備後歴史雑学 

幕末剣心伝13「天然理心流・近藤勇A」

「池田屋事件」
新選組の名を一躍有名にした池田屋の奮戦


 元治元年(1864)6月、市中探索をしていた新選組隊士山崎蒸(すすむ)から、道具商桝屋の主
人が怪しいとの報があった。
 沖田と永倉ら隊士三十名ほどが桝屋を襲撃。その主人桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕らえて、
前川邸土蔵に引き込んだ。

 土方は、口を割らない古高に業を煮やして、逆さづりにし、足の甲に打ち込んだ五寸釘に蝋燭を立
てるという冷酷な拷問を試みた。
 激痛と足を伝う蝋の熱さに、古高はついに口を割った。
 古高の自供で、尊攘志士たちが放火によって宮中を混乱させ、天皇を奪うという計画を知った新選
組は、その夜、三条小橋畔の旅籠池田屋に斬り込んだ。


 元治元年旧暦6月5日、午後十時すぎのことである。
 当日「過激派志士たちに不穏の動きあり」との情報で、動員された隊士は三十余人。主力は土方
歳三が率い二手に別れた。
 しかし、池田屋が志士の集合場所だと察知したのは、わずか七人の局長近藤勇が率いる隊のほ
うだった。

「亭主。今宵、旅籠御改め申す」という近藤勇の一言で始まった。出口は二名で固めさせていた。
 亭主は、腰抜かさんばかりに驚いて、二階へ駆けあがる。近藤すかさずその後を追って階段をの
ぼる。そこには長州浪士が二十人ほど抜き身で構えている。
「御用改めでござる。手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨て申す」
 と大喝した近藤がにじり寄る。

 近藤に続き沖田・永倉・藤堂・勇の養子谷昌武こと近藤周平(17歳)が押し入った。
 浪士の一人が沖田総司を目がけて斬りかかる。沖田これを斬り捨てると同時に乱闘が始まった。
 近藤は奥の間で孤軍奮闘し、永倉新八は表口から台所へかけて防戦。藤堂平助は庭先を守っ
た。

 浪士隙を見て表口へ逃げ出す。谷万太郎、得たりや応と槍で突く。その刹那、永倉新八が肩を斬
る。
 永倉新八が持ち場に戻るや否や、浪士また一人表口へ逃げる。新八これを追って袈裟がけに一
刀で仕止める。
 永倉庭先へ廻ると、雪隠へ逃げ込んだ浪士を見つけ、串刺しにしてくれんとする。浪士の刀が屋
内に閊えているところを胴を斬る。

 藤堂平助、垣根際に隠れていた浪士に突如斬りつけられ、額を割られて鮮血が流れ、奮戦する
も、目に血が入って難渋の態を見てとった新八が助太刀。浪士の腰へ斬り込むも、受け止め、逆に
打ち込んでくる。
 新八苦戦して三度の鍔迫り合いで危ういところだった。近藤、助太刀いたさんとすれど、大勢の浪
士と渡り合っているために、それも叶わず。
 新八はやっとの思いで肩先へ斬り込んで仕止めた。
 そんな折も折、表口に土方歳三率いる隊の新選組同志たちが大勢乗り込んで来た。


 土方は、近藤が発する気合を聞き「やってるな近藤さん」とばかりに、次々屋内に突入させて行っ
た。
 勢いを得た近藤は、深手を負った藤堂平助と奮戦中に喀血した沖田総司の二人を会所の方へ引
き取らせた。

 武田観柳斎は、二階の天井が破れて転落した浪士を斬る。
 島田魁は槍をもって浪士と渡り合うも、槍を斬り落とされたが、間髪入れず懐へ飛び込み、力で相
手を仕止めた。

 池田屋の亭主に縄をかけずにおいたところ、亭主は浪士の縄を解いて逃がした。原田左之助がそ
の逃亡者を追いかけ、槍で仕止めた。
 この時、桑名藩士本間久太夫と藤崎猪野右衛門の二人が浪士に斬られて即死した。桑名藩は池
田屋騒動に出動し、逃げる浪士と交戦した。

 新選組の犠牲者は、奥沢栄助が即死。安藤早太郎と新田革左衛門が重傷を負った。
 藤堂平助は額を斬られ、永倉新八は左手に傷を負った。

 池田屋で討ち取った浪士は、肥後の宮部鼎蔵をはじめとして、吉田稔麻麿・北添佶摩・石川潤次
郎・野老山(ところやま)吾吉郎・伊藤弘長・越智正之・大高又次郎・福岡祐次郎・広岡浪秀・望月亀
弥太・杉山松助。それに河原町御池の松井酒店で斬られた吉岡庄助などがいる。

