備後歴史雑学 

幕末剣心伝18「天然理心流・沖田総司」

肺病の身を剣に賭けて、幕末を生きた剣鬼沖田の悲壮なる一生!


 天保13年(1842)、陸奥白川藩士沖田勝次郎の長男として、白河藩江戸下屋敷に生まれる。幼
名は惣次郎。
 母親の名は不明で、没年もわかっていないことから、総司が幼少の頃に亡くなったものと思われ
る。
 総司の父の勝次郎は、江戸詰めの白川藩士だったが、家禄は二十二俵二人扶持の軽輩であっ
た。

 勝次郎は弘化2年(1845)に没しており、総司はまだ4歳であった。勝次郎の生年は不明である
が、光・きん・総司と三人の子があった。
 光は天保4年の生まれで、総司よりも9歳年上である。総司は9歳のときに、近藤周助のもとへ入
門している。
 光は嘉永4年(1851)8月26日に、林太郎と結婚した。総司が近藤周助のもとへ入門したのと同
時期である。
 光は結婚にさいし、いったん近藤周助の養女となり、先に沖田家に入籍した林太郎のところへ嫁
してきた。

 林太郎は多摩の井上家の出身である。弘化2年の勝次郎が没する前に入籍していなければ、武
家の規則からいって沖田家を相続することはできない。この年、光は14歳、林太郎は22歳である。
総司はまだ4歳の幼児であったので、沖田家は林太郎が継いだのである。
 万延元年(1860)か翌年のころ、藩では約一割の人員整理をしたが、沖田家もそのとき整理の対
象となって林太郎は浪人した。

 総司がなぜ試衛館に入門したのかは、林太郎の実家は日野の井上家だが、その親戚筋に天然
理心流を学ぶ井上源三郎がいたのである。
 総司は試衛館に内弟子として住み込み、剣術の修行に打ち込んだ。
 その剣技は十代のうちに免許皆伝に達しているので、総司には天性の素質があったことがうかが
える。
 文久元年(1861)4月、二十歳のときにはすでに試衛館の塾頭をつとめている。この頃、名を惣
次郎から総司へと改めた。


 文久3年2月、道場主の近藤勇や土方歳三ら試衛館一門とともに、総司は幕府浪士組に参加して
京都に上り、新選組の組織編成にあたっては、局長近藤勇、副長土方歳三を補佐する副長助勤と
なり、のち一番隊組長をつとめて活躍した。また、隊士たちに剣術を教授する撃剣師範も兼務した。

 その剣が最初に振るわれたのは、文久3年6月3日の大坂力士乱闘事件である。
 事の起こりは些細なもので、局長筆頭の芹沢鴨の行手を力士がさえぎった。芹沢は「どけ」とどな
ったが、相手はどこうとしない。すると芹沢は、一刀のもとに斬ってしまった。

 芹沢は水戸の天狗党時代に何人も斬っているので、斬り合いの経験も豊かだった。このとき芹沢
には、近藤派の山南・永倉・斎藤・島田・総司らが同行していた。しかし、総司らはまだ真剣で人を
斬ったことはなかった。
 芹沢らが北の新地で飲んでいると、殺された力士の仲間が五十人ばかり押しかけてきた。

 芹沢がまず飛び出して行き、総司らも放ってはおけずに、乱闘に加わった。
 力士たちは、樫の八角棒を武器にしていたが、即死六名(人数は諸説あり)、重軽傷者十五名を
出して退いた。
 総司はこのとき、力士の八角棒を側頭部に受け、負傷しながらも刀を風車のようにして戦った。生
まれて初めての実戦であった。


 芹沢の乱暴が過ぎるので、会津藩はひそかに近藤に芹沢暗殺を命じた。
 近藤は、土方・原田・総司の三人に暗殺を指示した。山南を加えて四人。
 9月18日夜、新選組は島原で慰労会を開いた。芹沢は大いに飲み、酔って八木邸に帰宅した。そ
こを襲うことにしたのだ。

 西本願寺の侍臣だった西村兼文の「壬生浪士始末記」によると、
「沖田総司は芹沢の寝所に忍び入り、言葉もかけずに芹沢を斬る。芹沢、驚きながら心得たりと起
き直り、脇差を抜いて討ち掛る。沖田の鼻下に軽傷を負わせたれども、土方歳三の二の太刀を受け
損い、斬り倒されて遂に命を落す。姦婦ウメも即座に斬殺されたり」
 ウメという女は、四条堀川の商人菱屋太兵衛の妾だったが、芹沢が横取りしたのである。非常な
美人だったようである。

 八木源之丞の妻まさの証言によると、
「四・五人が刀を抜いて、芹沢の部屋に襖を蹴破るように侵入した。芹沢は脇差を取る余裕もなく、
裸のままで隣室へ転がりこみ、子供二人(まさの子の為三郎と勇之助)が寝ている布団の裾の方に
倒れた。暗殺者はそれをめった斬りにした。ウメも血だらけで死んだ。首がもげそうに斬り殺されて
いた」という。別室の平山は、首が胴から離れていた。もう一人の平間は無事だった。

 知らせを受けて前川宅からやってきた近藤が、
「どうも長州人にやられたらしい」と、見えすいたことを言ったらしい。


 総司がつぎに加担した暗殺は、大坂で与力の内山彦次郎を殺したものである。内山は力士との乱
闘事件で、新選組と対立していた。
 永倉の回想録によると、内山殺しには、近藤・土方のほか、総司・永倉・原田・井上源三郎・島田・
山崎蒸の八人が加わったという。
 元治元年(1864)5月20日夜十時ごろだった。永倉は、土方が最初の突きを入れ、駕籠から出
たところを近藤が斬ったとしている。
 この時期、総司はすでに胸を冒されていたようである。

