備後歴史雑学 

[宇喜多直家C]
[備中兵乱]
 小早川隆景は笠岡に本陣を置いた。周防、長門、安芸、備後、備中、備前、美作、因幡、伯耆、出
雲、隠岐の八万余人と称する大軍を、南備中の一帯に集結させ、野陣を張らせた。


笠岡城跡東より望む。城址の古城山は海抜69メートルの丘で、海中の一弧島であった。
(笠岡城は1331年元弘元年「陶山義高」が築城し、以後陶山氏十代の居城となり、1506年永正
三年村上満兼に攻められ落城。1533年天文年間「村上隆重」が築城し、1540年天文九年隆重
の兄の子村上武吉「笠岡掃部」が城主となる。1599年慶長四年「毛利元康」が入城し、関ヶ原後
は天領となる。1616年元和二年「池田長幸」の居城となるも、元和五年池田長幸備中松山城に移
り廃城となる。)

 隆景は三村攻めの火蓋を切る直前、福原出羽守、熊谷豊前、天野五郎右衛門、中島大炊介ら諸
将を本陣に呼び集め、軍評定をおこなった。軍議の座には三村元親の家老であった三村孫兵衛親
成も列座していた。
 隆景は、三村元親には上方と四国から加勢がくるであろうと推測し、四国の三好に対する用心を
怠らず、慎重に攻めかけることにした。

 天正2年(1574)12月23日、毛利の武将宍戸備前守が中島大炊介を先手として、猿掛城へ押
し寄せた。猿掛城にたて籠っていた三村兵部は、数万の毛利勢を見て戦意を失い、城を捨て松山城
へ逃げこんだ。宍戸勢は一矢も放たず猿掛城を奪いとった。
 次に、三村親成を先手として松山城の北方にある、斎田城を攻めた。斎田城主三村左京も、千人
に足らない手勢でたて籠っていたが、毛利勢に二万を超える人数で取り巻かれると、戦うことなく城
を捨て松山城へ逃げこんだ。
 宍戸勢は、こんどは松山城西南の国吉城を包囲する。城主三村左馬允は、弓、鉄砲を雲霞の寄
せ手へ撃ちこむ。しかし、そのまばらな音はいかにも頼りなげで、宍戸勢はあざ笑った。
 三村左馬允は一応の反撃をおこなったが、心中では浮き足だっていた。日没後、彼もまた城を捨
て松山城へ逃げ入った。

 三日間に三城を手中にした宍戸勢は、鶴首城を取り巻いた。
 城主三村政親は、戦場往来をかさね軍功の数多い強豪の侍であった。城兵はわずか300余人で
ある。山野を埋める宍戸勢がときの声をあげ押し寄せると、政親は怖れる色もなく下知した。「これだ
け大勢で押してきたけえ、外れる弾がのうてええが。矢弾を惜しまず撃ちまくれ!」
 一刻ほど寄せ手は猛攻をつづけたが、城兵の戦意は旺盛で、寄せ手の戦死、手負いの数が増え
るばかりである。宍戸備前守は配下の侍大将たちと評議し、陣形を立てなおし続攻することにした。
 12月27日卯の刻(午前6時)、三村政親は宮野蔵大夫、丹下与兵衛ら300余人の軍勢を三手に
分け、突然城門をひらき、敵将宍戸備前守の陣所へ襲いかかった。不意の襲撃におどろく宍戸の旗
本勢は、いったんはうろたえたが迅速に立ちなおった。
 宍戸勢のうちから大兵の侍が名乗りをあげ、丹下与兵衛に一騎討ちを挑んだ。
「それがしは宍戸の郎党横山角阿弥なり。丹下殿にお相手つかまつる」丹下は大音に応じた。「お
う、御辺の名は聞いたことがあるぞ。いざ、参ろう」
 双方が馬を下り、槍をとって烈しく突きあう。与兵衛のつづけさまの攻めに、横山角阿弥はたじろい
だが、体勢を崩すことなく与兵衛の槍をはねとばし、胸倉をつかんだ。五人力といわれる与兵衛は
角阿弥の腕を捻りあげ組み伏せ、腹這いにさせると背にまたがった。
 角阿弥は首をとられる寸前に、身をよじって与兵衛の脇腹を鎧通しで突き刺した。与兵衛は呻き声
をあげると、角阿弥の手から鎧通しを奪い、首を掻き切る。
 双方が同時に息絶え、宍戸の郎党三上平内が与兵衛の首級をとり、引きさがった。
 それから双方入り乱れての白兵戦が半刻ほどつづき、城兵は毛利の大軍に取り巻かれ、百七十
人ほどが討ちとられ、三村政親は生き残った130余人の兵をまとめ、城に引きあげた。毛利方も10
0余人が首をとられた。小人数の城兵の戦いぶりは、すさまじかった。
 翌28日、寄せ手は城の三方に井楼を立て、その上に百匁玉筒を揚げ城内へ撃ちこんだ。城門の
扉が割れて吹き飛び、櫓、陣小屋が崩れた。まっ赤に焼いた焼け玉を撃ちこむと、諸所に火事がお
こった。
「もうこれまでじゃ」と三村政親は部下たちとともに、松山城に落ちのびていった。

