備後歴史雑学 

幕末剣心伝12「天然理心流・近藤勇@」

 佐幕派の武力集団として勤皇の志士たちに仇敵と憎まれた新選組局長・近藤勇。尊攘精神
が振るわせた憂国の剣。


 近藤勇は、性を藤原・名を昌宜(まさよし)という。
 天保5年(1834)10月9日、武州多摩郡上石原村で生まれた。幼名を勝五郎といった。
 父は篤農家宮川久次郎で、母は多摩郡廻田新田、山田庄兵衛の長女栄といった。
 その母栄は、勇が6歳になった天保10年正月11日、38歳で他界した。

 宮川勝五郎といった勇は、15歳の嘉永元年(1848)11月11日、長兄音五郎や次兄粂次郎とと
もに、天然理心流三代目近藤周助の門を叩いた。
 宮川勝五郎は、わずか入門八カ月にして目録を得たという。
 勝五郎の剣筋に師匠の周助がその名跡を託そうと思い、嘉永2年勝五郎を養子に貰い請けること
になった。
 この養子縁組は、天然理心流の宗家近藤周助の養子ということではなく、周助の生家島崎家の養
子になって、島崎勝太と称した。

 島崎勝太からいつ近藤勇に改称されたか、その期日については定かではないが、嘉永5年9月4
日から10日の間に訪れた、武州戸塚の直新陰流・萩原連之助道場の「剣客名簿」には、
「天然理心流・近藤勇 八月中御停止中ニ付試合無之候」と認められている。
 また、安政5年(1858)8月の日野八坂神社の奉納額には、沖田惣次郎藤原春政や井上源三郎
一重の名とともに、島崎勇藤原義武と認められている。
 土方歳三の天然理心流の入門は、翌安政6年3月9日である。


 万延元年(1860)3月29日、清水家の臣松井八十五郎の長女つねと結婚し、翌文久元年(186
1)8月27日、天然理心流四代目を継いだ。
 天然理心流は田舎剣法として蔑まれたという。もっとも、江戸の三大道場以外は問題にしていな
い風潮だけに、気にする必要もないのである。

 小石川小日向町の試衛館の道場主である近藤勇の望みは、講武所の教授方になることだった。
 講武所は、安政元年12月に開設された。総裁は久貝因幡守および池田甲斐守、教授方の筆頭
は男谷精一郎である。
 教授方は、お目見以下の軽格の者であっても、武芸にすぐれていれば採用されることになってい
た。そして、採用されれば幕臣ということになる。
 しかし、教授方に採用してもらいたいなら、それなりの手段があるのに、近藤のやり方は武骨で、
願書を提出し、おのれの武芸を試してみてくれ、というだけである。
 現に、男谷などは数千両を使ったという噂もあるのだが、近藤には通じない。剣の道は神聖だ、と
近藤は考えている。

 近藤は、多摩の在所へ行って教えるときは、丁寧であったし上手でもあった。
 天然理心流は木刀を用い、形を教えるのが本来のものだったが、近頃は防具と竹刀を用いるのが
流行である。試衛館もそれを無視することはできなかった。形だけを教えていたのでは、入門する者
がいないのである。
 近藤は木刀による形と、竹刀による稽古を併用した。竹刀の場合には、時によって相手に打ち込
ませて、「そうだ、その呼吸だ」とほめたりした。

 試衛館道場には、飛び抜けた者が一人いる。沖田総司である。
 近藤が正式に四代目を継いでからは、沖田に稽古をつけることはしなくなったが、いまでは、三本
のうち二本は沖田のものだろうと、土方歳三らは思っていたそうである。
 その試衛館道場には、北辰一刀流の山南敬助や神道無念流と心形刀流を学んだ永倉新八など
が屯していた。


 天然理心流の門人の大半は多摩の農民たちである。近藤にしても土方にしても、その出身なの
だ。
 多摩は幕府の直轄領であるため、大目にみられていて、習う者は日頃は農民の姿をしているが、
稽古をうける時だけは、羽織袴を身につけ、大小を帯びることが許された。それが目当てで入門する
者もいたのである。

 ある日、試衛館に幕臣が入門を申し込んで来た。福地源一郎である。
 福地は長崎の医師の息子だったが、語学の才能で、外国奉行に属する通辞方の一人である。五
十俵三人扶持のほか役職手当として十人扶持を受けている。れっきとした幕臣である。
 福地自身は幕臣となっても剣を学ぶ気は、まったく持っていなかったが、万延元年(1860)5月、
イギリス公使館を攘夷派の浪士が襲った。福地はその時、イギリス担当で泊りこんでいた。
 公使館は二百名の兵で守られている。浪士側は、三人が即死し、三人が重傷、一人がその場で
捕縛された。そのとき、浪士を斃した警備の武士が、その首を討ち落とし、
「ご検分を願います」といって、福地の前に差し出した。
 福地は、生首を前にして、卒倒しそうになったそうだ。

