱旋した。

 秋になって織田の武将羽柴秀吉勢5,600余人が、10月23日播州国境に到着した。秀吉の与力
として、摂津伊丹城主荒木村重が800の兵を率い参陣した。秀吉は黒田官兵衛の居城姫路城に
入った。羽柴勢は宇喜多方の上月城と福原城を、11月27日から七日間の攻撃によって陥れた。そ
の後、上月城は羽柴方の山中鹿介率いる尼子勢との間で争奪戦を繰り返していた。
 直家はみずから出陣して上月城を奪還しようと万余の軍勢を集めた。だが情報収集に長けた山中
鹿介は細作の知らせで、尼子勝久に退却をすすめた。直家が大軍を率いて上月城に近づくと、尼子
勢はこっそり城を脱け出して退却した。直家は笑って軍をかえし、侍大将上月十郎景貞に矢島五郎
七という武将を付けて、上月城主とした。
 今度は秀吉が姫路を出て、上月城を完全に包囲した。これまでにない二万の大軍である。上月、
矢島は懸命に防戦するが、数日の死闘のうちに矢島は討死を遂げた。羽柴勢は猛攻を続け、つい
に城を陥れ、たて籠っていた士卒、百姓をすべて捕えた。秀吉は上月十郎には腹を切らせたが、残
る城卒たちは上総踊りの刑罰で皆殺しにした。蓑笠を着せた城卒に火をかけるのである。さらに城
中の婦女子200余人を、子供は串刺しに、婦女を磔にして虐殺した。処刑がおこなわれた谷間は、
磔谷と呼ばれるようになった。
 秀吉は処刑が終わると、再び尼子勢をこの城に入れた。時に天正6年正月。総勢2,300人であ
った。上月城を攻略した秀吉は、余勢をかって福原、利神など宇喜多方諸城をことごとく落として、
播磨全土を制覇した。
 天正6年2月23日秀吉は播磨加古川城で、国中の地侍を招集し毛利攻めの軍議をひらいた。この
席で、別所長治の叔父吉親が、秀吉の態度に不快を感じ、三木城に帰城ののち長治に毛利に与す
るよう進言した。赤松円心以来の伝統を誇る別所長治は、丹波の波多野一族と親戚であった。波多
野氏、石山本願寺、毛利氏と呼応して織田信長に敵対すれば、敗北するおそれはなかろうと判断し
た長治は、三木城に籠城し秀吉と戦う決意をかためた。
 三木城の塀を高くし濠をひろげる普請にとりかかるとともに、東播磨の諸将に同心するよう激を飛
ばした。志方城の櫛橋左京亮、神吉城の神吉長則、淡河城の淡河弾正忠、高砂城の梶原平三兵
衛、野口城の長井四郎左衛門、端谷城の衣笠豊前守らは人質を三木城へ送り、行動をともにするこ
とを誓った。羽柴勢を迎えうつほどの城砦を持たない地侍たちは、一族を率い三木城へ参集する。
三木城の籠城軍兵は7,500人に達した。

 3月12日、毛利輝元は別所長治に呼応し、小早川隆景以下の将士二万八千余人を率い播州へむ
かった。児玉内蔵允ら水軍は、大船700余艘で播州の沿岸を制圧する。吉川元春は二万三千の兵
を従え出雲富田城を出て、播州をめざす。
 毛利勢はまず上月城を包囲した。宇喜多勢は参陣したが、直家は病と称し岡山城を出なかった。
直家は今後の状況によっては、毛利を捨て織田に就かねばなるまいと考えていた。
 まもなく三木城を取り囲んでいた秀吉が、上月城救援にあらわれた。秀吉は高倉山に陣を敷い
た。
 毛利勢には紀伊雑賀の鉄砲衆も加わり、南蛮渡来の大筒を放って上月城の水の手櫓を撃ち崩し
た。
 信長は長男信忠および次男信雄と三男信孝に二万余(一説には四万)の軍勢を与えて救援に派
遣したが、出陣した諸将が秀吉に対する反感から本気で戦わず、戦況は膠着状態に陥ってしまっ
た。
 直家は織田の大軍が上月城に迫ったとき、播州飾磨に在陣する織田信忠の本陣へ使者をひそか
につかわし、合力を申し出ていた。信忠は直家の申しいれをうけいれたが、直家内通の噂は毛利側
に聞こえていた。
 6月下旬の朝、高倉山の秀吉陣から大勢の軍兵が水浴びに出てきた。宇喜多勢の中村三郎左衛
門という侍が、河畔の木陰に伏兵を置き待ちかまえていた。中村の指揮する足軽勢は鉄砲を撃ちか
け、ときの声をあげ襲いかかった。
 織田勢は急を聞いて駆けつけ、小人数の中村勢を取り巻いた。ただちに宇喜多の陣所から助勢
の人数が押し出した。敵味方の人数がしだいにふえ、織田が二万、毛利が一万余となり、三ヶ所に
わかれ白兵戦を展開した。双方の死傷者はおびただしく、互角の戦果であったが、そのあとまもなく
秀吉は大軍を引き揚げ姫路の書写山へ退陣した。上月城を見捨てねば損害がふえるばかりで、播
州をも押さえ難くなろうとの信長の下命に従ったのである。
 尼子勢は落胆して、7月1日毛利輝元のもとへ使者をつかわし、降伏を申し出た。城兵の助命を条
件に、7月3日尼子勝久を自刃させ上月城を奪回し、備後鞆ノ津へ護送途中の山中鹿介を備中阿
井の渡しで殺害して禍根を絶った。