 明けて天正3年正月5日、毛利勢は楪(ゆずりは)城(新見市)を取り巻いた。
 附近の要害五ヶ所にたて籠っていた三村勢は、地響きをたて押し寄せてくる毛利勢を見て怖れ、
松山城へ退却したので、楪城は孤立した。
 城主の三村元範は元親の弟で、剛勇の名が中国路に聞こえている。たて籠っている城兵は壱千
余人である。彼は櫓に登り、山野を埋める毛利勢を見渡し、士卒に下知した。
「この城は名城じゃけえ、二万ぐらいの人数で取り抱えられるもんではねえぞ。兵糧、水に不足はな
し、ひと月も支えてやりゃあよかろう。攻めあぐんで引き揚げようでえ」
 毛利勢を率いる宍戸備前守と中島大炊介が相談のうえ、調略を試みることにした。
 中島大炊介が密使を城中へ忍びこませ、元範の譜代の郎党富屋大炊介、曾禰大蔵、八田主馬ら
に謀叛をすすめてみた。おそらく誘いに応じることはなかろうと思っていたが、意外にも富屋らは謀
叛をするという。
 富屋らはその夜、闇にまぎれて毛利勢を曲輪うちへ引き入れた。
 不意の襲撃をうけた元範は、郎党70騎程とともに山頂の本丸から槍先をそろえて現れ、坂道の途
中で毛利勢を迎え撃った。
 元範は槍をふるい荒れ狂っていたが、多勢に無勢で城兵の姿はしだいにまばらとなり、身辺の家
来が伊勢掃部入道ほか八騎となってしまったので、彼らとともに石指山へ登り、洞穴にとじこもっ
た。洞穴の前に伊勢入道が立ちはだかり、狭い山道で大太刀を振りまわし、最期のはたらきをあら
わす。伊勢入道が血煙あげ斬り倒されるのを見て、元範は外に出てきた。
 元範は薙刀の達者で知られている。彼は大薙刀をふるい、宍戸の郎党二人を一瞬に斬りすてた。
さらに二人を打ち倒す。鏡のような刃をきらめかせ、足を踏み替え薙刀を左右にふるっていた元範
は、喉仏に矢を受け、うつ伏せに倒れた。
 宍戸の家来東郷平内が、駆け寄って元範の首級をとった。

 元範の首は、ただちに彼の弟である上田孫次郎実親の居城、鬼ノ身城(総社市山田)へ送られ
た。実親が兄の首を見れば、恐怖して戦うことなく降伏するであろうとの策略であった。
 だが実親は激怒した。彼は城下の華光寺の門前で兄の首をうけとると、毛利の使者を追い返し、
葬礼をおこない戦意をかためた。

