備後歴史雑学 

[宇喜多直家@]
 戦国の梟雄・宇喜多直家は享禄2年(1529)備前国邑久(おく)郡の砥石城に生まれた。名を八
郎という。
 宇喜多氏は本性が三宅氏といわれ、児島・備中連島などに住み子孫をふやし、児島から備前邑
久郡に移住して、土豪として勢力をたくわえてきた。



宇喜多一族の邦家が注文打ちの末備前物の初代祐定である与三左衛門尉と俗名のある大業
物の作者として有名で以後同銘が60余名もいます(私見ですが上出来で欠点は見られず)

 八郎の祖父・宇喜多能家(よしいえ)は、備前守護代・浦上村宗(むらむね)旗下の有力武将の一
人であった。享禄4年(1531)村宗が前管領細川高國を援けて、摂津天王寺で細川晴元旗下の軍
勢と戦い討死した後、豊原荘の砥石城に隠退していた能家は、天文3年(1534)6月晦日・隣接す
る(砥石城から西に約1キロメートル)朋輩である長沼荘高取山城主の島村盛実(貫阿弥)に襲撃さ
れて能家は自刃する。嫡子興家(おきいえ・八郎の父)は妻子を連れて城を脱出した。
 ここに宇喜多一族は四散の憂き目に遭遇した。親子は寄る辺を求めて備後の鞆の津へ身を潜め
た後、備前福岡の豪商・阿部善定にかくまわれた。興家は阿部氏の屋敷で6年間を送ったが天文9
年(1540)に病没した。彼は善定の娘との間に二人の男児をもうけていた。のちの春家と忠家であ
る。

宇喜多能家画像


福岡の教意山妙興寺境内にある宇喜多興家の墓所:ポインターを当てると案内板が現れます
案内板には天文5年病没とありますが天文9年病没説が多いです

 八郎は天文12年(1543)8月和気郡天神山城主浦上宗景(村宗の二男)のもとに出仕する。八
郎15歳であった。その年の12月備前守護職赤松晴政との戦に初陣に出た八郎は冑首ひとつを得
る大手柄をたてた。
 翌天文13年八郎は元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗り、邑久郡乙子(おとご)城を預けられ
た。知行は300貫である。石高に直せば3,300石であるが、実収はその半ばにも及ばなかった。
 天文18年(1549)宗景の命をうけ、祖父能家の居城であった砥石城の城将浮田大和守国定(能
家の異母弟)を攻略。宗景は賞賜として上道郡竹原の奈良部を与えた。直家は奈良部の新庄山城
に入り、乙子城は異母弟の忠家に与えられた。こうして宇喜多一族の勢力はしだいに増大していっ
た。


乙子城跡 西やや南側より望む


           乙子城跡西側の登り口           北側より見る 巨石に乙子城跡の案内


乙子城跡の案内説明

 天文20年(1551)直家は浦上宗景の命により、上道郡沼亀山城主中山備中守信正の娘を妻に
むかえた。沼(亀山)城は周囲を沼にかこまれた難攻不落の要害である。
 永禄3年(1560)のことである。中山備中と島村観阿弥が主家浦上氏に対して謀叛あるとして、
直家は舅中山備中守を酒宴の座をもうけて仕物(謀殺)にかけた。返す刀で祖父の仇である島村観
阿弥をおびきだし、討ちとって砥石城を急襲した。浦上宗景は直家の手柄を償して、沼城と砥石城
および中山、島村の所領の大半を彼に与えた。直家の妻は新庄山城で自害した。
 直家は沼城に移り、新庄山城を家来に守らせ、砥石城に異母弟春家を、乙子城に末弟忠家を入
れた。直家はかくして四城を擁し、数千人の兵力を動かす宗景旗下の最有力武将に成長した。


   砥石城跡 東より望む(西に約1Kmに高取山城跡)   宇喜多直家生誕の城と刻まれた石碑


沼・亀山城跡 南より望む(まるで亀のようです)