 直家は岡山城にいて、案に相違した事態の進展に驚いて兵を率い、上月城落城ののちしばらく滞
陣していた小早川隆景、吉川元春に対面し、賀詞を述べた。
 毛利の侍大将杉原盛重は、織田に内通していた直家をこの場で討ち取るべきであると主張した
が、隆景は盛重を制して直家を無事に帰した。直家は岡山城に戻ってのち、使者を隆景、元春の陣
所へつかわし、今後の協力をかさねて申しいれた。また「御両所の戦陣の労苦に報ゆるべく、われ
ら家中をあげて御両所を歓待饗応申し上げたい。ついては御両所には安芸への御帰還の際、曲げ
て岡山城へ御来駕給わりたい」と、隆景と元春を岡山城へ招待しようとした。
「これは、直家が饗応招待にことよせて岡山城へおびき出し、御両所を討ち取る陰謀である」と、進
言する者があった。上月合戦で宇喜多軍の先鋒をつとめた中村三郎左衛門である。彼はかねて毛
利家に通じていた。さすがに隆景と元春は、この通報を信じなかったが、大事をとって直家の招待を
辞退して、予定していた備前領通行もやめて、隆景は播磨の奈波坂越より海路をとり、元春は北方
の作州路を通って早々と安芸へ帰国した。
 細作の通報で、このことを知った直家は激怒して、すぐさま騒動の張本人中村三郎左衛門を誅殺
して禍根を除いた。疑心暗鬼は残りながらも、なお宇喜多と毛利の同盟関係はつづいていた。

 7月16日、海賊大名九鬼嘉隆と滝川一益の座乗する装甲船六艘、大安宅船一艘が大坂湾に入
り、木津川沖に碇泊して、石山本願寺と毛利水軍との連絡を完全に遮断した。
 直家は、攝津国を支配する荒木村重が、6月に秀吉の副将として播磨の神吉城を攻略した際、不
審のふるまいをしたことを小西弥九郎から告げられていた。神吉城は23日の防戦のすえ、7月16日
に陥落したが、村重は城主神吉長則の伯父藤太夫と旧知の間柄であったので、殺すに忍びず逃が
したのである。藤太夫は家来とともに三木城へ走り籠城勢に加わった。
 織田の武将丹羽長秀、滝川一益が村重の行動を疑った。村重は長秀から詰問されると、播磨から
にわかに兵を引きあげ、居城の摂津有岡城へひきこもった。息子の荒木村次は尼崎城、従兄弟の
荒木村正は花隈城、荒木重堅は三田城、中川清秀は茨木城、村重属将高山右近は高槻城に、そ
れぞれ在城している。
 10月17日、村重は信長に背き、義昭、毛利、本願寺に通じた。村重は父子血判の誓書を本願寺
に送り、息女を人質として差し出した。信長は思いがけない村重の離反を知ったが、対応の手立て
がなかった。信長は窮地を逃れるため、朝廷に本願寺との和議を奏請した。村重謀叛ののちは、一
刻も早く戦線を縮小しなければならない。
 直家はそれを聞いて膝を叩いた。「信長はよほど困じはてておるに違いねえぞ。毛利が織田に仕
懸けるのは今をおいてなかろうが。すぐに輝元に使いをたて、上方へ攻めのぼるようすすめよ。儂が
先手をつとめるけえ、勝利は疑いなしと申せ」直家の使者が安芸へ走ったが、輝元は織田との戦い
をためらった。

 輝元が決断を下せずにいるあいだに、信長は村重の有力な属将高山右近を説得した。右近と父
飛騨守はキリシタンであるので、イエズス会のオルガンチーノを監禁し、織田政権に敵対するならば
司祭、信徒のすべてを成敗すると脅迫した。また、惟任光秀を有岡城へ遣わし、荒木村重に翻意を
促させたが、交渉は不調に終わった。
 秀吉も黒田官兵衛を有岡城へ出向かせ村重説得にあたらせたが、官兵衛は城中に監禁されたま
ま帰らなかった。
 宇喜多直家は、この好機を逃がさず播磨を攻めれば、織田勢をたやすく駆逐して天下の大勢を一
変せしめることができようと、毛利輝元を懸命に促す。荒木と盟約を交わし、ようやく強気になった輝
元は、石山本願寺へ米を運ぶため、兵船600余艘を大坂へむかわせた。

