備後歴史雑学 

幕末剣心伝16「天然理心流・近藤勇D」

「新選組崩壊」鳥羽・伏見の戦い


 慶応3年(1867)5月、幕府は薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の
松平春嶽を上京させ、いわゆる四侯会議を開き長州処分をはかった。
 しかし四賢侯はかえって幕府の失政を批判し、長州藩主毛利敬親の官位を復旧し、幕府反省の
実を見せるのが第一だとして譲らなかった。
 そのため朝議も紛糾をつづけ、次第に四賢侯の主張に傾く者が現われた。だがそうなると、幕府と
長州の立場は完全に逆転してしまう。

 このような情況下に、6月14日夜二条城で親藩会議が開かれた。
 これに出席した近藤勇は、四賢侯の考えを批判し、
「長州征討は、朝旨を受けた行動であり、幕府に非はない。それを今さら暴挙だとするのは筋道をあ
やまっている」と主張し、さらに松平春嶽に対し、
「外様の三侯と異なり親藩の立場からは、当然幕府を庇護すべきなのに、他の諸侯に雷同するとは
何事か」と強硬意見を開陳した。
 諸侯を前にして堂々と自説を述べて譲らなかった近藤の態度はみごとなものがあった。
 近藤勇も一介の武辺ではなく、政客として活躍するようになったのである。それは近藤個人の意見
にとどまらず、新選組全体の主張だった。
 土方歳三・山崎蒸・尾形俊太郎・吉村貫一郎らは、柳原前光・正親町三条実愛などの屋敷を訪
れ、幕臣としての立場を開陳し、陳情している。


 四侯会議が失敗におわって土佐に戻った山内容堂は、後藤象二郎に全権をゆだねた。
 後藤は上京するとまず薩摩を主軸とする討幕派、会津を中心とする佐幕派の双方に働きかけ、大
政奉還建白の予備交渉に入った。この大政奉還策は坂本龍馬の構想にもとずくものだ。
 薩長同盟を成功させた龍馬は、土佐の参政・後藤に働きかけ平和裡に慶喜を退陣させ、政権を奉
還させるよう工作したのだ。

 近藤としては聞きずてならない動きである。大目付の永井尚志の紹介で後藤と対面した近藤は、
殺気をただよわして、建白書の写しを見せてほしいと懇願した。
 そのおり後藤は、近藤が傍らに置いた大刀を指さし、「長いものは嫌いだ」と言ってしりぞけさせた
という。
 初対面は9月20日、次回は26日の予定であったが、後藤に所用があって10月1日にのばされ
たが、これも多忙のため実現していない。
 近藤は、後藤の豪快な人柄にひかれるものがあったらしく、
「貴藩に籍をおいていれば、思いのまま行動出来たであろう」と嘆息したという。新選組の者に、後
藤には危害を加えないよう指示したという。
 しかし状況は近藤の思惑を超えて急速に煮詰まり、大政奉還からさらに王政復古へと推移してゆ
くのである。


 この年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。
 薩摩・尾張・越前・芸州・土佐五藩によって禁裏警備が固められ、佐幕派公卿の参内は禁じられ
た。
 さらにその夜、小御所で開かれた会議では、慶喜の領地返上と官位辞退が決められ、京都守護
職・京都所司代なども廃止となった。
 退京を命じられた会津・桑名の両藩及び直参は、二条城に集まって薩長の陰謀だといきまいた
が、慶喜は事を荒立てるのをおそれ、自ら身を引くかたちで12日にひそかに大坂城へ移った。

 新選組は京都守護職の廃止とともに「新遊撃隊御雇」と改まった。
 そして二条城の守護にあたったが、大場一心斎の率いる水戸藩士たちと折り合わず、永井尚志
のはからいで旧新選組は伏見奉行所に駐屯することになった。その時の隊員数は永倉新八の記録
では六十六名である。

 12月16日の夕刻、近藤は秋田の浪人で小林桂之助という隊士を斬殺している。
 小林は高台寺党の一味で、離脱もせずに隊にとどまり、ひそかに薩摩屋敷に通報していた事が判
ったのである。

 17日の夜、高台寺党の残党の一人加納道之助が、近藤の妾宅に沖田総司がひそんでいると聞
きこんできた。一味の阿部十郎・内海二郎らが、翌早朝そこを急襲したが、すでに沖田は伏見に帰
ったあとだった。持病の結核が悪化し、隊より一足おくれて出立したのであった。
 ところが18日の午後になって阿部たちは、京都寺町で馬に乗って通る近藤を見かけたのである。
近藤は二条城まで連絡のため出向いた帰りであったと思われる。

