備後歴史雑学 

幕末剣心伝14「天然理心流・近藤勇B」

「新選組崩壊」山南敬助切腹


 朝廷は、元治元年(1864)7月に起きた、蛤御門の変の責任を追及し、長州征討を幕府に命じ
た。
 しかし幕閣の態度はにえきらず、将軍家茂も上洛しないので、京都守護職・松平容保は思い余っ
て、家臣の小森久太郎を江戸に急派し、将軍への親書を託した。
 近藤勇らは容保の内意をうけ、小森久太郎の補佐役として江戸へ下った。そして連日のように重
臣連を訪問し、将軍の上洛を説いた。
 結局第一次長征は、将軍の上洛を待たないまま進められる。

 征長総督の徳川慶勝(尾張藩主)は、11月1日に大坂を発し、16日に広島に着いて陣営を敷い
た。
 しかし長州側は、降伏に踏み切り、国司信濃・福原越後・益田右衛門介ら三家老の腹を切らせて
責任をとった。


 近藤らは、江戸で新選組の兵力補充に、新しく隊士を募集した。この募集に応じたのが、のちに参
謀格となる伊藤甲子太郎とその一派である。
 先発していた藤堂平助が、北辰一刀流で同門の伊藤を口説いたのである。

 伊藤甲子太郎は、父が常陸志筑八千石の旗本の家臣で鈴木性であった。甲子太郎が幼い頃に、
脱藩したという。
 甲子太郎は弟の鈴木三樹三郎とともに祖母の実家である桜井家に引きとられ、塾に通って学問を
修めた。
 長じて、水戸で剣を神道無念流に学び、さらに江戸で北辰一刀流の伊藤精一に就いた。
 伊藤精一道場は深川佐賀町にあり、そのあたりではかなり名の通った道場であった。伊藤精一の
死後、その遺言によって入婿となり伊藤性を名乗ることになる。
 弟子は常時五十人は下らない程の繁盛ぶりで、立場は尊攘論だが、近藤ともその点で同意できる
と判断したのであろう。
 弟たちとも相談した結果、道場をたたみ一党とともに新選組に参加した。一党とは、鈴木三樹三
郎・加納道之助・服部武雄・佐野七五三(しめ)之助・篠原泰之進・内海二郎・中西登の七名であ
る。
 近藤の東下前後に新規に加入した隊士は、伊藤一派以外にもかなりの数にのぼった。


 慶応元年(1865)の初夏、隊の第二次編成が行われた。ピラミッド型の配置を行い、副長助勤を
組長に改め、その下に伍長二名、一班十名を従わせている、

総長=近藤勇。副長=土方歳三。参謀=伊藤甲子太郎。
 組長
一番隊=沖田総司。二番隊=永倉新八。三番隊=斎藤一。四番隊=松原忠司。五番隊=武田観
柳斎。六番隊=井上源三郎。七番隊=谷三十郎。八番隊=藤堂平助。九番隊=鈴木三樹三郎。
十番隊=原田左之助。
 また武道連磨の必要から、新たに剣道・柔道・槍術・砲術・馬術・の師範頭を置き、文学師範も任
命した。
 隊規違反の隊士が切腹するときの介錯を順にやらせて、人を斬る呼吸を会得させた。

 この中に当然入るべき、山南敬助の名が見あたらないのは、第二次編成の直前に切腹して果て
たからだ。
 山南敬助は北辰一刀流の遣い手で、のちに近藤から天然理心流の手直しを受けたという。もとも
とは仙台藩士だったが、故あって浪人し、試衛館道場に出入りするうちに人柄と剣の筋が買われ、
代稽古を務めるようになった。


 第一次編成では、局長は芹沢鴨・新見錦・近藤勇の三人で、副長が山南敬助・土方歳三であっ
た。
 後に、新見錦が詰腹を切らされ、芹沢鴨が殺されたあとは、局長は近藤勇、総長山南敬助、副長
土方歳三となった。
 しかし、屯所の西本願寺移転問題で土方歳三と意見が対立し、次第に土方との間に心理的溝を
深め、脱退を決意したようである。

 伊藤甲子太郎が、新規加入ながら次第に重用されるのも、山南としては面白くなかったのかも知
れない。
 いずれにせよ山南敬助は、元治2年2月21日(4月に慶応と改元)に隊を脱した。
 沖田総司は山南の離脱を知ると、すぐさま馬を駆って東へ逢坂山を越え、大津の宿で山南に追い
ついた。
 沖田は近藤の命令どおり、隊へ戻るように伝え、それ以上は言わなかったらしい。山南はそのた
め、和解の使者と受けとったのかもしれない。
 沖田はそのまま山南と大津に同宿し、翌日屯所へ帰った。
 しかし近藤は隊規に照らして厳正に山南を罰した。切腹である。


 2月23日の午後4時頃、八木為三郎が山南の切腹を教えられ、父の後からついて行った。
「丁度、家の門を私が出た時に、大急ぎで通る女がいて、見るとそれがかねて山南と馴染んでいた
島原の天神で明里という女で、私共でも顔は知っている者です。歯を食いしばって眼を釣り上げてい
ました。私もおやっと思いましたが、言葉もかけずに門の前で見ていると、明里は前川さんの西の
出窓(坊城通りに面す)の格子のところに走り寄って、とんとん叩きながら何か頻りに叫んでいます。
それがただ事ならぬ様子なので私も次第に側へ寄り、明里のうしろ十間位も離れたところで、黙って
立って見ていました」
「明里が出窓の下で声をかけると障子が内から開き、山南の顔が見えた。明里は話もできずに泣い
ていたが、外へ廻った隊士が連れ去ろうとし、障子も閉ってしまった」

 山南は衣服を改め、同志たちと水盃を交わしてみごと腹を切った。32歳。介錯は沖田総司がつと
めた。
 彼は上洛以前から、近藤・土方・沖田・井上らとともに、古くから試衛館道場のメンバーとして、同
じ釜の飯を食って苦楽をともにした仲間である。
 その試衛館一派と、いかなる事情と原因から齟齬をきたし、隊を飛び出すというような挙動に走っ
たのであろうか、その心の中は謎である。


 山南敬助が処刑されてまもなく、屯所は壬生から西六条境内北集会所へ移った。西本願寺の境
内である。
 新選組はここに慶応3年秋まで駐屯し、さらに葛野郡西九条の不動堂村の新屯所へ移った。


「高台寺党の離脱と油小路の惨劇」へ続く


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