 11月6日、毛利の船団は木津川沖へ迫った。織田水軍を指揮する九鬼嘉隆は、六艘の鉄船と一
艘の大安宅船を木津川河口に置き、小早船数十艘に周囲を固めさせる。
 600艘の毛利の兵船は、夜明けとともにはじまった戦いで小早船を一掃し、鉄船に迫った。毛利
勢は鉄船の攻撃に前回同様火船を用いた。大安宅船はたちまち炎上した。だが、鉄船は燃えあが
らなかった。
 九鬼嘉隆は鉄船の天守にいて、毛利の安宅船が舷を接するほどに近づいたとき、すべての火砲を
発射させた。形勢はたちまち逆転した。
 毛利水軍は主力の大船を織田装甲船団の砲撃によりほとんど破壊され、牛の刻(正午)までに沖
合へ退却していった。大坂湾の制海権奪回に失敗した毛利水軍は、勢力下に納めていた攝津の海
岸線を放棄し、撤退せざるをえない窮境に追いこまれた。

11月9日、信長は尾張、美濃の大軍を率い、高槻城の前面に布陣して、ふたたびオルガンチーノに
高山右近の説得を命じた。右近は「伴天連沙弥」として仏門に入ることに決め、俗世の縁を絶って高
槻城を開城した。
 信長はさらに11月18日、茨城城を取り囲んだ。守将中川清秀は24日の夜、織田勢と砲火を交える
ことなく開城した。
 信長は28日、三万の軍勢で有岡城を包囲した。
 毛利輝元は有岡城、尼崎城、花隅城へそれぞれ四、五百人の援軍を送るいっぽう、軍船300余
艘を高砂、明石の海岸に着船させ海岸に要害を築き、三木城へ兵糧弾薬を補給するルートを確保し
ようとした。
 翌天正7年(1579)2月11日、毛利の来援を待ちわびていた三木城の別所勢は、独力で羽柴勢に
決戦を挑んだが、兵数のまさる羽柴勢を潰滅させる見込みもなく、おびただしい死傷者を収容して三
木城に戻った。この戦闘で羽柴勢も大きな損害を受けたが、籠城勢の戦力もまた消耗し、別所氏の
退勢挽回はならなかった。
 4月になって、信長は丹羽長秀、筒井順慶、織田信忠を秀吉の援軍としてさしむけた。4月26日織
田信忠は飾東郡御着の小寺政職の居城を攻め陥落させて、三木城への補給路を遮断した。
 三木城攻めの様子をうかがっている宇喜多直家は、毛利の力が織田に及ばないことを見極めた。

 天正7年6月13日、三木城を包囲する秀吉の平山本陣で、肺をわずらい病を養っていた竹中半兵
衛重治が陣没した。享年36歳であった。
「黒田官兵衛も有岡へ出向いたまま、戻ってこぬに、こののちは小一郎(秀長)と小六(蜂須賀)を頼
らにゃならんだわ」
 窮境に陥りかねないと思った秀吉は、岡山城下の小西弥九郎に使者を送り、宇喜多直家の誘降
を命じた。弥九郎は直家にさっそく秀吉の意向を伝えた。「三木城は、城内8,000の者どもは飢え
に苦しみ、もはやあと半年とは保ちませぬ。有岡城にたてこもる荒木もまた、高山右近、中川清秀
に叛かれしのちは、これも半年とは支えられませぬ。殿には、いまのうちに信長公に降参なされて
はいかがでござりましょうか。三木城が落ちたのち、羽柴勢が岡山に向こうて参るはあきらかと存じ
まする。さいわい、いま秀吉殿より手前のところへ、お誘いの使者が参っておりますれば、色よきご
返答をなされませ。さすれば備前一国はもとより、備中もご領分となりましょう」
 直家は弥九郎の誘いに応じた。直家の脳中は冴えわたっていた。彼は宇喜多家存続のために
は、織田に就くよりほかに方途がないと決断した。

 9月2日の深夜、荒木村重は一族郎党を見捨て、有岡城を出て織田の攻撃をうけても毛利と連絡を
とって、退路を確保しやすい尼崎城へ退いた。
 明智光秀が丹波、丹後を平定し波多野氏が潰滅したため、有岡城は織田の勢力圏に孤立するこ
とになった。
 9月4日、秀吉は安土城へ出向き信長に謁して、言上した。「かねてより毛利に離反いたし、われら
に合力して参りし宇喜多直家の降参ご赦免の筋目を、申しあわせてござりまする。なにとぞ上様ご
朱印を下されませ」信長は顔を朱にして声高に罵った。「猿めが、思いあがりしか。儂の存念をうか
がいもせず、しめしあわすの条々、曲事だわ。問答無用、早々に三木表へ立ち返れ」秀吉は倉皇と
して御前を退出した。
 直家は信長が自分の降伏を拒んだとの通報を秀吉から受けると嘆息した。
「信長はよほど用心深い大将じゃなあ。儂をよう見抜いておるぞ。おえんのう。降参するには、ちと毛
利を攻めにゃあならんぞ」
 直家は主立った家来を城内へ呼び、軍儀を開いた。重臣たちのあいだには、毛利と断交するのを
危ぶむ声が多かった。直家は家老たちがためらうのは、毛利家へ人質として差し出している弟忠家
の次男、左京詮家(のちの津和野城主「坂崎出羽守」で大坂落城の時、千姫を救出した)の安否を
気遣うためであると察した。しかし毛利輝元は左京詮家を無条件で無事に帰したので、輝元の評判
は備中、備前一帯にひろまった。
※森本繁氏の説では:毛利家に人質として差し出していたのは、主席家老富川平右衛門の次男孫
六で、たまたま岡山城下を通りかかった、毛利の外交僧安国寺恵瓊を城内に招き監禁して、富川孫
六と人質交換したとある。
 人質を取り戻した直家は、まず備中に出兵して清水宗治の居城高松を包囲させた。ついで、美作
高田城の西南6キロの月田と東南8キロの宮山に新城を築き、高田城と備中の連絡を遮断した。
 荒木村重が尼崎城へ移ってのち、有岡城は10月15日に配下の武将中西新八郎が、滝川一益の
調略により、織田方へ寝返った。城兵は降参を申し出たが信長は許さなかった。敵方へのみせしめ
に、すべて撫で斬りにするという。11月になって、有岡城は落城する。信長は捕えた妻子一族郎党6
00余人を尼崎七松で虐殺した。村重は毛利氏を頼り剃髪して道薫と号す。晩年茶人として秀吉に
仕え、千利休の門弟七哲の一人に数えられた。
 
