備後歴史雑学 

幕末剣心伝19「天然理心流・土方歳三@」

近藤と土方の友情が生んだ新選組の結束


 天保6年(1835)5月5日、武州多摩郡石田村の豊農土方義醇の四男に生まれた。近年の研究
で、十人兄弟の末っ子だという。
 父親を誕生前に、母親を三年後に亡くし、兄の喜六夫妻によって育てられた。11歳のとき江戸上
野の呉服屋(松坂屋)や大伝馬町の商家へ奉公に出されたが、女性関係でしばしば問題を起こし
て、17歳のころ姉おのぶの嫁ぎ先である日野の名主佐藤彦五郎の家に奇食することになった。

 この年から歳三は剣の道を歩み始めた。流派は江戸で試衛館という道場を開き、日野方面に門弟
が多かった近藤周助の天然理心流である。
 すでに近藤勇が周助の養子となっていて、日野に出稽古に来ていた。

 安政6年(1859)、歳三が25歳のとき試衛館に正式入門し、剣の修行とともに近藤勇との交流を
深めるのである。
 歳三は少年のころから、武士になるのを夢見ていたという。
 近藤勇と歳三が育った多摩地方は幕府の直轄地であり、関ヶ原合戦の頃から千人同心と呼ばれ
ていた徳川家の警備隊により管理されていた。

 徳川家康が天正19年(1591)に、武田の遺臣を中核に在地武士や、富農層十組五百人で編成
された警備隊が始まりで、関ヶ原合戦の頃は長柄千人同心とも称された。
 平時には農業に従事し、緊急な事態がおこった時には、槍をもって戦うといった屯田的気質は、多
摩一帯の中・富農層の間にゆきわたっており、その伝統が幕末有事の際に顕在化し、新選組となっ
て歴史に浮上したともいえる。
 実際に、井上源三郎や中島登のように千人同心の血筋の者もいた。井上源三郎は、日野宿北原
八王子千人同心の井上藤左衛門の三男だった。

 八王子千人同心が主として学んだ剣は、天然理心流だった。多摩の豪農のなかにも少なくなかっ
た。近藤勇の生家宮川家も多摩の豪農である。
 幕府による浪士組の募集があったのは文久3年のことだった。近藤勇は道場をあげて浪士組に参
加することを決意し、歳三もそれに従う。
 試衛館からは門人の沖田総司・井上源三郎・山南敬助・食客の永倉新八・藤堂平助・原田左之助
なども加わり、彼らは浪士組二百数十名の一員として京都を目指すのである。


 「策士・清河八郎」

 庄内の浪士・清河八郎の献策により、浪士組が組織されたのは文久3年(1863)1月のことであ
る。
 清河八郎は出羽国田川郡清川村の生まれ、本名は斎藤元司といい、酒造業を営む名主の家で名
字帯刀を許されていた。

 弘化4年(1847)18歳の折、青雲の志を得て江戸へ出、千葉周作の玄武館道場で北辰一刀流を
学んだ。
 安積艮斎(あさかごんさい)について朱子学を学び、25歳の時に神田三河町に私塾を開いて後進
を育てた。名も清河八郎と称した。

 文久元年5月に、街頭で町人を無礼討ちしたため、幕吏に追われる身となり江戸を離れた。
 この事をきっかけに全国を遊説し、尊攘論を説いてまわった。その足跡は奥羽から九州におよん
でいる。
 久留米の真木和泉、筑前の平野国臣など西国諸藩の同志たちと会見し、薩摩の島津久光の上洛
に呼応して尊攘派志士とともに兵を挙げる計画を練ったが、久光はその企てに自藩の者が参加して
いるのを知って激怒し、刺客を送ってその連中を討ち弾圧した。いわゆる寺田屋事件である。
 清河は挙兵計画が失敗すると、江戸にまい戻り、浪士隊の募集という一策を思いつく。


 幕府としては尊攘派浪士を野放しにしておくよりも、掌握しておき、将軍家茂上洛の警備役に当て
ることができる。早速この献策は実行に移された。
 土佐藩主の山内容堂もその策に賛意をあらわし、鍛冶橋の土佐屋敷に山岡鉄太郎(鉄舟)・松岡
萬それに清河を招いて大いに激励した。
 一介の浪士が容堂公の邸に招かれ、酒肴を出されて督励されるなどというのは、きわめて破格な
ことに属する。