 虎口を脱出した者に、宮部春蔵・山田信道・北村善吉・渕上郁太郎・中津彦太郎・大沢逸平・それ
に元新選組の松山良造もいる。
 その他、浪士多数と池田屋の主人入江惣兵衛・呉服屋の泉屋重助とその手代や婦女子らも捕縛
連行され、町奉行へ送られた。

 これらのうちで新選組が直接手を下したのは、討取り七人、手傷を負わせた者四人、捕縛二人で
ある。
 そのほか、会津藩で四人捕縛、討取り一人。桑名藩が一人捕縛、都合召捕り二十三人と近藤の
書簡にある。


 永倉は、腹の底にひびくような近藤の掛け声が、終始聞こえたといっている。それは、近藤が多勢
の志士たちと刀を構えて対峙したまま、気合いで相手を抑えつけていたことを意味する。
 激戦であった。近藤が土佐の北添佶摩を斬ったのを皮切りに、肥後の宮部鼎蔵と松田重助、長州
の吉田稔麿と杉山松助、播磨の大高又次郎、そして土佐の石川潤次郎の七人が死んだ。

 戦闘開始後しばらくして守護職や所司代、それに桑名の兵(三千とも七百ともいう)が到着し、池
田屋の周囲を固めた。


 吉田稔麿は、はじめ 軽傷を負っただけだったので逃れ、長州屋敷へ戻って急を告げ、池田屋へ
帰って沖田総司と斬り合って斬られたのである。

 永倉新八は、近藤・沖田・永倉・藤堂・谷万太郎の斬り込みとしているが、近藤の書簡によれば、
その弟の周平ということだ。
 谷万太郎は、種田流槍術の師範で、その腕は確かなものだ。


 この時の模様を近藤勇は、病の床に臥している養父の周斎など六名に宛てて詳細に書き送った。
「おりあしく、局中病人多にて、僅々三十人、二ヶ所の屯所に二手に分れ、一ヶ所土方歳三を頭とし
遣わし、人数多く候処、其方には居合せ申さず、下拙僅々人数引き連れ出て、出口に固めさせ、打
込み候もの、拙者始め沖田・永倉・藤堂・伜周平(今年十七歳)右五人に御座候。
兼て徒党の多勢を相手に、火花を散らして、一刻余の間、戦闘に及候ところ、永倉新八の刀は折
れ、沖田総司の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出さらさらの如く、伜周平は槍を斬折られ、下拙刀
は、虎徹故に哉、無事に御座候。
追々土方歳三駆けつけ、それより召捕申候。
実に是まで、度々戦い候へども、二合と戦い候ことは稀に覚え候。
今度の敵、多勢とは申しながら、いずれも万夫の勇士、まことに危き命を助かり申候。まずは御安
心くださるべく候。」

 近藤勇の手紙から、池田屋襲撃はなかなか激闘だった。
 長州の大物桂小五郎は、早い時間に池田屋を訪れたが、まだ誰も来ていなかったので、他用の
為よそへ行ってから再び来てみると、襲撃されていたので難を逃れた。
 神道無念流・練兵館初代塾頭の桂との対決は実現されなかった。


 新選組の一番隊長沖田総司は、戦いの最中に胸の持病で、ひどい喀血をして倒れた。
 八木老人の「壬生ばなし」によると、
「・・・翌日の昼過ぎに屯所へ引揚げてきた新選組の隊士たちは、稽古着に袴をつけ、股立ちをとっ
て、かなり激しく血潮に染まったままの姿であった。竹胴・皮胴・鎖の着込・小具足と身につけた物
はまちまちだったが、斬り込みをかけたことは歴然としている。

沖田は真っ青な顔をして先頭を歩いていたが、その側に土方がついており、永倉は左手を手拭で包
み、右手には懐紙を巻いた抜身の大刀を下げていた。あまりの乱闘に刀身が曲がって鞘に入らなく
なったのだ。
屯所に入ると、ただちに傷の手当にかかり、曲がった刀は一つ所に集めておき、重傷を負った者は
奥座敷に運び入れてしまった。」

 深傷を負った奥沢栄助はまもなく息をひきとり、安藤早太郎は一月半ほど後に亡くなった。
 新田革左衛門の死亡は、安藤と前後して歿したという。

 事件の後、朝廷から隊士慰労として金百両が下され、幕府は松平容保に宛て感状を下した。
 守護職からは手負いの隊士それぞれに金五十両、外に一同に五百両、局長の近藤には三善長
道(会津の名工)の刀一振り、酒一樽を賜わった。
 この池田屋襲撃事件により、新選組と近藤勇の名は一躍全国各地に知れ渡ったのである。


「新選組崩壊」へ続く


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