 正月16日、毛利の諸大将は鬼ノ身城を取り巻き陣所をつらねる。小早川隆景は伊世部山城(夕部
山城・総社市下原)に入った。毛利元清は木村山城(総社市八代)に入る。
 毛利勢はまず、鬼ノ身城の支城箕腰山砦を攻めると、わずかな兵力の城兵は本城へ逃げこんだ。
 翌17日、毛利の先手は荒平山城(総社市秦)を包囲した。城主川西右衛門之秀は、三村元親、
中島大炊介の双方と血縁がある。大炊介は城中へ軍使を送り、将軍に勤仕するよう誘おうとした
が、毛利勢の軍兵たちが山麓に火をかけてしまった。強風に煽られた火焔は、山頂へひろがってゆ
く。
 川西之秀は山頂の城から寄せ手にむかい石、巨材を落としかける。石を落とされると遮蔽物がな
ければ、登ってゆく寄せ手は甚大な損害を受ける。たちまち数百人の死傷者が出た。
 之秀は家来に下知した。「いまじゃ、追い崩せ」曲輪の東西の門が開かれ、城兵が槍先をそろえ
突撃した。毛利勢はわれがちに逃げ、川へ追い込まれ、数知れず討ちとられた。
 小早川隆景は中島大炊介に、いま一度調略するように命じた。大炊介は自ら荒平山城へ出向き、
之秀にかけあった。
 之秀は思案の末「儂は幾代にもわたっての三村の親戚じゃけえ、いまさら毛利に味方するわけに
はいかんのじゃ。しかし、籠城の人数を巻き添えにしてまで、わが意地を立てることもなかろう。城内
の者をすべて助命してくれるなら、四国へ退いてもええぞ」隆景は之秀の要望をうけいれた。
 之秀は彼を慕う郷民たちに見送られ、備前児島から四国へ渡り、讃岐の親戚のもとへ退いて行っ
た。

 荒平山城を開城させた毛利勢は、中島大炊介らを案内者として鬼ノ身城へ押し寄せた。
 険しい山頂にある城からは、荒平山城と同様に石、巨材をはね落としてきた。寄せ手の死人、手
負いはふえるばかりで、毛利勢は苦戦に陥り、小早川隆景はふたたび大炊介に「この城も調略いた
せ」と命じた。
 大炊介は、味方のうちで城将上田実親の祖父・近江守とかねて懇意であった結城越後守に、近江
守を寝返らすように命じた。越後守は近江守に会い、小早川隆景の内意を伝えた。
「毛利へ味方されるならば、本領安堵のうえ、倍の知行地を加恩いたす」上田近江守は、大炊介へ
密使を送り返答をした。
「それがしはもとより毛利家に遺恨を抱いてはおりませぬが、家督を譲りし隠居ゆえ、心ならずも敵
対いたすこととあいなった。さればわが一類をはじめ、籠城の者どもを助命して下さるなら、孫の実
親に腹を切らさせましょう」小早川隆景は、近江守の希望をうけいれた。
 上田実親は、祖父近江守の家臣らが引き退くのを見て、味方の士卒が戦意を失ったのを知った。
彼は隆景のもとへ軍使を送り、降伏を申しいれた。
「それがしが切腹いたさば、籠城の者どもを助命下されようか。それならば、それがしが検使を申し
うけ、切腹いたす」隆景は実親の申し出を、即座にうけいれた。「実親こそは殊勝の勇士なり。ほか
に望むところあらば、申し越させよ」
 八十歳の齢をかさねてなお命を惜しみ、若い孫に切腹させようとする近江守の見苦しいふるまい
にくらべ、実親は勇者にふさわしい態度を崩さなかった。隆景の使者は、再度実親のもとに至り、彼
の望みをうけいれる旨を告げた。
 実親は使者にいった。「籠城の者どもを助命下されるとのこと、なによりのご懇情じゃ。儂は正月2
9日の辰の刻(午前八時)に切腹するけえ、検使を送ってくれえ」
 小早川隆景は、当日の早朝に検使として永井右衛門、野美四郎をつかわした。
 実親は切腹の座につくと、検使にむかっていった。
「このたびのことは、毛利家に別心あってしたわけではねえぞ。宇喜多和泉守(直家)に対し、ふか
き鬱憤ありしゆえ織田信長に与し、細川真之、三好左京大夫ら四国衆の助力をもって本意を遂げよ
うとしたまでじゃが。われらは天の助けを受けられずかようの仕儀にあいなりし。儂の思うところを隆
景殿に伝えてくれい」と検使に挨拶をしたのち、「これにて思い残すこともなし。右京亮、介錯いた
せ」実親は武勇にすぐれた若者であったが、二十歳を一期として世を去った。毛利の将士も彼の死
を悼んだ。

