備後歴史雑学 

幕末剣心伝20「天然理心流・土方歳三A」

「新選組誕生」


 清河八郎らの浪士隊が京を去るのは3月13日だが、その間に取締の鵜殿鳩翁は京都に残留す
る希望者をつのり、松平容保も浪士差配を内旨されている。
 近藤勇たちが嘆願書を出したのは、それに呼応する動きだったとみられる。残留の13人は芹沢
派5名、近藤派8名であった。

 浪士隊が帰東した翌々日、近藤や芹沢らは八木家から借用した麻裃姿で守護職の黒谷本陣へ
出かけた。この日は松平容保は不在で会えなかったが、会津藩公用方・田中土佐や横山主税が対
応し、酒肴を饗して手厚くもてなされた。
 八木源之丞の息子為三郎は当時を回想して、
「翌日はまた借り物の裃で、二・三人出かけて行きましたが、一方私の家の門の右の柱に幅一尺長
さ三尺位の檜の厚い板で、松平肥後守御預 新選組宿という新しい標札を出しました。これを掛け
ると、みんながその前へ立って、がやがやいいながら眺めて喜んでいました」
 こうして残留組は京都守護職直属となるが、13人では戦力としてはとぼしい。
 尚、この間に現地で参加した斎藤一・佐伯又三郎を加えて15人。さらに浪士組のなかから、殿
内・家里・根岸・遠藤・清水・上代・鈴木・粕谷・阿比留ら9名が残留を願い出たため、総勢は24人と
なった。

 この24人が壬生浪士組の創設メンバーだが、近藤ら15名と殿内ら9名は折り合いが悪かったら
しく、病死した阿比留を除く8名は、まもなく全員が脱走する。
 そのリーダー格の殿内と家里の二人は、近藤らの手で暗殺されてしまう。内部抗争による最初の
犠牲者であった。
 そこで京坂から隊士をつのり、6月ごろには総員52人を抱えるようになり、第一次編成が出来あが
る。


 局長は芹沢鴨・近藤勇、副長は新見錦・山南敬助・土方歳三である。

 副長助勤:沖田総司・井上源三郎・永倉新八・藤堂平助・原田左之助・平山五郎・野口健司・
        平間重助・斎藤一・佐伯又三郎・尾形俊太郎・松原忠司・安藤早太郎の13名。

 諸士調役兼監察島田魁・川島勝司・林信太郎。
 勘定方河合耆三郎。以上が第一次の編成であった。

 隊士が増え、統率してゆくためには規約が必要だ。
 土方歳三の草案により決められた「局中法度書」である。
一、士道に背く間敷事
一、局を脱するを許さず
一、勝手に金策致すべからず
一、勝手に訴訟取扱うべからず
一、私の闘争を許さず
 右条に相背き候者は切腹申し付べく候なり
 これは近藤の主張でもあった。違反すれば切腹という厳罰主義であるところに特徴がみられた。


 「大坂での働き」

 将軍家茂はこの年、文久3年(1863)3月4日に上洛して以来、公武合体の実をあげるために日
夜苦心していた。
 尊攘派の公家たちは、長州や土佐の志士たちと気脈をあわせ、攘夷即行を迫ろうと画策してい
た。

 3月11日に行われた加茂社への行幸も、その企ての一つだった。続いて4月11日には、石清水
八幡への行幸が企てられた。家茂はさすがにこの時は病と称して供奉しなかったが、もし天皇に供
奉すれば、公衆の面前で攘夷を約束したことになりかねないのであった。
 朝廷側の強い要請で、家茂は攘夷断行を約束したものの、その実現に踏み切る決意はつきかね
た。

 その期限の延期を上奏するとともに、摂津沿岸の警備状況を視察することを目的に、京から大坂
へおもむくが、壬生浪士隊はこの警固役を願い出て、5月11日まで20日間ほど随行している。
 洛中は警備が厳しく、探索方の目もひかっている。尊攘派志士たちは次々と畿内に集まってきて
いたのである。
 将軍の東帰を天保山沖まで見送った壬生浪士隊は京にもどった。

 7月に入って、芹沢や近藤たち隊士30名が大坂取締りのため下坂した。      
 歳三は近藤にいった。
「大坂へ着いたら、すぐに鴻池をたずねてもらいたい」「どうして?」
「芹沢が行く前に、あんたに顔を出してもらいたい。芹沢はおそらく金の無心に行くはずだ。主人に
誰か来たら、そういう件はすべて土方を通せと申し渡されている、と答えるように。と前もっていって
おいてもらいたいんだ」
「なるほど」近藤は大きくうなずいた。
 そうすることによって、この先鴻池は近藤派に付く、と歳三が計算していることにようやく気がつい
たのだ。

 しかし、芹沢には通用しなかったようだ。
 芹沢鴨や平間重助ら8名ほどの隊士が大坂今橋の鴻池家に押しかけ、金子二百両を強請に行っ
た。これを知った松平容保は驚き、会津藩から金を出して、この借金を返済させた。以後、鴻池と隊
との関係は深まり、土方が箱館で戦死するまで、資金援助はやむことなく続いた。
 また、この時の金で新選組のダンダラ染めの制服が出来たそうである。


 近藤らが大坂へ出張した数日後、会津藩公用方の横山主税から新選組屯所へ使いがきて、翌日
午前中に出頭せよと伝えた。
 壬生に残っている幹部は新見と歳三だけであった。翌朝二人は会津藩邸へ赴いた。