沼・亀山城の古図と案内板

 永禄4年(1561)上道郡竜の口城の最所元常(さいしょもとつね・最の字は左に禾へんが付きま
す)を討ち、次いで和田城の和田伊織を敗走させ邑久・上道の沃野を掌握した。翌永禄5年直家は
亡妻とのあいだにもうけた双子の娘の姉を金川城の当主松田元賢に嫁がせて、浦上宗景に出仕さ
せた。いまひとりの妹を美作三星城主の後藤攝津守勝基に嫁がせた。二人とも尼子方であったが
尼子の衰運の影響をうけ、毛利の先兵である備中成羽・鶴首城の三村家親の侵略の脅威にさらさ
れていた。

 永禄6年になって三村家親は備前に乱入し舟山城を攻め、城主須々木行連は家親に降伏。次い
で石山城(現岡山城)を攻め、城主金光宗高を降した。
 永禄7年7月家親は直家の所領をうかがったが、直家はこれを備前津島付近で迎え討った。いわ
ゆる千騎谷合戦である。
 永禄8年(1565)5月になって三村勢は大挙して美作に出陣し、後藤勝基の三星城を攻めた。直
家は侍大将馬場次郎四郎に足軽勢を預け応援に差し向けたので、三村家親は攻めあぐみ11月に
兵を引き、備中に転戦の途中鉾先を転じて突然美作に乱入して高田城(勝山城)を攻めた。高田城
は姫新線中国勝山駅の北側、標高322メートルの如意山に本丸、標高261メートルの勝山(太鼓
山)に出丸を置いていた。
 「高田城初代城主三浦貞宗は、関東三浦氏の後裔といわれ、室町期以降美作の真庭・大庭の二
郡を領地としていたが、天文17年(1548)の秋、第十代の当主貞久が病没したのち、尼子勢の急
襲をうけ落城した。第十一代の城主となったのは幼い嫡子の貞勝であったが、城を脱出して落ちの
びた。尼子氏の高田城占拠は永禄2年(1559)まで12年間続いた。同年3月尼子の衰運に乗じ、
備前・備中の山野で雌伏していた三浦一族が、浦上宗景の応援をうけ高田城を奪回した。城主とし
て返り咲いた貞勝は22歳であった。

 永禄8年11月三浦貞勝は三村勢の急襲をうけ、一ヶ月にわたり抗戦をつづけたが、兵糧・矢玉が
尽きかけたとき、重臣の金田源左衛門が三村に内通し、敵勢を城内へ誘い入れた。
 貞勝は妻子をともない、城を落ちのびて、途中で妻子を逃がし、自らは近習11人とともに血路をひ
らき逃れようとしたが、三村勢の重囲に陥った。貞勝は負傷し、力尽きて井原村蓬(新見市)の薬師
堂で自害した。

 貞勝の妻お福は20歳、桃寿丸という息子を連れて逃れ、旭川を下り備前下土井村(加茂川町下土
井)の土井氏を頼った。土井氏は虎倉城(御津町虎倉)城主伊賀久隆の属将で、母方の里が美作
勝山の三浦氏であった。
 お福は三浦氏の庶族三浦能登守の娘で、絶世の美女であった。宇喜多直家の妹を妻としている
伊賀久隆は、永禄9年の初春お福を沼城へともない、直家にひきあわせた。
 直家がお福に望みを聞くと、お福は亡き夫貞勝が忘れ形見の桃寿丸のことと、夫貞勝を死に追い
やった憎き三村家親を討ち取って、その首を亡夫の墓前に捧げたい旨を願い出た。直家は金田源
左衛門の裏切りをゆるせないのと、お福を我がものにしたいのとで、「よろしいその仇、この直家が
代って討ち取って進ぜよう」と引き受けた。
 しかし備中松山城を本拠とする、備中の覇者である三村家親を討ち取るのは尋常の手段では無
理であるので、仕物(謀殺)にかけようと考えをめぐらし、重臣と相談して、鉄砲の名手である遠藤兄
弟を使い、同年2月5日美作弓削荘籾村の興禅寺の陣所において暗殺せしめた。
 これによって直家の備前領は侵略の危機を脱し、喜んだ直家は誓紙血判のとおり、兄の遠藤又二
郎に1,000石の知行を与え、浮田の苗字を与えて河内守を名乗らせた。また弟の喜三郎には30
0石の知行を与えて修理を称させた。ちなみにこの浮田河内守、その後も次第に武功を重ねて、4,
500石を領する備前徳倉城主に出世している。