 阿部十郎・内海二郎・佐原太郎らは、すぐさま薩摩藩邸に駆け戻り、篠原泰之進・加納道之助・富
山弥兵衛らにそのことを告げた。
 そして、先へ回って藤森神社で鉄砲を用意して待ちかまえた。篠原と加納は仕損じたときのため
に槍を持ってひそんだ。

 富山弥兵衛の狙った銃弾が近藤の肩と胸の間に命中した。
 近藤は鞍壺につかまったまま駆け抜け、伏見奉行所の屯所まで馬を走らせた。そして転がるよう
に馬を降り、「誰かいないか」と言いながら奥へかけこんだ。
 永倉新八が「一番隊、二番隊の者はつづけ!」と叫びながら走りだした。

 高台寺党の一味は薩摩藩邸に入るのを避けて、夜のふけるのを待って今出川の薩摩藩邸に入っ
た。
 近藤は伏見の屯所で応急処置を受け、おちついたところで大坂城へ送られた。慶喜は負傷した近
藤の病状を気づかって松本良順を急派している。


 近藤の負傷で、隊の指揮は副長の土方歳三が執った。彼らは新遊撃隊御雇などという改称をうけ
つけず、新選組でおし通した。
 慶応4年(1868)は戊申にあたる。年が改まると慶喜は大坂城内での主戦派の強硬意見を押さ
えきれなくなり、薩摩の罪状のかずかずを列挙した討薩表を掲げて、兵を上京させることに決定し
た。

 江戸表で挑発行動を続ける薩摩藩の強引なやりかたにより、薩摩屋敷焼き打ち事件の詳細も届
いていた。
 旧幕府軍は老中格の松平豊前守(大河内正質)を総督、若年寄並の塚原但馬守昌義を副総督と
し、淀に本営を定めて、京へ向かった。
 薩長を主軸とする警備軍が総勢五千であったのに対して、旧幕府軍は一万五千をこす大軍であ
り、淀以北にいる兵力だけでも一万を超えていた。

 旧幕府軍の先鋒は3日の朝伏見に進み、薩摩・長州・土佐藩兵と対峙した。
 先鋒隊指揮官・陸軍奉行竹中丹後守重固は、慶喜の上洛に伴う徳川軍の通行を通告した。
 薩摩藩の軍監は朝廷の許可がないので、通せない。押し問答のうちに、午後五時ごろ鳥羽方面で
砲声が轟いた。


 鳥羽・伏見の戦いは、鳥羽街道四つ塚の関門を強硬突破しようとする滝川播磨守の一隊を、薩摩
の守備隊が小枝橋付近で迎え撃った時に始まる。
 討薩表を掲げた滝川播磨守の一隊を警護したのは桑名兵を主力に佐々木只三郎の率いる見廻り
組四百名の精鋭である。

 それを迎え討つ守備兵は、彦根藩・西大路藩のほかに3日の朝増援に駆けつけた薩摩藩兵であ
り、刀槍を武器とする見廻り組と銃砲で装った薩摩軍とでは勝負は目に見えていた。
 旧幕軍に砲がなかったわけではない。しかし機先を制した薩軍の猛攻を前にしては、見廻り組の
必殺の剣も蟷螂の斧にすぎない。
 こうして鳥羽口での戦いは、その緒戦で旧幕軍はおくれをとり、歩兵指図役の石川百平、大河原
ユ蔵など戦死する者の数も百を下らず。
 滝川播磨守の討薩表が、高徳藩(下野)主戸田忠至を介して朝廷に提出されるのは1月5日にな
る。


 一方伏見口では、早くから旧幕軍と薩長軍は対峙していた。薩軍司令の島津式部は、朝廷に伺い
をたてた上でといって、いっかな許そうとしない。
 交渉は昼から夕刻にかけて続けられ、次第に両陣営ともに増援の兵力が増えて、いずれもしびれ
をきらしはじめた処へ、鳥羽方面から砲撃が響いた。

