備後歴史雑学 

幕末剣心伝15「天然理心流・近藤勇C」

「新選組崩壊」高台寺党の離脱と油小路の惨劇


 長州藩では高杉晋作らの正義派が俗論党を追放し、主導権を握ると、ふたたび幕府に対抗する
身構えを示した。
 そこで幕府は、慶応元年(1864)5月には将軍家茂みずから上洛し、さらに大坂城に入った。

 9月になって改めて参内した上で勅許を得、開戦を前にとりあえず大目付の永井主水正尚志らを
長州訊問使として広島へ急派したが、新選組もこれに随行している。
 近藤内蔵助の変名を用いた勇の他、武田観柳斎・伊藤甲子太郎・山崎蒸・前野一郎・芹屋登・新
井忠雄・尾形俊太郎・服部武雄らである。
 単なる随行ではなく、広島から防長二州に潜入し長州領内の実情を探索するのが目的だった。
 近藤は「万一の事もこれ有る節は、小子の宿願歳三氏へとくと申し置き候」と故郷の佐藤彦五郎
へ書き送るほどに、決死の思いだった。

 長州側は宍戸備後助を使節として広島に送り、訊問使と応対させたが、要領得ないありさまであ
った。
 訊問が終わったあと、永井主水正は近藤ら四名の者を同行させたいと宍戸に頼んだが、宍戸は
婉曲にことわった。宍戸としても、引き馬を引き連れて戻る気にはならなかったのである。
 しかし近藤らはあきらめず、岩国の藩境近くまで接近したが、結局入ることは拒まれ京へ引きあげ
るが、近藤たちの眼には恭順をよそおってはいても、内実は戦備を整えつつある事が、よくわかって
いたのだ。

 なお近藤や伊藤は、翌年正月末にも老中小笠原壱岐守長行に随って再度広島へ出向いている。
 伊藤甲子太郎は二度にわたる長州下りで、次第に自生の動きを感知しはじめた。近藤が徳川家
に殉じる意識を強めるのと反比例して、伊藤は反幕的方向に眼を向けるように変わってゆく。


 幕府は第二次長州討伐を開始し、芸州口・石州口・上関口・下関口などを固めるが、すでに薩長
の攻守同盟が結成されていたのである。
 6月5日に幕府は進撃を命じた。

 大島方面での戦闘を皮切りに、芸州口・石州口・小倉口と戦線が拡大した。
 しかし、長州勢の大村益次郎・高杉晋作らの奮戦により、石州口と小倉口では長州勢の圧倒的勝
利に終わった。
 その敗報を聞くうちに将軍家茂は病を発して21歳の若さで歿し、第二次征長は無惨な敗北を喫し
た。

 慶応2年(1866)9月7日に十五代将軍慶喜は、長州征討、兵庫開港などの処理を講ずるため京
都会議を招集する。
 これを機に、かねて長州に好意を寄せていた伊藤甲子太郎は、長州処分に寛大な尾張徳川慶勝
をたよって、篠原泰之進とともに名古屋に向かい、慶勝の上京を懇願している。
 こうして伊藤一派はますます近藤ら主流とは離反することになるが、以後何度か近藤や土方と時
勢を論じ、決裂以外にないところまで行きついた。


 慶応3年3月10日、泉湧く塔頭戒光寺の長老堪然の斡旋で、孝明天皇の御陵衛士を拝命し、即
刻新選組の本営を退去することになる。
 伊藤甲子太郎に従う者、鈴木三樹三郎・篠原泰之進・藤堂平助・新井忠雄・内海二郎・加納道之
助・阿部十郎・橋本皆助・富山弥兵衛・毛内有之助(監物)・清原清・服部武雄・佐原太郎・中西登・
斎藤一の計15名であった。ただしそのうちの斎藤一は、近藤の密命をうけて伊藤一派に潜入した
スパイだった。

 伊藤一派は新選組を離脱すると、山陵奉行戸田忠至の支配下に属して東山の高台寺内月真院
に入り、高台寺党と呼ばれるのはこれからだ。
 そして積極的に各地を遊説し、討幕派志士との交渉を深めていき、薩長土の志士たちの往来も激
しくなった。
 伊藤は薩摩の大久保一蔵(利通)に、今後の援助を確約させている。伊藤の死後高台寺党が薩
摩藩の庇護をうけたのは、この結果である。


 慶応3年6月10日、新選組はそれまでの功を認められて直参とされた。
見廻組与頭格=近藤勇。与頭格は三百石に役料三百石。
   同肝煎格=土方歳三。肝煎格は七十俵に役料五人扶持。
見廻組格=沖田総司・永倉新八・井上源三郎・原田左之助・山崎蒸・尾形俊太郎。
見廻組並=茨木司・村上清・吉村貫一郎・安藤主計・大石鍬次郎・近藤周平。
 こうして新選組、いや試衛館道場のグループは晴れて幕臣としての格式を得たことになる。

 ところが伊藤一派と気脈を通じていた茨木司ら十名の者が異論を唱えた。「尊王攘夷を唱えながら
幕府の格式を受けるのは、二君に仕えるようなものだ」というのである。
 そこで茨木ら十名の者は、会津藩公用方の許へ押しかけ、強談判におよんだ。次いで伊藤甲子
太郎のもとを訪ね、経過を報告した。
 再度十名が公用方へ出かけてゆき、会津藩邸で新選組に不意に襲われ、茨木他四名が落命し、
六名は追放された。
 尚、幕府の格式を受けた者のなかでは、茨木司一人だけであった。
 伊藤甲子太郎は機を見て彼らも高台寺党にさそうつもりであったのだろうが、同志をむざむざ犠牲
に供することになった。
 そこでなんとか茨木司らの復讐を果たしたいと考えるようになった。伊藤一派が狙ったのは近藤勇
である。