 毛利勢は3月5日、美袋(みなぎ)山城(総社市美袋)を三万余人の軍勢で取り巻いた。城将三村
民部少輔は200に足らぬ小人数で迎え撃とうとしたが、中島大炊介の降伏のすすめを受け入れ、
開城して讃岐へ送られた。

 3月7日毛利勢は成羽に向かっていたとき、三村勢が不意に砦から襲いかかり、小競り合いしたの
ち松山城へ逃げ込んだ。松山城からは新手の軍勢があらわれ毛利勢と激しく戦った。
 中島大炊介らは500余人の毛利勢を率い、戦い疲れた三村勢が松山城へ引き揚げるところを狙
い、横手から襲ったので、三村勢はたちまち崩れた。三村元親の重臣石川久式旗下の士卒230人
が討ちとられた。城中から味方の敗北を見て新手が毛利勢に突入し、毛利勢の首級630をとる必
死の奮闘をつづけたが、毛利の大軍にかなうすべはなかった。
 松山城にたて籠っていた三村勢は午の刻(正午)頃にすべて出撃し、夕方まで毛利勢と激戦を繰
り返したが、ついに力尽きて大半が討ちとられ生き残った者は散り散りに逃げ去った。
 わずかに城に踏みとどまった三村勢は、曲輪に火を放ちかたわらの山頂に登って戦闘をつづけ
た。毛利の数万の大軍が押し寄せても、城兵は山谷に出没して死にもの狂いの反撃をくり返し、つ
いに毛利勢を山麓へ追い落として、松山城へひきあげた。
 毛利勢は松山城から夜毎に襲ってくる城兵の攻撃をうけ損害をふやした。6月までに三村勢が城
門に柵をむすんで梟した毛利の士卒の首級は、3,116に及んだ。

 小早川隆景は中島大炊介と相談し、調略の策をめぐらした。そのうちに先代家親の頃から寵臣と
して重用されていた竹井宗左衛門、河原六郎右衛門が、毛利方へ寝返る相談をしていたが、秘密
が先に洩れたので、家老の石川久式にとりなしを頼んだ。「儂らはまったく別心など持っとりゃせん
のに、身に覚えのないことをいいふらされて迷惑いたしおります。ついては殿に誓紙を奉りとうござ
います。なにとぞおとりなしをなされて下され」石川久式は、二人の嘆願を本心であると信じ、持ち場
である松山城本丸後方の天神丸砦を出て、元親に竹井らの願いを伝えることにした。
 久式は6月20日の朝、天神丸砦を出て本丸へ出向いた。久式と入れ違いに竹井と河原は、天神
丸砦をおとずれた。門番は久式の留守中であるため開門を拒んだが、長期の籠城で不足している
野菜のみやげを見せられて「儂らは野菜を届けたらじきに帰るけえ、、門をあけときんさい」門番らは
いわれるままに門扉を開いたままにしていたが、突如武装した味方の侍大将大月源内、小林又三
郎が部下数十人を率い押し入ってきた。続いて譜代衆数百人がなだれ込んできて、天神丸砦を占
領した。竹井らは石川久式の妻子を人質にとった。
 三村家古老の家来たちはささやく「天神丸の謀叛人たちに合力すりゃあ、命が助かろう」身命を助
かりたい者は、皆もっともであると同意した。彼らは人質を毛利方の三村孫兵衛のもとへ差しだし、
三村元親に敵対して、手切れの矢を本丸へ射込んだ。
 仁義を知らず武士道にそむいた者は、楽々尾、杉、諏訪、南江、升原、佐藤、神崎、山本など元親
譜代の家来たちで、浅ましいふるまいであると憎まない者はなかった。