 のち6月5日の池田屋事件では、近藤に従って最初に池田屋に突入し、討幕派浪士数人を斬り倒
す。しかし、戦闘中に肺結核の発作で喀血し、途中で戦場を離脱することになる。

 この時の様子を近藤は手紙に記している。
 最初に斬り込んだ五人のうち、無傷だったのは近藤と総司、近藤の養子の周平の三人である。
 永倉の刀は折れ、総司の刀は帽子が折れ、藤堂の刀はササラのようになり、周平の槍も斬り折ら
れた。とい記載がある。

 総司は「突き」が得意だった。彼の突きは、続けざまに三度突いたが、それが一回のように見えた
という。総司の刀の帽子(切っ先)が折れたことは、彼が突きを多用したことを物語っている。また、
狭い屋内での斬り合いでは、突きは最も効果的だったようだ。
 当時、結核は不治の病であった。それでも、栄養のある食事をとり、安静にして毎日を過ごせば、
治癒する可能性がないわけではない。
 総司も、できればそうするべきだったろうが、新選組の斬り込み隊長という立場がそれを許さなか
った。
 このあとも総司は新選組にとどまり、近藤や土方を助けて戦い続ける。


 総司の剣は敵に向けただけではなく、隊内の粛清にも振るわれた。
 元治2年2月23日には、山南敬助の介錯をする。
 同慶応元年(1865)、隊を脱走し大坂に潜伏していた酒井兵庫を、五・六人の部下を引き連れて
追捕に向かい、取り囲んで斬殺する。

 慶応3年1月7日には、総司は永倉・斎藤とともに、十津川郷士中井庄五郎、土佐郷士那須盛馬
と四条大橋で戦い、那須を負傷させた。
 また同年、脱走して敵方に走ろうとした浅野薫を斬り捨てる。
 しかし、このあと総司の肺結核は悪化し、12月20日隊を離れ、療養のため大坂へ下っている。

 翌慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いで惨敗した旧幕軍と新選組は、富士山丸で江戸に帰着した。
 新選組は、甲陽鎮撫隊として3月1日に江戸を出陣した。総司も同行したが、土方の故郷である日
野を通過するあたりまでは、なんとか気力でついて行き、土方の義兄佐藤彦五郎の家では、
「池田屋で斬りまくったときは、かなり疲れましたが、まだまだこのとおり」と言って、相撲の四股を踏
むまねをして見せ、周囲を心配させまいとしたという。
 しかし、強がりもここまでで、総司は完全に戦列から離脱し、以後は浅草今戸の幕医松本良順邸
にかくまわれる。
 さらに千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に移って療養につとめたが、ついに再起できず、5月30日、静
かに息を引き取った。享年27歳であった。


 こんな話が残っている。
 試衛館時代からの仲間であった山南敬助が、総司の介錯で切腹して、山南は近くの光縁寺に葬
られた。
 この寺の過去帳につぎの記入があるそうだ。
「慶応三年四月二十六日 真明院照誉貞相大姉 沖田氏縁者」
 戒名だけで、俗名は書いていない。死んだときの年齢も不明である。
 葬ってくれと頼みにきたのは沖田総司なのだという。彼の血縁の女性はすべて江戸にいる。従っ
て「縁者」というのは、内縁の妻だったことである。という解釈がなされている。

 さらに、当時の男女関係からすると、近藤が囲っていたような女性(二人いた)の場合は、近藤の
名前で葬ることはしない。女性の実家に金を渡して葬らせるのが普通である。
 だから、沖田氏縁者というのは、事実上の妻だったことの表現である。
 平隊士は屯所内に起居するのが原則であったが、幹部は屯所外の居住を認められていた。

 永倉も結婚しようとしていた女性と一戸を構えていた。
 総司は伝染する病気だったので、外で療養しており、かつこの女性に看病されていたのではない
か。
 そして、この女性が感染し、総司に先立ったのではないか。一般の隊士たちは島原でよく遊んでい
たが、総司は遊ばなかったという。この女性がいたためであろう。

 彼があとを追うようにして亡くなるのは、一年後である。すでに近藤は板橋で処刑されていた。
 総司は、愛する女性を失い、師匠を失い、すでに生きようとする気力をも失っていたのかもしれな
い・・・。


「新選組壬生屯所遺蹟の画像」


前川邸の外観(この右奥斜向いが八木邸)


前川邸母屋正面


前川邸の案内板


八木邸の入り口


八木邸の正面


八木邸の案内板
八木邸内は撮影禁止です。観覧料千円で芹沢一派暗殺の様子を詳しく解説しています。母屋
と内庭は当時のままです。説明後抹茶と餅が出ます(八木家現当主は和菓子業で、入口が京
都鶴家鶴寿庵)。お土産を購入しました。八木邸公式HPは こちら


八木邸の南隣にある壬生寺


壬生寺内にある新選組隊士の墓所


新選組墓所にある案内板


正面が近藤勇の胸像:左側に芹沢鴨等の墓がある(以下左奥からの墓碑画像)


芹沢鴨・平山五郎の墓


新選組隊士の墓


河合耆三郎の墓(商家で裕福だった親が建てたとの事)


近藤勇の遺髪塔


昭和46年に建立された近藤勇の胸像


新選組顕彰碑


新選組隊士慰例霊塔



京都守護職・会津藩主松平公本陣旧趾:紫雲山・くろ谷 金戒光明寺の山門


御影堂(大殿)から見た黒谷金戒光明寺の山門


「土方歳三の生涯」へ続く


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