 直家が包囲させた備中高松城は、城主清水宗治の健闘によって囲みが解け、高田城も依然とし
て毛利氏の手中にあったが、信長はこれによって、直家の毛利氏への敵対行動を公式に認め、本
領を安堵するとの信長朱印状が届いた。同月30日直家は甥の与太郎基家を、伊丹に在陣している
織田信忠のもとへ派遣して、謝辞を述べさせた。それがすむと、みずからも播州姫路城を訪ねて、
親しく秀吉と対面して講和斡旋を感謝した。このあと直家は、秀吉の取り次ぎで正式に信長の家臣
となった。従五位下宇喜多和泉守直家。信長が朝廷に執奏して、直家に与えた官職である。

 直家は信長に忠勤をつくすため、美作の毛利勢に対する攻勢を強めた。花房助兵衛職之と延原
弾正に命じて、赤坂郡周さい城と飯岡城の二城を陥れ、さらに海田村鷹巣山城をも席捲し、三星城
に襲いかかった。城主後藤左衛門尉勝元の妻は、直家の娘千代であるが、親子の縁をかえりみる
こともない。城内には直家に滅ぼされた浦上宗景の旧臣らが、140数人の兵とともにかくまわれて
いた。後藤勝元は配下の500余人を指揮して防戦する。
 宇喜多勢が三星城ヘ押し寄せてゆくと、途中で生還を期さない覚悟の、浦上旧臣たちの伏兵に横
槍を入れられ、宇喜多勢は総崩れとなり湯郷村まで退却した。花房・延原両将は、岡山城ヘ援軍の
派遣を懇請した。
 直家はきびしい戦況を知ると、ただちに宇喜多左京詮家を援軍の大将として派遣した。だが、宇
喜多勢は天然の要害である三星城を攻めあぐんだ。
 直家は花房助兵衛らに、忍びの者を城に入れて付け火させよ。と命じた。北風吹きすさぶ宵、城
内へ潜入した忍者たちは、いっせいに諸所へ放火した。城兵たちは手桶で水を運び、懸命に消火に
つとめるが、水利の不便な山城であるため、火焔は勢いを増すばかりである。待ちに待った寄せ手
の好機である。花房・延原は一斉に総攻撃をかけた。城主後藤勝元とその妻千代は、近習28騎に
護衛されて、ようやく血路を開いた。険阻を越えて入田山の山境まで逃れたが、宇喜多勢の必要な
追撃にあい、ついに長内村の隠れ坂で追いつめられ、全員大安寺に籠って自害した。勝元の首級
は延原弾正が実験したのち、直家のもとへ送られた。
 直家は三星城を攻めるいっぽう、忍山城(岡山市上高田)に猛攻を加え陥れた。さらに美作祝山城
(津山市吉見)に兵を向ける。

 毛利輝元が小早川隆景とともに、備中に着陣したのは天正7年12月中旬である。吉川元春は織
田陣営に寝返った南条元続を討伐するために、伯耆の羽衣石城攻撃に向かっていたが、急遽軍勢
を返して備中へ南下した。羽衣石城攻めは侍大将杉原盛重、宍道隆慶を向かわせた。
 総勢三万の毛利軍は12月24日、宇喜多勢の籠もる忍山城の総攻撃を慣行した。忍山城には、浮
田信濃守と、岡剛介が約千人の兵とともにたて籠っていた。25日の夜、毛利軍への内通者が出た
ため城に火の手があがり、城将浮田信濃守以下530余人が討死したのである。このとき不死身の
岡剛介は、辛うじて城から脱出して、救援にやってきた宇喜多勢に救助された。
 忍山城を手中におさめると、毛利軍は予定どおり美作へ向かって進撃した。だが、直家に背後を
衝かれることを恐れた輝元は、備前国境の諸城に武将を入れて防備を堅固にした。
 まず清水宗治の守備する備中高松城を中核に、南4キロの加茂城に桂広繁、・上山・生石の三将を
配置させた。つぎに加茂城の南2キロに位置する日幡城には、備中甲山城主上原元祐を入れた。こ
の上原元祐の妻は輝元の叔母である。さらに日幡城の南4キロにある松島城には、隆景の重臣梨羽
景連、松島城の東4キロの庭瀬城にも隆景の家臣桂景信と井上豊後守を配置した。これに高松城の
北方にある宮路山城と冠山城を加えれば、直家の備中侵入に対して毛利軍の防禦陣は鉄壁の構
えとなる・・・備中防衛線の七城という。