備中松山城天守:二層二階と小規模ながら下屋に渡り廊下を設け三重に見せている

 元親は自ら300余人を率い、久式とともに障子ケ滝へ押し出した。元親の郎党三村与七郎、梶尾
織部、田井又十郎、上田加介らが、叫びつつ斬りこんでゆく。「主に叛いた罰は、たちどころにあらわ
れるぞ。思い知れえ!」陣小屋に火を放ち、遮二無二突入した。謀叛人たちは天神丸砦へ逃げ込
み、危うい命を助かった。
 日が暮れかける頃、松山城から五・六十人の譜代衆が脱走した。大炊介の誘いに乗り、討死を覚
悟していた腹心の勇士たちが、人質をともない続々と敵に降った。
 城内本丸に最後まで踏み留まったのは、石川久式、三村右京亮、井山雄西堂、日名助左衛門、
吉良常陸、梶尾織部ら侍50余人であった。彼らは小座敷に集まり、誓約の金打をして申しあわせ
た。「われらは死出の山路、三途の川まで殿のお供をいたそうでえ」元親とともに死のうとする家来
の中に甫一検校がいた。元親は最後の供を望む検校に命じた「そのほうは眼が不自由なるによくい
ままで儂に従うてくれたのう。いまはともに死ぬべき理はないんじゃ。是非にも下城して京都へ戻ら
にゃあいけんぞ」元親は下城を拒む検校に数人の下僕をつけ、城から出してやった。だが下僕たち
は城の麓へむかう途中、検校の衣類財宝を奪うため、刀で斬りつけ斬殺してしまった。
 検校とともに山を下った牢人中村善右衛門がこれを目撃し、怒って下僕たちに斬りかかり、その頭
領日名源次郎を斬り殺した。

 三村元親は最後のときが近づいたので、本丸に一族郎党を呼び集めた。「まもなくお互いに暇乞
いをせにゃあならんけえ酒樽をみな空けえ。残して死んじゃおえんぞ」元親はしたたか酩酊したのち
家来たちに告げた。「儂はそろそろ腹をせにゃあいけん。敵が近づきゃあ忙しいけえのう」石川久式
は元親にすすめた。「ひとまずここを落ちなされえ。天神山城、高田城のいずれかに参られませえ、
道はなんとでもひらけますらあ。短気は禁物でござりますぞ」
 6月21日、元親とともに本丸に残っているのは、石川久式、井山雄西堂ら郎党30余人のみであ
った。家来たちは元親の切腹に同意しなかった。久式はいう。「私は元親さまとともに死ぬつもりで
ござりますけえ、三村、石川の両家はこれにて断絶ですらあ」諸侍は元親にすすめた。「備中で名だ
たる両家を滅亡させるのは、いかにも残念至極にござります。ご一家衆ともどもお立ちのきなされて
つかあされ」元親、久式はすすめられて妻子、一門30余人を城から出し麓へ下らせた。
 升弥助、児阿弥ら郎党は大手門外の敵にむかいさかんに鉄砲を撃ちかけ、元親、久式の妻子ら
が落ちのびたのち、元親に従い阿部山(稲荷山)へ逃れた。しかし毛利勢の重囲に陥った。