 それをきっかけに、、御香宮に布陣していた薩軍の指揮官吉井幸輔は、伏見奉行所へ向けて集
中砲火をあびせかけた。
 続いて東側の小高い丘に布陣していた大山弥助(巌)の銃砲隊からも銃砲がねらい撃ちしてくる。
 旧幕軍にも大砲はあったが、いずれも旧式の物だった。撃ち返すが、着弾が短く、いたずらに土煙
をあげるだけだった。
 たちまち奉行所は燃え上がった。

 伏見奉行所に屯営していたのは、土方歳三率いる新選組百余と、今堀越前守の統率する遊撃隊
の剣士五十名。
 しかし銃の装備は持たず、応戦したのは会津藩大砲奉行林権助が指揮する砲四門である。
 新選組と会津藩士佐川官兵衛の率いる斬込隊の、その腕を発揮するのは白兵戦になってからで
ある。
 旧幕軍は何度か肉弾突撃を繰り返すが、薩長軍はそれをしのぎ、夜の12時ごろになって一挙に
奉行所へ突入してきた。そして火を放つ。
 新選組と会津兵は京橋口に退き、抵抗を重ねながらも、淀まで兵をさげた。


 夜遅くのこと、朝廷は仁和寺宮を軍事総督とし、翌日には征討大将軍として、錦旗と節刀を授け
た。 4日、征討大将軍は本営東寺に進出。
 淀城の旧幕軍は、再び鳥羽・伏見に肉薄するも、伏見方面は敗れて淀に退却。
 鳥羽方面も、伏見から進出した官軍に側面を突かれ、退却したが、官軍の追撃は夜になっても止
まなかった。戦いは夜通し行われた。

 仁和寺宮は5日の朝、錦旗をひるがえして本営の東寺を出陣した。仁和寺宮を擁した薩軍は、淀
川堤まで押し出して、錦旗を押し立てた。
「何だ、あれは」会津兵たちは首をかしげた。
「これぞ、王師の印たる錦の御旗なり」薩軍の兵士たちは、はやし立てた。

 会津兵は、それを耳にしてさすがに動揺した。5日の午前中、淀城に逃げ込もうとした旧幕軍を淀
藩は拒んだ。そしてなんと官軍を入城させたのである。

 淀城主稲葉美濃守正邦は、幕府老中であり江戸に居た。
 その上、6日には山崎を守る津藩が淀川対岸の橋本まで退いた旧幕軍に対して、発砲したのであ
る。
 全軍総崩れとなり、あとは慶喜のいる大坂城に逃げるしかない。
 西国・近畿の諸藩は、官軍の全面勝利に去就を決めたのである。


 土方歳三ら新選組は、6日の夜になって宿舎に割当てられた天満橋の代官屋敷に入り、人数を調
べてみると約五十名だった。
 近藤勇は沖田総司と一緒に、城代下屋敷で療養していた。歳三を見ると、「おお、歳か」歳三は軍
装のままである。
「お味方の負けだったそうだな」「面目ないことだ。で、傷は」
「膿をもってしまってな。右手が動かない」「剣は?」「まだ無理だ」
「なあに、心配することはない。今度の戦ではっきりわかったが、刀や槍が扱えなくなったとしても、
鉄砲が撃てればいくらだって戦える」
「敗因はそれか」
「それもある。こちらの旧式の銃砲ではたしかに勝負にならなかった。しかし、会津の人たちは見事
だった。じつに勇猛だった。そして新八も左之も立派に戦ってくれた。源さんもそうだ。深手を負っ
て、船で運んだが・・・」

 大坂城の慶喜は、3日以来敗戦報告を受け6日の戦線崩壊を聞くと、江戸城での再起をはかるた
め、6日夜大坂城を脱出した。
 慶喜は、松平容保・同定敬と老中などわずかな人数で12日朝、江戸城に入った。
 大坂に残された旧幕軍は、やむなくそれぞれの故地に四散した。

 歳三ら新選組は、近藤・沖田を含めて四十四名が、榎本釜次郎とともに12日に天保山沖を出港し
た。
 途中、紀州の加太浦に寄り、旧幕軍らを収容した。このとき、塚原但馬守も乗ろうとしたが、「敗軍
の将、何の面目ありて乗船するか」と新選組や会・桑の兵士に罵られ、ついに船に乗らなかったとい
う話が残っている。
 塚原はのちに箱館まで榎本と行を共にするのだが、最後にはアメリカに亡命した。


二条城二の丸御殿(国宝)



「新選組・落日の譜」へ続く


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