 年が明けた天正8年、いよいよ美作で宇喜多軍と毛利軍の衝突が始まった。毛利軍の目標は、宇
喜多軍の重囲下に苦しんでいる祝山城の救援である。2月2日輝元は本陣を美作の月田城へ進め、
2月9日宇喜多方の小寺畑城を落とし、続いて17日大寺畑城を落とした。3月上旬吉川元春は、毛利
軍の本拠となった大寺畑城と苦境に瀕している祝山城をつなぐ繋ぎの城を苫田郡内に築いた。
 宇喜多勢は羽柴秀吉の後援を得て美作に兵を送り、毛利勢を攻めてきた。
 祝山城があまりにも美作の北部に偏在しているため、退路を絶たれる危険性がある。そこで輝元
は、このあと始まる祝山城救援作戦に後顧の憂いがないよう、隆景に命じて備前岡山城を直撃させ
た。
 3月13日、隆景は備中防衛線七城の将卒を動員した。総勢一万五千の兵力で岡山城の西6キロ
にある辛川口へ進んだ。さらに桂右衛門大夫景信の指揮する備中庭瀬の城兵は、湯浅将宗、長井
親房、栗原右衛門の軍勢と協力して辛川口の南6キロの備中今保へ進出した。
 いよいよ両軍の雌雄を決する備前平野の激突が始まるのである。

 直家は自ら陣頭に立ち采配を振るおうとしたが、生憎この頃から身体に不調を生じ、病床に臥せ
る日が多くなった。代って弟の忠家が宇喜多軍の総帥となって、八千ほどの兵力で岡山城から出陣
した。
 宇喜多勢は、矢坂村から一宮の手前まで七段の陣列を敷いて待ちかまえた。本隊から離れて、富
川助七郎が一隊を率い、辛川村の山蔭に隠れて伏兵となった。それとは知らぬ毛利軍の先陣は辛
川村を素通りして正面の宇喜多軍本隊めがけて直進して来た。たちまち先陣同士で激しい戦闘が
始まり、兵力において優勢な毛利軍が敵陣深く突入した。
 富川助七郎は、先陣につづく毛利軍本隊が辛川村を駆け抜けた。直後鉄砲をつるべ撃ちに発射
し、「わっ!」という掛け声とともに毛利軍本隊の背後を衝いた。毛利勢がうろたえたとき、宇喜多の
本隊が七段にそなえ押し出してきた。彼らは隆景本陣へ殺到する。「なんの、敵は小勢ぞ備えを固
め、突いてでよ!」隆景は馬上から味方を叱咤した。が、今度は近くの山上から敵の弓鉄砲隊が、
どっと喚声をあげながら矢玉を撃ちかけてきた。矢玉は雨霰のごとく降り注ぎ、その中を宇喜多勢
は、四方から襲いかかってくるので、毛利軍はもうどうすることもできない。
「引け、引けい!ひとまず退却じゃ」機を見るに敏な知将小早川隆景は、味方に後退を下知した。一
万五千人の大軍がついに総崩れとなり、備中へ潰走していった。宇喜多勢は追撃したが、深追い
せず引き揚げていった。
 富川助七郎(名を逵安みちやすといい富川平右衛門の嫡子である)は13歳の初陣で、大功をあげ
た。
 明禅寺合戦以来の、胸のすくような大勝利である。

 備前辛川口の合戦に大勝を得て、直家はにわかに攻勢に転じて、宇喜多勢二万があいついで美
作へ進撃し、毛利勢と戦い、敵陣へ寝返った垪和の高城を攻め、叛将竹内為能を追放して城を占
領した。様子を見ていた織田信長も、直家の要請にこたえて備中南部へ兵を送ると約束した。
 そのため輝元は祝山城の救援を断念して、寺畑城から南下し、元春を美作の押さえとして梅森に
残し、隆景とともに備中竹ノ荘へ本陣を移した。備前加茂の虎倉城を落として備中と美作の連絡路
を確保するためである。

 虎倉城攻撃は天正8年(1580)4月14日から始まった。城主の伊賀左衛門尉久隆は、直家とは
一心同体の関係にあったので、戦意はすこぶる高い。
 毛利軍は上加茂の清常城に本陣を置き、そこから三宅坂を登って虎倉城へ攻め寄せた。先鋒は
粟屋与十郎元信と小寺木工允就武に率いられた小姓衆であった。久隆はこれを知ると、両側の峰
筋に300人の弓鉄砲隊を配置し、一斉に弓鉄砲の乱射が降って来た。混乱する毛利勢に、今度は
城中から久隆に率いられた城兵が襲いかかる。毛利軍はたちまち崩れたって退却を始めた。粟屋と
小寺は声を合わせて味方を叱咤したが、粟屋が胸板を撃ち抜かれて山坂を転がり落ちた。つづいて
小寺も追いすがる城兵によって射殺された。これを立て直したのは、山縣三郎兵衛の毛利軍鉄砲
隊である。伊賀軍鉄砲隊とのあいだで、本格的な銃撃戦が始まった。
 伊賀軍には遠藤兄弟によって育成された鉄砲足軽隊があり、地の理を利用して巧みに鉄砲を撃ち
かけ、野ざらしの毛利軍将兵がその標的にされた。この戦闘で毛利軍は豪の者40余人を戦死させ
た。惨憺たる敗北である。この敗北によって、毛利軍は宇甘川沿いに加茂市場めがけて退却した。
伊賀勢はなおも追撃の手をゆるめず、毛利勢250余人を討ち取った。追撃の伊賀軍の中では土居
某の騎馬が毛利陣中に暴走して討ち取られた他は、誰一人戦死者がなかった。
 毛利戦史に汚点を残す加茂崩れである。