 三村家親頓死の報が伝わると、毛利氏の軍政下で小康を保っていた美作勝山は再び動乱の渦に
巻き込まれた。同年5月、満を持して隙をうかがっていた三浦家の旧臣である牧・玉串・市・蘆などの
諸氏が、三浦家恩顧譜代の諸士を糾合して、第十代貞久の末弟貞盛を擁立して蜂起した。高田城
の留将は津川土佐守であったが、蜂起軍の攻撃を受けて、数十名の部下とともに討死した。このと
きもう一人の仇敵金田源左衛門は、戦乱の中で蜂起軍によって惨殺された。
 高田城は再び三浦一族の手にもどったのである。しかし永禄11年(1568)4月毛利軍の攻撃を
受け、城主三浦貞盛は討死し高田城は再び毛利のものとなる。三浦氏の遺臣たちはお福の亡夫貞
勝の末弟貞広を押し立てて、宇喜多勢の加勢を得て、永禄12年7月から高田城奪回作戦を続けた
が、とうとう城は落ちなかった。
 するとそのうちに周囲の情勢に変化が生じ、翌元亀元年(1570)10月中旬、出雲から山中鹿介
が尼子遺臣団1,000の軍勢を率いて美作に遠征し、高田城の毛利軍を撃破した。寄せ手に尼子
軍が加わったら、城中の尼子遺臣団は一斉に蜂起し、内外呼応して毛利軍を攻撃したからである。
 山中鹿介の指揮する1,000の軍勢は、高田城中の尼子遺臣団を味方に加えると、急いで出雲
戦線へ復帰して行った。
 高田城は、執念の男三浦貞広が城主となって入城した。毛利氏が山陰から尼子氏の残党を完全
に駆逐し、やがて毛利氏から離反した備中の三村元親の軍勢を滅亡させて、ふたたびこの美作へ
触手を伸ばしてくるまでには、なお5年の歳月を必要とした。
 その天正4年(1576)の春まで、足かけ6年美作勝山の高田城は三浦貞広が支配した。貞広は
お福の義弟である。室町初期の14世紀末、関東から入った三浦貞宗が高田城を築いたが、百十数
年の乱世を経て、三浦氏は毛利氏によって滅ぼされたのである。

 三村家親の暗殺によって、直家はお福の愛を得たが、反面備中三村一族の激しい憎しみを買っ
た。
 備中の松山城内では、家親の喪が明けた4月、重臣たちが集まって家親の弔合戦のことを協議し
た。
 三村家中では、家親の亡きあと長男元祐、次男元親、三男元範、四男実親の四子が残された。こ
のうち長男元祐は、早くから家を出て荘氏の養子となり、備中猿掛城主となっていて、備中の松山城
を相続したのは次男の元親である。元親以下の二人の弟は未だ若年であった。
 三村家中の協議で、弔合戦を強硬に主張したのは三村五郎兵衛であった。「われら三村家は備
中の名門である。それにひきかえ備前の宇喜多は、浮浪あがりの直家がよこしまな奸計によって沼
城主となった不義の家である。いわんや、まともに戦って勝てない相手を卑劣にも鉄砲で闇討ちに
するなど、言語道断。われら断然立って、殿の仇の宇喜多を討ちとりその首を墓前に捧げにゃおえ
んのじゃ。」三村五郎兵衛は死を決して弔合戦にのぞむ覚悟をきめていた。
 だが元親の叔父である三村孫兵衛親成は、当主元親が未だ若年であることを理由に時期尚早を
唱えた。親成は三村氏の本拠が松山城へ移ったあと、備中成羽の鶴首城をあずかっていた。「まず
は家親殿の遺児元親・元範・実親の三兄弟を盛り立て、家中を一つに固め、兄弟が成人したあと一
戦に及ぶべきである。」三村の一族郎党は、このとき宇喜多に攻めかけても討死するばかりであろう
と危ぶみ、親成の意見に賛同した。
 すると五郎兵衛は、「方々もご存知のごとく、拙者は愚昧短才であって、今後の御兄弟の育成には
少しもお役に立ち申さぬ。されば拙者、亡き家親殿に一死をもって忠節を尽くすしか能がありませ
ぬ。各々方は生きて若君輔弼の功を立て、せいぜい後生大事におつとめなさるがよい。」とかたくな
に自説に固執して、協議の席から退出した。
 五郎兵衛が立ちあがると、一族郎党50余人がともに座を立った。五郎兵衛の決意に感動した侍
衆6、7人がそれぞれ郎党を連れ加勢に馳せ参じたが、総勢100騎にもおよばぬ小勢である。出陣
にあたって五郎兵衛は、逆修の法事を執行し、鬼伝録に名前をつらねて焼香三拝して出陣した。永
禄9年4月なかばであった。

