備後歴史雑学 

幕末剣心伝21「天然理心流・土方歳三B」

「8月18日の政変」


 新選組の隊名を正式に用いるようになるのは、文久3年(1863)8月18日の政変に際して出動
し、南門の守備に当たってからである。
 壬生浪士隊の誕生から五ヶ月後のことであった。

 将軍家茂が江戸へもどると、長州の桂小五郎、久留米の神官真木和泉ら尊攘激派の志士たちと
結んだ公卿たちの暗躍はさらに強まった。
 8月13日に出された大和行幸の詔は、その一つの現われである。尊攘激派は、大和行幸を機に
兵を挙げ、討幕行動に出ることを企てていた。
 その情報をいち早く察知した松平容保は、中川宮と謀り、この陰謀を阻止するために懸命の働きを
見せた。

 中川宮は志士たちの間では信望があったが、漸新的立場をとる中川宮は、かねてから尊攘派が
天皇をあやつるやりかたに不満を抱いていた。
 そこでひそかに薩摩藩と会津藩の連盟を取りはからい、尊攘派の真意を天皇に告げて大和行幸を
中止させるとともに、君側の奸を排除するよう強力に働きかけた。
 孝明天皇は熱狂的な攘夷主義者だったが、公武合体の意識が強く、討幕までは考えていない。
 中川宮の策はうまく運び、8月18日早朝、九門の警備に会津・薩摩・桑名・淀などの諸藩兵が、甲
冑や具足に身をかため、夜明けには配置についた。
 長州藩は益田右衛門介が隊長となって、堺町門に布陣した。


 新選組も会津藩公用方の野村佐兵衛からの通達により出動した。新選組はこのとき52名。芹沢・
近藤らは小具足烏帽子姿で先頭に立ち、縦四尺幅三尺の「誠」の一字を染め抜いた隊旗を押し立
て、堂々と隊伍を組んで蛤御門へ向かった。

 ここを固めていたのは会津藩だった。だが、藩士の中にはまだ新選組を知らない者がいた。
 甲冑に身をかためた一人の武士が、無断で通ろうとする一行を押しとどめ、「何者であるか、身分
姓名を名乗られよ」芹沢は傲然とした態度で、
「会津藩お預かりの新選組である。公用方の達示により、お花畑までまかり通る」と答えた。
 会津藩兵は、そう答える芹沢の鼻先に槍の穂先をつきつけ、
「そんな者は知らんな」芹沢はせせら笑い、
「これは何だ」と腰から鉄扇を抜き取り、
「お手前、会津藩のお身内でありながら、新選組を知らぬとはまことにもって、うかつな話だ、よくそ
れでお役目がつとまるな」と芹沢はやりかえした。
 隊士たちは緊張して成行きを見守った。

「こやつ・・・」芹沢の人を喰った態度に守備兵たちは、いきり立ち、あわや・・・というところに、
「待て。はやまるでないぞ」と、軍事奉行の西郷十郎右衛門が割って入った。そのため同士討ちとい
う大事にならずにすんだ。
 見ていた歳三でさえ、(大したもんだ)と感心せずにはいられない程の豪胆ぶりであった。

 副長助勤で松原忠司という人物は、早くから髷をおろしていた。この日の出動では、この坊主頭に
鉢金の入った白鉢巻きをし、大薙刀をかついでいて、さながら弁慶その人を見るようだったそうだ。
 松原は、隊伍を組んで市中を行進する途次、声をはりあげ、節をつけて、
「方今の形勢累卵の如し、天下の有志これを知るや否や」と詠い、沿道の人々がおどろいて、その
行列を眺めたという。


 この日の出陣の模様を会津藩士鈴木丹下の[騒擾日記]には、
「・・・壬生浪人と号した居候者ども五十二人一様の支度致し、浅黄麻へ袖口の所ばかり白く山形を
抜き候羽織を着し、騎馬提灯へ上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打ち抜きに黒く書き置き候」
 そして近藤や芹沢の印象を、
「その中近藤勇と云う智勇兼備はり何事の掛合に及び候ても滞りなく返答致し候者の由、芹沢鴨と
申す者は飽まで勇気強く、梟暴の者の由にて、配下の者おのれが気に合わぬ事これあり候へば、
死ぬほど打擲致し候ことなどこれある候由。然しいずれも才力勇気を以て大将とあがめられ候こと
故、誰も違背に及ぶ者これなき由に候」
 と述べている。

 柳原前光の説得もあって、長州藩兵は日暮れ近くに撤退した。そして参内を禁じられていた公卿
のうち、三条実美・東久世通禧ら尊攘派公卿たち七人は、翌朝長州へ向かって落ちて行った。これ
を七卿落ちという。
 こうして洛中から長州藩兵の姿が消えた。しかしまだ長州藩士や脱藩浪士たちが市内に身を潜め
ている。
 そこで新選組の市内見廻りという特別な任務があたえられるのである。


「芹沢鴨惨殺」へ続く


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