備後歴史雑学 

幕末剣心伝7「鏡心明智流・桃井春蔵@」

18歳で初伝目録を与えられ位は桃井・技は千葉・力は斎藤と評された秀抜な剣客の生涯!


 桃井春蔵は、文政8年(1825)、沼津藩五万石水野家の家臣・田中重郎左衛門豊秋の次男とし
て生まれ、田中甚助と称した。諱は直正である。

 幕末動乱期の初期である天保9年(1838)、14歳の時に甚助は江戸に出て、鏡心明智流三代
目の桃井春蔵直雄(なおかつ)の道場に入門した。
 すらりと背の高い眉目秀麗な少年であったそうだ。


 鏡心明智流の流祖、桃井八郎左衛門直由は、大和郡山藩柳沢家に仕え五百石の物頭であった
が、後に致仕し剣術の修業に専念した。
 多くの剣客と同じように諸国を流浪し、剣術は中条流(富田流)・一刀流・柳生流・堀内流の修業に
明け暮れ、それぞれの奥義を極めた。槍は無辺無極流の使い手だった。

 中条流を基本に据えた直由は、新たに一派を立て、江戸日本橋茅場町に道場を構え、その流儀
の名を鏡心明智流とした。
 伝書の種類によっては「大禾源直由入道士流軒伴山」と書かれている。源氏で足利氏の末流とい
われている。晩年彼は法体であった。
 安永3年(1774)に没した。亨年51歳。

 鏡心明智流の基本となった中条流は、南北朝時代の中条兵庫頭長秀を祖とする。この流儀は、そ
の術を平法と書いた。
 その本意は、武の威徳によって災禍を未然に防ぎ、平穏無事を求めることをもって極意とした。
 術の基本としては小太刀を本とし、三十三の型があり、槍術を含むものであった。
 一刀流は、由緒あるその中条流の末流の兵法なのである。
 鏡心明智流では九つの階級を設け、足・身・手・口・眼の五要素を重視した。


 二世の直一の時、八丁堀アサリ河岸に道場士学館を構えた。
 なぜ、田中甚助が鏡心明智流の桃井道場に入門したかは不明であるが、鏡心明智流はまだ無名
に近かったから、束脩(入学金)が安かったからかもしれない。
 初代春蔵は、芝神明の社頭に掲げた額には、貧しき者には無料で教える。と記している。
 道場は間口半間、土間に六畳一間の長屋三軒ぶち抜いただけの粗末なものだったと伝えられて
いる。

 三代目の桃井直雄は、甚助の天稟の剣の才能に驚嘆し、懸命に稽古をつけ、天保13年(184
2)、甚助18歳のときに初伝目録を与え、娘の婿養子に迎えた。同時に左右八郎直正と改名させ
た。
 鏡心明智流には太陽・火鉾・幻の秘伝がある。この名称は無辺無極流からとったものである。
 また、型の名には必勝・逆風・燕飛が伝えられているが、これは新陰流に淵源するそうで、つまり
鏡心明智流は、諸流派の長所を総合した剣術なのである。

 直正は嘉永2年(1849)皆伝を得て、鏡心明智流正統四世桃井春蔵と称するにいたった。25
歳、まさに男盛りだった。
 彼は試合に際して、好んで長袴を用いたと伝えられている。どの程度の長い袴かは知られていな
いが、どうやら彼の発明になる足さばきを隠すために長袴を用いたようである。
 彼が、・・・位の桃井。と称されるようになったのは、常にゆったりとした真っ直ぐな美しい姿勢の構
えのせいだといわれる。
 上段・八双・晴眼・下段・脇構えなどの構えが、人を魅了させずにおられないくらいの見事な構えだ
ったのであろう。


 ところで幕末期は、なぜこれほど剣術が盛んになったのであろうか。
 その理由は簡単である。二尺二・三寸の大刀は、持ち歩きにもっとも便利な武器だからである。槍
とも違い、狭い場所、屋内でも使えるからである。
 入り鉄砲に、出女、という諺の通り、江戸府内において鉄砲は、幕府の最も厳しく拒否、管理統制
する武器であり、事実上江戸では鉄砲は使えなかった。だから刀剣になるのである。

 封建制度確立のために、百姓から武器を取り上げ彼らの帯刀を禁じた。その実現に努めたのは豊
臣秀吉であり、徳川家康も忠実にその政策を受け継いだ。徳川三百年、その政策は全く変わらなか
った。
 だが、その実行はあったかというと、土台無理な政策であった。
 江戸期では、武士以外でも旅行の時には、犬おどしの名目で道中差(脇差)の使用を許されてい
たし、江戸市中でさえも旅行中という名目で脇差の帯刀は黙認されていた。
 清水の次郎長に代表されるヤクザは、帯刀して旅をした。但し一本差。
 数多くの百姓一揆でも、刀を帯びて大名と戦うのはごく普通のことだった。秀吉の厳しい刀狩りに
もかかわらず農民は刀を隠し持っていた。

 また、幕末を代表する剣客である近藤勇や土方歳三が武州多摩の百姓出身であることは周知の
事実である。農村でも剣術の修業は、ほぼ公然と認められていた。
 幕末期には身分制度が崩壊していたのである。人は、読み書き算盤が出来るならば、努力次第で
金持ちにも、武士にもなれた。
 江戸末期、武士の身分は「株」で買うことが出来たのである。武士身分はすでに売買の対象であ
った。


 春蔵のもっとも有名な弟子は、士学館の塾頭をつとめた土佐藩の上級郷士であり、土佐勤皇党の
領袖武市半平太(瑞山)である。
 人斬りとして、京洛を震撼させた土佐の足軽岡田以蔵も春蔵の弟子である。

 半平太と以蔵が入門したのは、安政3年(1856)8月であるが、すでに半平太は千頭伝四郎・麻
田勘助らに一刀流を学び、安政元年に26歳のときに皆伝を得、高知城下新町に道場を構えてい
た。藩中において、人に知られた剣士であった。
 剣客としてすでに一家をなしていた半平太だが、春蔵の剣風を慕って入門したのである。それほど
春蔵の名声は高かった。

 安政2年には、千葉周作が62歳で没し、元治元年(1861)には講武所頭取の直心影流男谷精
一郎が、67歳で没している。
 残るのは、時代を代表する桃井春蔵と斎藤弥九郎の二人の剣客であった。


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