 高台寺党にもぐっていた斎藤一が重要な情報を近藤のところへもたらした。近藤暗殺の計画が練
られているというのである。
 11月22日が決行日と決められたが、斎藤一は乞食姿に変装して近藤に面会して通報した。
 そこで先手を打って、伊藤甲子太郎を誘い出し血祭りにあげようということになった。

 近藤は11月18日に、伊藤を七条醒ヶ井の妾宅へ呼んだ。長州に送り込むスパイの費用として三
百両を用だててほしい、という伊藤からの頼みに応じるという名目で呼び寄せたと伝えられるが、真
相は判らない。
 伊藤はまわりの者が心配するのを押し切って気楽に出掛けた。
 近藤はこれまでのしこりをさらりと洗い流したような態度で、伊藤を大いにもてなし、労をねぎらっ
た。
 そして酒をくみかわしながら、国事を論じ、時の移るのも忘れて語りあった。伊藤はなかなか弁もた
つ、大いに飲み大いに語ったのは伊藤だったかもしれない。
 昼すぎから夜おそくまで飲み続けた。ようやく腰をあげた時は、かなり酩酊していたようだ。

 酔顔には寒気が心地良かった。月を仰ぎながら木津屋橋を東に入った。
 伊藤が法華寺の門前にさしかかると、物陰からいきなり槍がくり出された。さしもの剣客も酔ってい
て不覚にも肩のあたりを刺されてしまった。
 思わずよろめくところを、もと伊藤の馬丁をしていた勝蔵という男が斬りかかる。伊藤は深傷を負い
ながら、抜き打ちにその勝蔵を斬り倒し、肩先の傷口を押さえて、法華寺門前の台石にやっとの思
いでたどりつき、息をひきとった。

 大石鍬次郎は「人斬り鍬次郎」と呼ばれていた。一の槍をつけたのが鍬次郎だったが、宮川信吉・
横倉甚之助らも近寄って斬りつけてみた。
 しかし伊藤の身体は反応もなく、されるままになっている。
 大石たちは遺体を油小路の辻のど真ん中まで引きずってゆき、そこに放り出した。
 伊藤の死体を囮りにして、駆けつける一味の者を待ち伏せしようという魂胆である。


 伊藤甲子太郎の死を月真院に連絡したのは油小路近くの町の者だったという。
 高台寺党の面々は、おっとり刀で駆けつけようとしたが、甲冑の用意をしてゆくべきと主張する者、
もしも甲冑を着て討ち倒されることあらば汚名の上塗りだという者もいて、直ぐには飛び出せない有
様だった。
 しかし遺体をそのままに打ち捨てておくわけにはゆかない。怪我人を収容するために出向くわれら
を、理不尽にあつかうこともあるまいという意見が通って、駕籠を用意して七名の高台寺党が油小路
に向かった。
 鈴木三樹三郎・藤堂平助・服部武雄・篠原泰之進・加納道之助・毛内監物・富山弥兵衛の七名で
ある。

 新選組では永倉・原田たちが隊士二十名を引き連れて物陰にひそみ、高台寺党の現われるのを
待っていた。
 油小路に現われた高台寺党の面々が、無惨にも放置されている伊藤の遺体を駕籠に押し込み、
かつぎ去ろうとする頃合いを見はからって、取り囲み、まわりから斬りかかった。
 藤堂は一番に抜き合わせ、篠原・富山・鈴木・加納は東西に別れて、新選組の一党と斬りむすん
だ。
 藤堂は全身に十カ所以上の傷を受け、東側の溝の中に仰向けに倒れてこと切れた。浪士隊結成
以来の古参幹部だ。29歳であった。

 服部武雄は民家の門柱を背にして斬りまくった。腰に馬乗り提灯を差したままの奮戦だったとい
う。原田左之助の槍に突かれてあえない最期をとげた。
 また毛内監物は津軽の脱藩浪士で、文武にたけ「毛内の百人芸」といわれたほどに何でもこなし
たらしい。服部は35歳。毛内は33歳だった。
 伊藤など計四体の死骸は、そのまま三日間も路上に放置されたままだった。

 西本願寺の寺侍・西村兼文が見るに見かねて屯所に近藤を訪ね、遺体を収容したいと申し出たと
ころ、近藤は、下手人は土佐藩の者と聞いたが、高台寺党の面々が引き取るものと思って手を出し
かねたが、それでは当方で処理しましょうと、事もなげに語ったという。
 危機を脱した篠原・鈴木・加納・富山らは河原町の土佐藩邸に駆けつけたが、入るのを拒まれた。
 そこで二本松の薩摩藩邸にのがれ、しばらくここに潜伏した。
 篠原らが近藤を眼の敵として、つけ狙うようになるのはこれからである。


 東山霊山の山麓にある高台寺。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉歿後その菩提を弔
うために、秀吉正妻の北政所(おね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606年)
開創した寺である。(伊藤ら高台寺党が居た月真院は現在非公開)


高台寺を代表する茶席「遺芳庵」


「開山堂」高台寺第一世の住持(三江紹益禅師)を祀る塔所である
左右壇上には木下家定(おねの兄)等の像も安置されている


方丈より見た勅使門と前庭



「鳥羽・伏見の戦い」へ続く


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