 加茂崩れのあと毛利軍は加茂川西岸の勝山に対塁を築き、輝元は5月5日に備中松山城に陣を
移して、ついで後事を隆景に託して安芸の吉田へ帰還した。
 備中の陣地に残った隆景には、3月の辛川口の敗戦と、それにつづく4月の虎倉合戦の加茂崩
れ。思い出しても反吐の出そうな屈辱の敗戦である。
 隆景は思案の末、一計を案じた。伊賀久隆謀叛の噂を広めて、直家の手で抹殺させるに如かずと
考えた。ひそかに忍びの者を備前へ派遣して、宇喜多家中の様子を探らせた。すると、家中に難波
半次郎という家臣がいて、直家の織田氏服属に不満を持ち、密かに誼を毛利氏に通じていた。
 9月、隆景はその半次郎に密書を送った。意を含められた半次郎は、病中の直家にお目通りを願
って伊賀久隆の謀叛を告げた。直家は半次郎の進言を戯言として相手にしなかった。だが、病床に
入って以来なにごとにつけ疑い深くなっている直家は、すぐさま忍びの者を入れて伊賀家中の内情
を探らせれみた。すると、思いがけなくもたらされた情報は黒と出た。「まさか、そんなことが・・・」詮
方なく直家は弟の忠家を呼んで相談した。「七郎兵衛よ、この始末どうつける?」「事が露顕に及ん
だと知れば、相手も用心して守りをかためるでありましょう。窮鼠却って猫を噛むの譬えもあります。
大事にいたらぬ前に・・・」「じゃが、相手は妹梢の婿ぞ。それに久隆の妹深雪はそなたの妻じゃ」
「大事の前の小事、やむを得ませぬ」「・・・・・・」「後悔はないのか?」「ございませぬ」「ならばそなた
に委ねる。よきようにはからえ」「はは」忠家は一礼して兄の居室から退出した。
 ※森本繁氏の記述:[備前軍記]によると、このあと忠家は伊賀久隆を岡山城へ呼んで饗応にこと
よせ、一服盛ったとあるが、毛利側の史料にはこれとは異なった記述がある。以下、毛利側の記述
による。

 忠家は兄の居室から退出すると、すぐさま難波半次郎を呼びつけた。「伊賀家中にてその方に同
心し、わが宇喜多家に心を寄せる者はいないであろうか?」「ございます。それがしが旧友にて河原
四郎右衛門と申します。新参者ながら武芸に秀で、久隆殿の覚えがめでたく、指南役をつとめてい
ます」
 忠家は自分の居城である富山城へひそかに四郎右衛門を呼びつけると、人物の鑑定をしたうえ
で、主君久隆を暗殺せよと命じた。「よいか、事成就のあかつきには、殿に言上して半次郎ともども
重臣に取り立てる」喜んだ四郎右衛門は虎倉城下へ帰ると、早速虎倉城内へ使者を立てた。
「これより当屋敷において、珍しき武芸をご披露申し上げます。悍馬の血を取る秘術にござれば、是
非とも御見物にお出でくだされませ」武芸好みの久隆はすぐさま招きに応じて四郎右衛門の屋敷へ
やって来た。
 四郎右衛門はこの奥義を伝授すると、主君久隆を宴席に招待して、毒を盛った。久隆は相好をくず
して饗応にあずかったが、帰城して翌日になると急に腹痛を訴え、四苦八苦の末亡くなった。
 嫡子の与三郎家久が備前岡山城下から名のある医者を呼んで死体を調べさせると、河原屋敷で
毒を盛られたことが判った。「それ、者共、四郎右衛門を召し取れい!」だが、四郎右衛門は郎党や
門人とともに岡山城下へ立ち退いた後であった。