 元親は阿部山山中で進退窮まったのを知り、弥助にむかっていう。「これまで命を惜しまず仕えてく
れた国侍どもでさえ、いまは裏切りおって敵の先手についとらあ。他国者のお前ひとりがいままで付
き添うてくれたのは、殊勝のかぎりじゃ。お前はこれから松山城へ戻り、元親が切腹するけえ立ちあ
えと敵の大将にいうてくれんか。儂の母者には形見の品々をさしあげ、後生の弔いをしてくれるよう
頼んでくれ」弥助はその儀は武士の儀にそむきますと拒んだ。元親はかさねて頼んだ。弥助は涙を
流し承知した。弥助は元親の形見の品々を背負い、泣きながら山を下った。彼は元親の母をたずね
形見を手渡してから、毛利勢のむらがる松山城大手門の前に出て、雲霞の敵兵にむかい大音声で
名乗りをあげた。「われらは三村の近習、升弥助なり。ただいま斬死につかまつる」弥助は刀を抜き
はらい、毛利の侍河村新助と渡り合い、斬り倒す。弥助はなおも荒れ狂い数人に手疵を負わせた
が、四方から槍をつけられ絶命した。元親は弥助が去ったのち、毛利勢の検使を待っていたがいっ
こうに現れないので、阿部山を下り松連寺の前で村の住人と出会い命じた。「元親がここにいて切
腹するけえ、検使をよこせと芸州の陣所へ知らせてくれえ」
 元親は松連寺で検使を迎えて、いう「亡父への孝養のため、宇喜多和泉守(直家)を討ちとるべし
と存ずるところに、濁世とはいいながら天道に恵まれぬ仕儀となってござる。人の勢いさかんなると
きは、天が道を曲げて退くというが、誠じゃったといま思いあたった次第じゃ。いらぬこととは思うが、
隆景殿へ書状を書き残そう」元親はいまに至るまでの、宇喜多直家との抗争の経緯をこまかく書き
記したのち、さらに一筆をとり、辞世の歌を数首したためた。
「辞世」人という名を借るほどや末の露消えてぞ帰るもとの雫に
 元親が切腹したのは、6月22日であった。敵味方はともに彼の死を惜しんだ。

 石川久式と妻子は城を逃れ出たのち、備前天神山城へ間道を伝い向かおうとしたが、途中で虎倉
城主伊賀左衛門の部下に見咎められ捕えられた。嫡子勝法師と親族10余人は、中島大炊介に預
けられた。大炊介は小早川隆景に勝法師を出家させ、助命してもらいたいと頼んだ。だが、隆景は
勝法師の器量を知って、生かしておくわけにはゆかないと判断して、勝法師は井山谷で殺された。
隆景は三村、石川の一族をすべて引き捕え、井山で殺しおなじ塚に埋葬した。ここに三村の一族は
根絶やしとなり、滅亡したのである。

