備後歴史雑学 

幕末剣心伝6「神道無念流・斎藤弥九郎B」


 嘉永4年(1851)、弥九郎の父新助は80歳をもってこの世を去る。その臨終に間に合わなかった
弥九郎は、喪に服するため「三年間大精進」と大書した木札を台所に掲げて自ら酒肉断ち、謹慎の
心を厳にいましめた。鬢に霜を交える54歳の時である。
 思えば故国と別れて40年の歳月が流れていた。


 嘉永6年6月3日(西暦7月8日)、夕映えの浦賀湾頭にペリー提督の四隻の黒船が突如あらわ
た。
 幕府は江戸湾防備の必要に迫られ、急遽砲台築造に着手すべく閣議を一決し、8月江川太郎左
衛門に大任を命じ、弥九郎もその介添役を仰せつかり、実地測量や工事監督にあたることとなる。
 幕府はとりあえず品川のお台場だけを、それも一部分だけを造ろうという考え方であった。

 太郎左衛門は「沓の上から痒いところを掻くにすぎぬ」と笑った。「やむを得ぬ」しないより防備をし
た方が江戸市民の心を安めるためにも良いと弥九郎はいった。
 測量は年内に終わり、実際の工事は翌嘉永7年から始める予定とされた。

「手前を弁当持ちにいたしてくれませんか」冗談ともみえぬ真顔をひきしめて、桂小五郎が強引に頼
みこみ「舟も漕ぎます」といった。
 長州毛利藩の馬関海峡において、外国船襲撃ある場合に備え、砲台を築く参考にぜひ見ておき
たい桂小五郎の才覚であったらしい。小五郎は弥九郎の執事役となり、毎日現場から現場を往復し
た。

 埋め立て工事は、昼夜兼行の突貫工事であったが順調に運んだ。
 弥九郎は本郷湯島の桜馬場で、大砲を鋳造する現場の監督にも当っていた。
 しかし、太郎左衛門は病床に臥してしていた。心の臓の病である。


 お台場工事は、南品川猟師町から東北深川洲崎海岸にかけて、二列・十二基の砲台を築造する
予定で、着々運ばれていった。
 弥九郎は仕事のため、鋳造所に泊ることもあるし、品川の台場で夜を明かすこともある。
 太郎左衛門の病状は漸次悪化の一途を辿り、時折夜を越せないと思われることがある。
「すまぬ・・・・・」蚊のなくような声で、哀願するように弥九郎の手を握って、
「後をたのむ・・・・・」とうわ言のように呟く彼が哀れだった。
「死ぬではない。きっとお台場は仕上げてみせる」

 第一期分の工事は予定より二カ月遅れ、11月晦日をもって見事完工した。砲台の除幕までもつ
か、太郎左衛門の命は危ぶまれた。
 弥九郎が式をおえて陣屋の病室に駆けつけた時は、すでに一足違いに息を引きとった太郎左衛
門であった。
「太郎左。お手前はなぜ死んだ・・・・・!」
 一目見せたいお台場の風景だった。はり裂けるような胸のわだかまりが、哀しみとなって肺腑を抉
った。(おれよりも三つも若い歳なのに)

 半生を伴にした莫逆の友への懐かしさが募ってくる。55歳が彼の一期であった。永いようで短い
人生だったと思わずにおれない。
 江川家の嗣子は親の業を継ぐ器でなかった。弥九郎は江川の塾を新銭座に移し、大鳥圭介を説
いて門人の養成につとめさすと共に、紀州藩から金を借り江川家の負債を整理した。


 弥九郎が代々木山谷八幡付近一帯の荒地三千五百坪を買い求め、自然風月を友として自ら鍬を
ふるって開拓しはじめたのは、程なくのことである。
 九段の道場にもめったに顔を出すことなく、板屋根の茅屋を建て「代々木山荘」と名づけて独居し、
篤信斎と号した。

 小石川の水戸藩から洋式の調練所を設けた趣の使いがあって、篤信斎弥九郎は、初代調練隊長
を拝命した。
「剣は護身に過ぎず。戦陣砲をもって相闘わん」と論じ、「兵法また隊を別す。大・中・小なり」と説い
たのもこの頃である。

 文久元年(1861)11月9日、53歳の妻岩子は風邪をこじらせ高熱となり、二晩うとうとと眠りつづ
けて、野中の燈の消えるようにはかなく死んでいった。
 嫁いできた20歳から、岩子は一言の不満も洩らさず仕えてくれた。
 平和を唱え、明日の日本のためと奔走して家を空けても、妻は愚痴ひとつこぼすことなく、果して
満足し得たであろうか。


 滔々と流れる時の潮は、大政を奉還させ世は明治に移った。
 明治2年(1869)8月26日、明治新政府から出仕の令あり、徴士会計官判事試補。9月5日、大
坂会計官中名司検視に任ぜられる。次いで会計官権判事。弥九郎はいった。
「今更の宮仕え、心苦しく存じます」できるならば「伜めを引立て下さい」ともいった。しかし、翌明治4
年盆過ぎの頃、造幣局権判事の辞令を伝達してきたが、「老衰の故」と辞した。

「世の中も変わったろう」
 そう呟いた老人の気まぐれが、急に京・大坂への思慕に駆られ、ふいと旅にでる気を起させた。
 京見物をすまし、大坂へ着いた晩、造幣局に失火があった。

「馬を曳けい!」弥九郎は大声で怒鳴って駆けつけた。見れば腰ものび眼はらんらんと輝き、若者
のような精悍さにあふれている。
 公文書や会計書類の重要なものを、果敢にも猛火の下を潜って運び出したのは程なくのことであ
ったが、老人の勘の鈍さか体に幾つも火傷を負った。
 名前を聞いて賞讃と見舞いの訪問客は引きもきらず宿に押し寄せたが、体に無理がたたったの
か、足腰の調子がおかしくなり、幾日も臥したままであった。
 小康を得て東京へ運ばれたが、九段へはゆかず代々木山荘に引きこもった。

 明治4年10月20日夕刻、剣の下を幾度か潜りながらも、ついに生涯刀を抜くことのなかった剣豪
斎藤弥九郎は永眠した。亨年74歳。
 戊辰の役では、彰義隊から首領に迎えられようとしたが動かなかった。
 明治40年5月27日、特旨をもって従四位を贈られた篤信斎である。


 斎藤弥九郎の長男新太郎は、後に弥九郎を襲名している。諱は龍善。
 嘉永2年萩に訪れた時、吉田松陰兵学門下となり、嘉永5年の時は桂小五郎や七人の藩士を練
兵館道場に連れて帰った。
 文久2年(1862)萩藩江戸桜田屋敷の有備館剣術指南に招かれ、また水戸や越前屋敷でも教え
た。

 翌文久3年、幕府講武所の剣術師範となる。慶応2年(1866)幕府遊撃隊肝煎役、翌年には幕
府歩兵指南役並として西洋練兵の伝習にたずさわった。
 明治後は官に仕えず、帰農して製茶を試みたが失敗。武芸のほか文学・書画を楽しみながら、明
治21年(1888)8月、61歳で生涯を終えた。


 三男の歓之助は「鬼歓」とあだ名されたほどの剣の奇才で、突きの名手である。
 嘉永4年肥前大村藩に百石で召抱えられ、安政元年(1854)5月、大村城下に神道無念流道場
微神堂を開いた。
 若くして中風にかかって半身不随になったが、稽古は師範代にまかせながら道場に出てきびしく
指導を続けた。
 廃藩後は大村を辞して東京に戻った。明治31年(1898)正月、麹町で永眠。66歳であった。


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