備後歴史雑学 

幕末剣心伝5「神道無念流・斎藤弥九郎A」


 文政3年(1820)秋、岡田十松亡き後の岡田道場の師範になった斎藤弥九郎は、道場を練兵館
と改めた。
 文政8年弥九郎28歳の時、兵学の師平山子龍の養女岩子を娶った。
「これを機に道場を新築されたら」と、江川太郎左衛門がすすめて、飯田町俎橋近くに新居をつけた
道場を構え、改めて師範に推された。二年経て長男の新太郎が生まれた。

 某日、江川太郎左衛門とこれからの戦術について語っていて、砲が七・八割戦陣を占めることにな
ろうと結論し、直ちに太郎左を引張って砲術指南高島秋帆の門をたたき、門弟に加わってしまった。

 文政12年、水戸藩主斉修が死去した。家老の榊原は藩主実弟斉昭の賢明なるを嫌い、将軍家
斉の子を水戸の養子に迎えようと画策するのを、藤田虎之助(東湖)や会沢安がこれを憂い、同志を
練兵館に集めて、日夜斉昭擁立の計画をめぐらした。
 弥九郎は江川と共に、彼らを援けるのに力を貸したのは有名な語り草となっている。

 ところが程なく江川の父が亡くなり、本所割下水に住む彼が父の跡を継ぐべく故郷伊豆の韮山に
去らねばならなくなった。
「私は若年の35歳。失礼だが私の支配人として助けて戴けまいか、あなたの才覚がなければとて
も代官の職責は全うすることがむつかしいのだが」
 難問である。三千に及ぶ門弟を捨てるか、年来に及ぶ江川の義に生きるか・・・。
「引きうけましょう。ただし、五日に一日ということで」
 太郎左は莞爾として頭を垂れた。
 しかしこの計画は一カ月の内七日だけ韮山へ赴くことに改められた。以来二十年、太郎左が世を
去る58歳まで奇妙にも続く。


 翌天保8年(1837)3月19日に口火を切った、大坂表の大塩平八郎挙兵事件に対して、幕府は
斎藤弥九郎に平八郎を討てと命じた。
 泣いて馬謖を斬るべく弥九郎が東海道を上るのは3月20日であった。
 阿波座堀の隠れ家で、25日夜平八郎はその秘報を耳にした。

「弥九郎殿がきたか」短く呟いた平八郎は、硝煙けぶる中、父子相対して「天いまだ我に与せず」と
屠腹した。
 弥九郎が現場へ駆けつけた時は、すでに息絶えた後であった。

 越えて翌年8月。
 飯田町に怪火があって、道場は火の海に包まれた。夜陰のことなので、危く子供たちが焼死する
ところを、若い門弟たちに救い出され難を避けた。弥九郎留守中のことである。
 9月に入って、九段上の三番町に新しい道場を建造し、稽古に励むようになったものの、怪火の原
因は不明であった。

 その翌10年、幕府の命により、監察鳥居甲斐守耀蔵を主任・江川太郎左衛門を副任として、浦賀
海岸を測量し、砲台築造地の検分を命じられた。
 鳥居の計画は粗雑で、予算を組むことばかりを問題にして実際には役に立たない形ばかりのもの
を造ろうとしていた。
 太郎左衛門は弥九郎に相談した。弥九郎は門人の渡辺崋山とその友人の高野長英と打合せ、西
洋測量術に長じた内田孫太郎・奥村喜三郎を登用し、初めからやり直した。
 師走に入って、渡辺は謹慎、高野は永牢を申し渡された。思潮尋常ならずという理由である。意外
にも寝耳に水の災難だった。


 弘化4年(1847)、「他流試合をいたしとうございますが、お許しの程を」
 長男の新太郎はすでに22歳の青年に成長していた。二男は他界し、三男歓之助は18歳だった。
 新太郎はこの後、二代目弥九郎を名乗るが、江川の諱・英龍の一字をもらって龍善と号し、武道
各般に秀で、画は渡辺崋山に師事し、文道の名手と讃えられていた。
「思いのままに」と弥九郎が快諾を与えると、「されば」と2月8日、江戸市中の各道場を歴訪し、他
流試合を挑んだ。