 天正8年12月、宇喜多勢は美作祝山城を陥れて、美作の東半分を制圧した。直家は勝報を病床で
うけると、つづいて児島の毛利勢駆逐作戦をおこそうとした。同時にこれは織田信長からの要請でも
あった。児島は元亀2年(1571)以降、大半が毛利の手中にあった。
 天正8年師走晦日、羽柴秀吉は直家に児島出兵を命じた。病床にあって動けぬ直家は、弟の忠家
を出陣させた。天正9年の年明け早々、忠家は水軍部隊をもって児島東北端の小串城を攻略し、毛
利勢を追い払った。
 毛利輝元は、備中猿掛城主穂田元清に出陣を命じた。現在の児島は内陸部と地続きの半島だ
が、当時は西北端の藤戸が海峡を隔てて備中の天城に面していた。元清はこの天城に根拠地の砦
を設けて、天正9年2月14日に児島の藤戸へ上陸し、すぐさま東南の常山城と麦飯山城攻略に向か
った。
 常山城を守備するのは宇喜多家の仕置家老である富川平右衛門であり、水軍の提督でもあった。
宇喜多軍総大将の浮田忠家は、新しく大崎村の麦飯山に城を築いてこれを守備した。
 世にいう備前の麦飯山・八浜合戦は、こうして始まった。
 このとき、天正9年2月14日直家が岡山城で没したのである。享年53歳であった。大腸にできた悪
性の腫瘍が悪化したためであったが、彼の死は深く秘された。遺骸は岡山城の東の山に埋め、葬
儀はおこなわなかった。直家の後嗣八郎は10歳で家督を継いだ。直家は弟の浮田七郎兵衛忠家と
その嫡子、与太郎基家を八郎の後見とした。
 直家は死の前の病床に与太郎基家を呼び、その手を握りしめながら言った。「のう与太郎、そなた
児島へ出陣して、父の忠家に加勢してくれぬか?」直家は与太郎に、毛利軍を取り巻く周囲の情勢
を説明して「毛利の水軍は児島湾へ軍船を乗り入れて、児島を北方から押さえ込む作戦をとってお
る。児島で戦っているわが軍を孤立させる腹づもりなのじゃ。であるから与太郎、そなたは軍船を仕
立てて児島の小串へ渡海し、八浜の二子山に砦を築いてほしい。間もなく敵将の穂田元清は忠家
の麦飯山を落すであろうから、そなたはその将兵を二子山に収容して、西の常山城と呼応して麦飯
山の敵軍を挟撃してもらいたいのじゃ。遺憾ながらわれらには、今のところ毛利水軍に匹敵する艦
隊がない。しかし、そのうちに浅野弥兵衛殿が織田水軍を率いて救援に駆けつけてくれるであろう」
 直家が予見したように、忠家の守備する麦飯山は、善戦むなしく敗れて毛利軍の手中に帰した。
城内から毛利軍への内応者が出たためである。失意の忠家はやむなく敗兵を率いて八浜へ逃れ、
基家が築いた二子山城に収容された。忠家はここで敗将としての責任をとり、備前軍の総指揮権を
息子の基家に委ねた。
 天正9年2月19日、若き備前の麒麟児浮田与太郎基家は、備前軍総司令官の地位についた。

 児島湾の制海権は完全に毛利軍によって掌握されていた。
 この日二子山城の宇喜多軍は八浜へ出陣して、麦飯山城の毛利軍と小競り合いが始まった。次
第に本格的な合戦になって、激戦数刻・・・戦況は一進一退で、なかなか勝負がつかなかった。する
と、児島湾に遊弋中の毛利水軍の提督村上八郎左衛門景広が、海上から300艘の軍船を率いて
宇喜多軍の右側面を衝いた。たちまち宇喜多軍の陣形が崩れた。加勢を得た毛利軍は、すかさず
崩れ立った備前軍へ総攻撃をかける。備前軍は一斉に退却を始めた。
「ひるむな、者共、かかれやかかれ!」備前軍総司令官浮田与太郎基家は、采配を打ち振りながら
毛利軍に向かって突進した。気がつくと味方の将兵はみんな東方の二子山城めざして敗走してお
り、基家只一人が敵勢に向かって馬を馳せている。
「きたなし、者共、退くでない。この基家につづけ!」基家は馬上で声を嗄らした。が、そのとき「ズド
ーン」という銃声一発。基家の太股を貫いた。基家は平衡を失って落馬した。「それ、敵の大将を討
ち取ったぞ!」敵勢が基家めがけて殺到して来た。「なんの、これしき」太刀を杖にして立ち上がろう
としたが、腰が立たぬ。その上半身へまたもや銃弾が浴びせかけられ、その一発が今度は内兜を
貫いた。
「しっかりなさいませ、与太郎様」従者の三五兵衛が駆け寄って基家を抱き起こした。三五兵衛は基
家の乳兄弟と伝えられる人物である。その三五兵衛を取り囲み敵勢が槍を繰り出した。二つの身体
は折り重なって倒れた。

 敗色濃厚であった備前八浜合戦は、この与太郎基家の討死によって、頽勢を挽回した。総司令官
を討ち取られて、味方の将兵が奮い立ったのである。
「われら七騎、これより敵陣めがけて、捨て身の斬りこみを敢行する。われと思わん者は後につづ
け!」死を覚悟した七騎は、まっしぐらに敵陣めがけて突入して行った。能勢又五郎・国富源右衛
門・宍甘太郎兵衛・馬場重介・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・粟井三郎兵衛・・・・。世にこの七士
を、八浜の七本槍と称えた。
 八浜合戦に敗北した毛利勢は、児島を手中にする計画が頓挫し、芸州へ退陣していった。
 戦死した浮田与太郎基家の墓は、今も玉野市八浜の小祠の中に祀られ、足腰の病気を治す神様
としてあがめられている。一方、与太郎基家の遺骸は、宇喜多家の菩提寺である豊原の大雄山大
賀島寺に葬られた。今も弾痕が残る与太郎着用の甲冑が、寺宝として奉納されている。