 そんなことがあったので、偶然前を通りかかった試衛館に入った。
「前に、どなたかに学ばれたことがございますか」と近藤は訊ねた。
「ありませんよ。じつは、こうして刀を帯びているが、抜いたこともない」と福地はいった。近藤は茫然
とした。・・・もしも福地が、
「天然理心流を学んでおります」などと、よそでいったとすれば・・・。
 近藤は大真面目で「入門は許されませぬ」と断ってしまった。

 福地はそんな糞真面目な近藤を気に入り、
「これから遊びにきてもいいかい」と福地はいった。
「どうぞご遠慮うなく」近藤は喜んでいった。初めて知り合いになれた幕臣だったのである。
 以来、福地は遊びに来るようになった。ときには、永倉・原田・藤堂らを連れて吉原へくり出すこと
もある。

 福地の妻は、吉原江戸町の大きな菓子商で、彼は俸給のほとんどを遊びに使っていた。このころ
から福地は、
「・・・桜痴」という雅号を使いはじめたそうである。
 試衛館の面々は、福地先生と呼んでいた。


 その福地が情報を近藤にもたらした。近藤は、土方・沖田にいった。
「二人とも聞いてくれ。福地先生のお話によると、こんど公方様がご上洛遊ばされるにつき、その警
護にあたる士を、広く人材をつのって新規にお召抱えになるそうだ」聞いた土方は嘘だろうと思った
そうだ。

 福地のもたらした情報は、間もなく事実に近いことが判明した。
 文久3年(1863)正月7日、政事総裁松平春嶽・老中板倉周防守が、松平主税介に新徴の浪士
取締役を命じた。
 松平主税介は、家康の六男忠輝の血を継ぐ人物である。この辞令をうけると、講武所教授方の山
岡鉄太郎・松岡萬を相談役にして、浪士の新徴にとりかかった。
 とりあえず、人数は五十名。一人につき五十両の仕度金を与えることで、二千五百両が板倉から
渡された。

 もともと、この企ての筋書きをこしらえたのは、羽州浪人清河八郎であった。本名は斎藤元司とい
い天保元年の生まれだから、近藤より4歳の年長である。生家は大庄屋で、八郎は長男だった。
 18歳のとき、江戸へ出て学問を学び、剣は千葉の玄武館に学んだ。普通は三年かかる目録をわ
ずか一年で受けた。周作のあとを継いだ千葉栄次郎から免許を得て、神田に道場を開き、
「文章・経学・兵法教授」の看板を掲げた。清河の道場はにぎわった。
 清河の志は・・・尊王攘夷、であった。また、すさまじい策士でもある。


 試衛館一門の者には清河の企みはわかっていない。仕度金五十両がもらえる上に、ひょっとすれ
ば幕臣になれるかも知れぬとあっては、江戸でじっとしていろという方が無理である。
 近藤は養父周助に、京都へ行きたいと願い出た。
 周助は許した。このままの状態では、天然理心流が尻すぼみになる事が判っていたからである。

 文久3年2月4日、浪士たちは小石川の伝通院に集まってきた。
 試衛館からは、近藤・土方・沖田・井上・藤堂・山南・永倉・原田の八名である。ほかに沖田の義兄
の林太郎も加わった。
 ところが一同が行ってみると、驚いたことに三百人以上もの浪士がきている。
 鵜殿鳩翁が挨拶し、「予算は二千五百両しかない。仕度金は頭割りになる。不服の者は遠慮なく
帰ってもらいたい」
 一同、ざわめいた。
「どうする」近藤がささやいた。「行くさ。それしかない」と土方は答えた。
 見ていると、列外に出る者はきわめて少数だった。
(たった十両たらずの金で、下手をすると、命がけの仕事になりかねないのに)と、近藤も土方も心
の中で呟いた。
 結局二百三十四名が残った。

 2月6日にあらためて伝通院に集まり、隊割りを行った。取締りには、山岡鉄太郎・松岡萬が就任
した。いずれも、清河の同志である。
 隊は一番から七番までで、格隊は三十名。そして格隊に三名の伍長が任命された。
 試衛館一同は、井上源三郎を除いて、近藤以下すべて六番隊に属した。六番隊の伍長の筆頭
は、清河の同志である村上俊五郎であった。

 取締り付が任命された、山岡・松岡の手勢ということになる。池田徳太郎・芹沢鴨・斎藤熊三郎ら
二十三名。
 斎藤は清河の実弟で、池田は安芸出身で医師の倅であり、九州で遊学後、江戸へ出て清河と知
り合った。のち広島藩士に登用され、維新の際は軍務官権判事として大村益次郎の補佐役をつと
め、最後は青森県知事。
 芹沢は、水戸天狗党の生き残りであった。神道無念流免許である。
 取締り付は二十三名。七隊の二百十名を加えると、二百三十三名。残る一人が清河である。山岡
や松岡らは「清河先生」と呼んでいた。
 山岡以下、全員が徒歩だったが、清河だけは馬をやとって騎乗し、組織外という立場を利用し、自
由に振舞ったのである。


池田屋騒動へ続く


沖田総司に続いて、土方歳三の生涯を江戸進発後からを記載します。


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