 2月4日には、小石川の伝通院に応募者が参集した。蓋をあけると、予想をはるかに超える浪士
が集まったが、手当金が充分でないことを披露し、それで不足はないという連中だけが残り、240
人の者が名簿に記帳した。
 浪士たちは30人一組で七組に分けられ、それぞれの組に三人の伍長が置かれた。
 山岡鉄舟や松岡萬などの取締に芹沢鴨・池田徳太郎・斎藤熊三郎ら26名が取締付として直属し
た。
 試衛館の者としては、いやしくも道場主ともあろうものが、平隊士の扱いを受けるというのは、いさ
さか腑に落ちない話だが、近藤勇はそれに堪えた。しかし、近藤の器量はおのずと外に現われた
のか、中山道を旅するうちに、西恭助に代って六番隊の伍長になったともいわれる。

 京都に着いた浪士隊は洛外の壬生村が宿所に選ばれた。鵜殿長鋭(鳩翁)ら取締役は前川荘司
方に泊り、清河八郎らは新徳寺の寺宿・田辺吉郎方に、近藤ら試衛館グループは八木源之丞方に
入った。芹沢鴨一派も近藤らと同宿である。


 清河八郎にはかねてからの思惑があった。浪士隊を尊王攘夷の尖兵に切り替える考えだ。
 到着した翌24日朝、浪士一同を本部の新徳寺に招集し、
「上洛した真の目的は、将軍警固にあるのではなく、尊王攘夷の精鋭となるところにある。われわれ
の意を天聴に達するため、上書を起草しておいた」と重大発表を行った。そして朗々とその建白書を
読みあげた。
「謹みて言上奉り候。今般、私ども上京つかまつり候儀は、大樹公において御上洛の上、皇命を尊
戴、夷狄を攘斥するの大義、御雄断遊ばされ候御事につき、草莽中これまで国事に周旋の族は申
すにおよばず、尽忠報国の志これ有るもの・・・・・」その中には、
「万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩これあるに於ては、たとえ有志の人たりとも、いささかも容赦
なく譴責つかまつり度」という言葉があり、幕府側の意図をこえるものがあった。

 この建白書はねばりにねばって、国事参政の橋本実麗や豊岡随資への謁見が許され、2月29日
には攘夷の勅諚が下された。
 清河八郎らが、手を打って喜んだのは当然である。だが、同時に幕府はそのことを知って激怒し
た。

 なかでもいきり立ったのは、将軍後見職の一橋慶喜で、政治総裁の松平慶永や京都守護職の松
平容保に働きかけ、浪士隊をすみやかに江戸へ送る帰すよう指示した。
 ちょうどその頃、生麦事件の賠償金十万ポンドの支払いを要求してイギリス艦十二隻が横浜に入
港し、関東では緊迫した日が続いていた。
 さすがの清河もそこまでは読めなかったのであろう。ほぞを噛む思いだったに違いない。

 こうして浪士隊は上洛後一月たたない3月13日に、京都を離れることになった。
 近藤勇や芹沢鴨は、浪士隊の東下に強く反対した。
「幕命を受けて上洛した我々としては、たとえ勅諚であろうと京を去るわけにはゆかない。もし我々
に関東へ戻れというのであれば、将軍家の下命によるだけだ」というのが彼らの言い分である。
 結局両者は対立したまま、別れたのである。
 しかし、江戸へ戻った清河は4月13日、麻布一ノ橋の出羽上之山藩邸に同志の金子与三郎を訪
ね、酩酊して帰る途中、見廻り組の佐々木只三郎らに斬り殺された。32歳であった。


 このとき帰東する浪士隊と袂を別って残留したのは13人であった。
 芹沢派は、芹沢鴨・新見錦・野口健司・平山五郎・平間重助の5名。
 近藤派は、近藤勇・土方歳三・山南敬助・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・藤堂平助・原田左之
助の8名であった。(尚、会津藩の記録では24名となっている)

 浪士隊には、天然理心流の息のかかった人物として、沖田林太郎・馬場兵助・中村太吉郎・佐藤
房次郎らがいたが、清河とともに江戸へ戻っている。妻子がいたためらしい。
 浪士隊が帰東した翌々日、近藤や芹沢らは京都守護職・松平容保の本陣黒谷へ出向いた。


「新選組の誕生」へ続く


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