浮田与太郎基家の墓と小祠:ポインターを当てると正面になります


大雄山頂上の大賀島寺境内にある宇喜多一門供養の墓塔、奥に四基の墓塔が祀られている
 大雄山は砥石山城跡とは谷一つ隔てた東側にあり頂上から城跡がよく見渡せます

「大殿様、味方は再び陣形を立て直して、麦飯山陣地へ敵軍を追い込みましてございます」
「浮田七郎兵衛忠家様、常山城の富川平右衛門様と協力して、麦飯山の敵陣を乗っ取った由にご
ざります」
 矢継ぎ早に岡山城へもたらされる児島からの捷報を、この城の主は聞いていない。直家は一度は
自分の後継者と定めた与太郎を見送ったあと、間もなく息を引き取ったからである。
 世間のしがらみに縛られず、権謀の限りをつくして生き抜いた男の命は、静かに燃え尽きた。53
歳の生涯であった。天正9年2月14日没。
 宇喜多直家の死は、なお秘匿されていたが、天正10年正月9日になって喪が公表された。城内に
埋葬されていた遺骸は、岡山城下石関町の平福院に改葬された。法名を涼雲院天徳星友大居士と
いう。嫡子の八郎は、まだ数えて10歳に過ぎなかった。
 直家の妹梢は黒髪を切り、晩年になって仏門に帰依した。梢と左衛門久隆の嫡子伊賀家久は、直
家の死後毛利陣営へ走っている。抜け殻となった虎倉城には宇喜多家の重臣長船又三郎貞親が
守備した。又三郎は城代として妹婿の石原新太郎を入れたが、新太郎は城に火を放って自害したと
いう。虎倉城は廃墟となった。

 天正9年6月、羽柴秀吉は二万の大軍を率い、鳥取城攻めの作戦を開始し10月25日に落城させ
た。秀吉はいまでは織田政権随一の寵臣であった。
 天正10年正月21日、安土城に逗留していた秀吉は、宇喜多家筆頭家老、岡利勝をともない信長
の御前に伺候した。利勝は年賀として、黄金千両と吉光の脇差を献上した。
 信長は古今の銘刀吉光を献ぜられ、機嫌よく岡利勝に告げた。
「そのほう、遠路大儀なり。このたび羽柴筑前が中国路出勢につきて、和泉守(直家)在世のみぎり
よりさまざま合力いたせし段、神妙至極。家督相続の儀は、先例のごとくいたすべし」
 宇喜多直家の所領、備前国、美作国、播州佐用・赤穂・宍栗の三郡と備中の一部を八郎に相続
安堵させる旨の朱印状が、ただちに発せられた。
 相続を許された謝礼の使者として、八郎の名代長船又三郎が、2月上旬に伺候した。また、姫路
城に戻った秀吉のもとへ、浮田忠家が出向き礼を述べ、莫大なみやげの品を贈った。
 忠家は申し出た。「当主八郎は幼年なれば、秀吉様には万事の御後見を、頼みいりまする」
「おう、そのことよ。儂はこののち、八郎殿を我が子と思うて面倒を見るつもりだがや。儂は子に恵ま
れぬで、八郎殿をわが猶子としてもよかろうと存じおるだわ」
 忠家は、秀吉の言外の意を察した。秀吉は宇喜多家をわが傘下に入れ、中国支配の立場をかた
めようと考えているのである。秀吉は忠家に命じた。
「八郎殿が成人いたされるまで、傅役は御辺がなされよ。年寄りのうち、富川平右衛門、岡利勝、長
船又右衛門が家中を取り仕切るようにいたせ」
 忠家は岡山城に帰り、秀吉の意向を重臣たちに伝えた。「若さまを宇喜多の跡取りにしてくれるな
ら、ほかの少々のことは目をつむっておらにゃあ仕方なかろう」諸侍は納得した。

 余談:直家の死に際してこんな話が残っている。
 彼が危篤に陥った際、近臣たちに殉死の有無をたずねた。家臣らは主君の面前で拒むこともでき
ぬゆえ、仕方なくお伴を約束すると、直家はその証だといって全員に盃を与え、殉死予定者の名を
すべて札に記入させ、それを棺に納めるよう指示したという。
 人を騙し、裏切り続けて大きくなった者は死に臨んでさえもまだ、猜疑心から解放されなかったの
である。ちなみに直家の死後、殉死したという宇喜多家重臣の記録は今に伝わっていない。



岡山城天守閣にある宇喜多直家の木像

 宇喜多直家の生涯を最後までお読み戴き、誠にありがとうございました。

 参考図書
剣酢漿草(けんかたばみ)の乱舞「備前宇喜多直家の生涯」 森本 繁 山陽新聞社
梟雄の妻「宇喜多直家夫人お福」 森本 繁 山陽新聞社
宇喜多秀家「備前物語」 津本 陽 文藝春秋
歴史と旅 増刊号 秋田書店


トップへ戻る  岡山城トップへ戻る  宇喜多直家@へ戻る   戻る  宇喜多秀家へ進む


inserted by FC2 system