 横山は二人を引見し、意外な話をした。江戸の会津藩重役の上田一学から手紙がきて、新選組を
そっくり召し抱えようとの動きがある。というのである。
 幕府は京都の警備について頭を悩ませていた。清河八郎の策にのった形に成り、新選組がその
あとを継いだことになったが、江戸表では、五十名程度の浪士で京都の治安を確保できるとは考え
ていない。

 そこで備中浅尾藩主の蒔田相模守と、元大目付の松平因幡守に各二百名の新しい警備隊の編
成を命じた。旗本や御家人の次男や三男で腕の立つ者を集めろ、というのである。
 蒔田の方は、すぐさま講武所の剣術方の佐々木唯三郎に話を持ち込み、彼を与頭とすることで、
二百名を集めることに成功した。

 しかし、松平の方は、このとき寄合(非役)であったために、組織作りに遅れた。そこで知り合いの
上田に頼みこみ、新選組を世話してもらえないか、と申し入れてきた。
 もし、新選組が承知してくれるならば、同心格で召し抱える。というのである。
 新見の表情が動いた「まことに結構なお話のように存じます」。
 間髪を入れず、歳三はいった。
「二・三、お尋ねしたい儀がございますが・・・」「何じゃ?」
「佐々木唯三郎殿は、われらも存じよりの方でござるが、佐々木殿はいかような格を仰せつけられた
か、お聞かせいただけますでしょうか」
「佐々木は江戸で手柄を立てた故もあるが、与力格だと聞いている」
「江戸で手柄を?」
「いかにも。例の清河をものの見事に始末したそうじゃ」と横山はいった。
 歳三は目をとじて、(あの清河ほどの者を佐々木が斬ったか)
「松平因幡守様のお申し入れの儀・・・」といった新見の言葉を引き取り、
「大坂に出張しております近藤らと相談の上、御返事つかまつります」
「それがよかろう」横山はそういって席を立った。
 歳三は同心と同じ格に扱われては、おもしろくなかったのである。


 歳三は新見と話し合い、大坂へ赴いて横山の話を伝えた。
 芹沢・近藤・山南の三人が聞いた。
 近藤と山南はまんざらでもなさそうだった。歳三はすでに心に決めていた。「どうします?」とあえて
口に出した。
「どうするもこうするもない。知れたことではないか」芹沢が激しくいった。
「同心格なんぞと、ふざけた話だ。諸君、そうであろうが!」
「その通りです」すかさず歳三はいった。さすがに芹沢だ、と思った。
「芹沢局長、そうはいわれるが、せっかく会津藩を通してのお話、われわれに対する扱いが軽いとい
う口実で断るのは、角が立ちはしませんか」と山南がいった。
「それも一理ある。せめて組を預かる者は与力格のお引き立て相成らぬか否か、それくらいは申し
入れてもよいのではないか」と近藤が同調した。
「そんなことはできん」芹沢は極め付ける。「なぜです」山南が喰い下がる。
「山南君、我々は尽忠報国の志をもって連名したのだ。そうではないのか」
「いかにも」
「だったら、新選組でじゅうぶんではないか。いまさら見廻組の後塵を拝することはあるまい。それに
同心だの与力だの、諸君は、そんなものになりたくて、結盟したのか。いやさ、与力や同心で、風雲
急を告げる天下国家のことを考えられるのか。そんな、吹けば飛ぶような志の者なら、新選組にいる
ことはない。局を脱するを許さずとあるが、この芹沢鴨が許す。去って、松平の手の者に加わるがよ
い」山南は不興げに沈黙した。
(この男、やはり一個の英雄である)と歳三は思った。
「芹沢局長のいう通りだ。これで、この議は決した。土方君、会津のご重役には、我々の意のあると
ころを申し上げてくれ」と近藤も同感したらしい。

 この時期、芹沢のいうように、国内外の政情は緊張をきわめていた。
 5月10日、長州藩は攘夷令によって、馬関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加えた。ついで、
23日にフランス船、26日にオランダ船を砲撃した。
 この攘夷令は勅命によるものだった。というよりも、長州藩が朝廷を動かして、その命令を出させ
たといっていい。

 だが、諸外国が黙ってこれを受け入れるはずなない。
 6月1日、まずアメリカ軍艦ワイオミング号が、長州藩船三隻をあっさりと撃沈し、砲台に艦砲射撃
を加えて、悠々と引き揚げた。
 ついで5日、フランス軍艦が来襲し、前田砲台を沈黙させたあと上陸、長州軍本営の慈雲寺を焼き
払い、長州兵を蹴散らした。
 しかし朝廷は、長州藩に対し、おほめの勅語を下賜した。

 7月2日、こんどはイギリスの東洋艦隊七隻が鹿児島湾へ来襲する。
 その間、幕府は5月18日に、イギリス、フランス両国に対して、守備兵の横浜駐屯を認めていた。
幕府はすでに諸外国の実力を知っている。攘夷などは、言うは易く行うことの至難さをわかっている
のである。
 それは当の長州さえも知っていた。この年の4月18日に、井上聞多・伊藤俊輔ら五名をイギリスに
ひそかに留学させていたのだ。
 壬生の屯所にいる歳三は、このままではすむまい、と予感していた。
(いまに血の雨が降るだろう)と思うのである。


 このとき芹沢鴨は、大坂力士乱闘事件を起こしている。
先の記事「沖田総司」に記載しています。


8月18日の政変へ続く


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