 毛利勢は備中を版図に納めた。松山城には天野五郎右衛門、桂民部大輔が城代として入った。
 7月4日小早川隆景は成羽を出立し、備前児島へ押し寄せた。毛利勢の備中経略のとき、戦闘に
直接参加していなかった宇喜多勢が先陣となった。宇喜多勢を率いているのは家老の富川平右衛
門である。
 児島の常山城は毛利、宇喜多の大軍に遠巻きにされた。常山城主上野備前守隆式(たかのり)
は、城兵200にたらぬ軍勢で最後の一戦を遂げ、切腹しようと考えていた。だが、家来たちのうちか
ら毛利に降参する者、船で退散してゆく者があいついだ。
 6日毛利勢が城内に乱入した。城兵は鉄砲の弾を惜しまず撃ちはなし、毛利勢がひるむと、隆式
の弟高橋小七郎、飽浦三郎ら数十人が突き進み、毛利勢多数が討ちとられた。
 7日の朝、隆式は毛利勢の陣所へ向かい、声高で呼びかけた。「われら一類は、ただいま切腹い
たし名を後代に残すゆえ、検使をつかわされよ」隆式の継母は五十七歳であったが、その声を聞い
て死を急いだ。彼女は刀を縁側の柱に紐でくくりつけ、走りかかって首をつらぬいた。血をほとばしら
せ、苦悶する母を見た隆式は、傍らに走り寄り「五逆の罪は恐れ多し」といいつつその首を打ちおと
した。
 嫡子源五郎隆秀がいった。「私は父上のご介錯をいたしとうござりますが、若輩なれば自害の首
尾おぼつかなしと思し召されておられりゃあ、さきにご無礼いたしますらあ」と言うと脇差を抜き腹を
十文字にかき切った。隆式は隆秀の介錯をしてやったのち、八歳になる次男の脇腹に刀を突き刺し
て殺した。
 隆式は十六歳の妹にすすめた。「お前は落ちのびよ。ここで死ぬることはねえぞ」妹は兄のすすめ
を聞かず、母と同様に柱に縛りつけた刀に身をつらぬき自害した。
 隆式の内室は、三村家親の娘であった。彼女は具足をつけたうえに経帷子を羽織、二尺七寸の国
平の太刀を腰に佩び、鉢巻をして夫の傍らにひかえていた。内室の鶴は三十三歳であったが、男勝
りの激しい気性の持ち主でそのまま自害するつもりはなかった。
 彼女は二尺七寸の太刀を抜きはらい、押し寄せる毛利勢にむかい叫んだ「この太刀は三村家に
伝わる重代の宝なれば、父家親と思いて肌身はなさじと存じて参りましたが、妾が死後には隆景卿
へ献上つかまつるなれば、供仏施僧のために使われよ」鶴は数人の侍女とともに敵中に斬り込ん
だ。彼女は毛利の侍木美十郎左衛門を斬り伏せ、本太五郎兵衛、三宅勘介に手疵を負わせ、浦兵
部宗勝の備えを追い崩したのち城に戻った。
 鶴は毛利勢の見守るなか、隆式と並んで座敷に座り、高声に唱えた。「南無西方教主の如来、今
日三途の苦を離れし者ども、並びに元親、久式、元範、実親と同じ蓮台に迎え給え。南無阿弥陀
仏」彼女は念仏を誦え終えると、隆式とむかいあい気合とともに刺しちがえた。
 鶴の介錯をした舎弟小七郎は、自ら腹を切って果てた。惨たらしい一族破滅の有様を見た寄せて
の士卒は、息を呑んで静まりかえっていた。


常山城跡北方より望む(頂上本丸附近まで車で上れます)


本丸一段下の案内板


本丸跡にある女軍の墓(ポインターを当てると正面奥になります)

 毛利輝元、小早川隆景は、軍功のあった諸大将に厚く礼物を与え、帰国をゆるした。備前国境の
支配を清水長左衛門尉(宗治)と中島大炊介に命じた。
 将軍足利義昭は、宇喜多直家、同左京亮(忠家)、与太郎(基家)、伊賀左衛門、清水宗治、中島
大炊介、三村越前、笠岡掃部、村上弾正、同八郎右衛門を鞆城に召し寄せ、褒詞を与えた。
 中島大炊介は、賀陽郡経山城領とともに幸山城の警備を命じられ、知行二千貫の加増をうけた。
彼の支配地の百姓たちは敗北した三村の残党を数多くかくまっていた。大炊介の部下がそれを知っ
て注進すると、咎めなかった。「今度の戦で亡くなった者は、一家根絶やしとなってしもうて、弔うてく
れる人もおらんようじゃが、儂は三村との旧縁をおもうたら放ってはおけんのじゃ。いっぺん供養して
やらにゃいけんのう」大炊介は、天正4年(1576)7月10日から16日までのあいだ、井山宝福寺で
雄西堂を導師として、法華経千部の供養をおこなった。
 宝福寺には、備中をはじめ近国の人々が続々と参詣し回向をたむけた。

 戦国の世では、栄達と破滅はわずかな進路の差によっておとずれるものであった。
 [どうせ露の命よ]
 大炊介は、冥土の道を歩んでゆく三村元親の姿を想像し、涙をおさえかねた。


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