 まず田宮流の久保田道場を皮切りに、26日鏡心明智流の桃井春蔵道場、3月2日に北辰一刀流
の千葉周作道場、同28日横川道場に至るまで十指に余る道場へ案内を乞うた。
 練兵館側は延べ人員110名。相手方の延べ人員280名。合せて369番の試合を行った。試合
は好成績を収めた。
 気をよくして、4月2日江戸を発足。同行する者四名。日本六十州、ことごとく廻ろうというのであ
る。

 東日本各藩を相手に試合を重ね、翌嘉永元年(1848)4月初旬、一たん江戸に立戻って、7月再
び西日本へと武者修行の旅へ出た。


 翌嘉永2年3月10日、長州萩の城下へ泊った。
 旅の疲れをときほぎし、宿の亭主に城下の武術道場明倫館の話を聞くと、三百人以上もの剣士が
武芸にいそしんでいるという。
 門弟の一人を練習しているところへ見学にやり、立戻って報告を聞いた上で、「建物は立派だが、
黄金の鳥籠の中へ雀どもを入れてあるようなものじゃ」一杯機嫌の冗談まじりで新太郎が冷やかし
た。
 亭主は腹を立てて明倫館にこのことを告げたから穏やかでなくなった。

 血気の多い青年剣士たちは、
「このまま生かして萩の城下を通させてはならぬ」
「夜明けにやるのだ」
 駆けつけてくる者もいたし、騒ぎがにわかに大きくふくれた。藩の長老が秘かに洩れ聞き、互いに
負傷者を出してはならぬと、夜陰新太郎たちを九州へ逃した。
 翌朝青年たちはこのことの顛末を知って口惜しがり、憤りを青筋に立て、
「この上は江戸に上って、留守といえど練兵館を襲撃してやろう!」
 衆議は一決した。勇武猛ける十一名の剣士を選び出し、何が何でも破ってやると意気軒昂であ
る。

 十一名の撃剣道具を釣り台にのせ、三百里の旅を苦ともせず九段上の練兵館の門を叩いたのは
一カ月の後であった。
 弥九郎は韮山へ出向いて不在であった。


 道場には、前髪を剃り落としたばかりの若い男がひとり留守番していた。腹いせにこの若僧でも叩
きのめしてやろうと上がりこみ、試合を申し込んだ。
「ならば退屈しのぎに一汗かいてみるかな」両手を挙げて人前かまわず不作法にも大きなあくびをし
て立ち上った。
「猪口才な!」十一名の者は直ちに稽古着をつけた。
 たかが小童と思ったこの青年は強かった。

 突きが得意で、二間も飛ばされ気を失った者もいれば、喉もとが痛んで声の出なくなった者。
 羽目板に押しつけられて、程なくして「参った!」と悲鳴に似た声を発した者・・・瞬時をまたず見る
も無残に敗北を喫した面々であった。
 聞けば分るものを。弥九郎の三男歓之助、人呼んで「鬼歓」と。
 突きにおいて天下無敵と評され、「突きだけは手心を加えよ」と父から禁じられていたことを、惜しく
も長州侍たちは知らなかったのである。

 十日ほど傷の手当をし、帰藩した十一名の者は復命した。
「血気にはやる者よのう」と長老たちの苦笑を買い、
「天下広しじゃ。未熟な技を磨きなさい。強者は味方となすべきに敵へ廻すとは眼先まっくらな御仁
たちじゃ。直ちに九州の巡歴先を照会の上、藩庁へ招聘さっしゃい」ときめつけられた。

 明倫館壮士の面目はどこへやら、それでも直ちに九州各道場に使者を走らせ、帰途、新太郎一行
を萩に迎え無礼の段々を謝し、二カ月の滞在を乞い改めて指南をうけることに及ぶ。
 二年後、更に長州藩からの招きを受け、同道して教えを受ける一人に桂小五郎がいた。


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