 五郎兵衛は備前境に迫ると沼城へ使者を立てて挑戦状を送った。手勢を二手に分けて、一手は
矢津越より直接沼城へ攻撃をかけさせ、残る一手は五郎兵衛みずから率いて釣の渡しより南へ迂
回した。
 宇喜多直家はこれを知ると、弟の七郎兵衛忠家を総大将に任命し、長船・岡・富川・小原などの武
将を添えて三村勢を要撃させた。総勢3,000余騎である。戦闘はまず釣の渡しより南へ迂回した
三村五郎兵衛率いる50余騎と長船・岡の率いる宇喜多勢とのあいだで始まった。
 小勢とはいえ、死を覚悟した五郎兵衛の軍勢は手強かった。そのため最初は決死の三村軍の前
にさすがの宇喜多軍も崩れ立ったが、そのうち七郎兵衛忠家の本隊が横合いから攻め立てて挽回
し、五郎兵衛以下50余騎は全員壮烈な戦死をとげた。
 一方、矢津越より東進して沼城へ攻撃をかけてきた三村軍には、富川平右衛門の軍勢がこれを要
撃した。ここでも、最初は決死の三村軍の前に宇喜多軍が打ち負けていたが、小原藤内の率いる
後続部隊が後詰に駆けつけて退勢を挽回した。多勢に無勢である、結局三村軍は全員討死したの
であった。
 だが、直家はこの合戦で家親亡きあとの三村軍が、なお手強い相手であることを見せつけられ
た。宇喜多勢の戦死者は、小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら47人であり、100
余人の負傷者をだした。
 直家は沼城での戦勝祝賀会で、「三村軍は遠からず態勢をととのえ、必ずや大挙して備前平野へ
進撃して来るにちがいない。者共、決してこの戦勝に驕るでないぞ。しかも、かれらの背後には、毛
利という強大な勢力が控えているのだ」家臣たちにそう訓示した。すぐさま備中軍の来襲に備えて
上道郡沢田村の明禅寺山に堅固な城砦を築き始めた。

 明禅寺山は現在の岡山市沢田にある標高109メートルの山塊である。もと明禅寺という古寺があ
ったので明禅寺山と呼ばれているが、この古寺跡に直家は臨時の城砦を築いたのである。
 備中から沼城へ進撃してくる敵軍を俯瞰するのに格好の場所であり、直家旗下の備前の諸城と連
絡するのにも好都合であった。だが、直家の本当のねらいは、沼城へ向って来る備中勢をこの明禅
寺山へおびき寄せることにあった。
 直家のねらい通り敵軍がこの城に押し寄せてくれば、直家は沼城から後詰に出兵して、背後から
敵を挟撃することができ、仮に敵軍が沼城へ直撃すれば、この明禅寺城の宇喜多軍が出撃して敵
の背後を襲うことが可能である。
 ここに宇喜多直家5,000対三村備中軍20,000の一大決戦となる明禅寺合戦が展開された。


明禅寺城跡 北より望む


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