備後歴史雑学 

幕末剣心伝4「神道無念流・斎藤弥九郎@」

生涯刀を抜くことなく稀代の剣豪と囃された維新三剣豪の一人


 生まれつき眼玉の大きい弥九郎は、越中国氷見郡仏生寺村の百姓新助の伜として、寛政10年
(1798)正月13日に生まれた。
 仏生寺村は布勢の湖に面する猫のひたいほどの一寒村で、耕地面積も狭いため、多くの男は出
稼ぎ人として土地を離れていった。
 弥九郎は七人兄弟、多分に洩れず弥九郎自らが故郷を出た。奉公に出たのは13歳の時だとい
う。

 高岡の城下、木舟町の薬種問屋で撃剣ごっこに夢中となって、どの丁稚や番頭の頭にも瘤を作っ
て居心地悪いと逃げ出し、
「日本一の剣術つかいにきっとなる」と、銀一枚を褌にまきつけ、夜陰にまぎれ秋風吹きすさぶ往来
を、江戸を目指して飛騨路を急いで行ったのは文化9年(1812)のことである。
 藤原朝臣の出、加賀斎藤の一族たる無一文に近いこの子孫弥九郎は、剣客を夢見て故郷を飛び
出した。
 江戸とは眼と鼻の距離である板橋の宿場へ辿りついたものの、気が遠くなって倒れてしまった。


 板橋は大宿場町である。焼芋屋の親父の介抱でようやく気をとり戻したものの、栄養失調に罹って
いた。
 四・五日たつとだいぶ回復し、水汲みや薪割りの手伝いをする。焼芋屋は薪墨が本業で、話をして
みると越中生まれだという。
 その因縁で、宿はずれの寺子屋塾を営む土屋杢十郎に紹介され、杢十郎はまた無念流の先輩、
江戸の能勢伊予守頼通の仲間奉公を斡旋してくれたのである。伊予守は火事場見廻り役の大身で
あった。
 弥九郎の身許引請人には杢十郎がなった。彼は天にも登る喜びが抑えきれなかった。これで侍に
なれる。

 その頃の奉公ぶりを記すものに、
「・・・日夜主命を守り、刻苦勉励、昼は雑役の傍ら主家の用人その他に素読を習い、夜は人の寝静
まって後、燈芯をかき立て勉学びいそしむ。睡魔催すときは顔を拳で支え、机上に伏して仮眠なす。
冬夜霜白くして寒に堪えざるときは、竹刀を執り裏の厩舎に赴き、柱を相手に撃ち返しを行うこと?々
なりき・・・・・」とある。

 程なく主人伊予守の眼に「尋常な者でない」と止まり、「文武両道の全きを修めよ」の言葉をもら
い、文を昌平黌の古賀精里、赤井厳三に師事し、武は神道無念流の岡田十松について学ぶことと
成る。十松は江戸にその名を轟かす名だたる剣豪である。


 神道無念流は、野州都賀郡藤葉村の川上喜太夫が諸国遍歴の修学をなし、信州飯綱権現へ参
詣し、山籠五十日をもって夢想のままに剣の妙理を活眼し、この流派を開くに至ったものである。
 以来喜太夫は名を福井兵衛門善平と改め、四谷に道場を構えて子弟の教育に専念したのは享保
年間(1716〜35)のことである。

 岡田十松は吉利といい撃剣館と号したが、武州埼玉郡砂山村の農家の生まれで、18歳で目録、
22歳で免許皆伝となった俊才である。
 弥九郎が入門した岡田道場は、その頃神田猿楽町にあって、門弟三千名を数え、鏡心明智流の
桃井春蔵と並んで江戸の双璧と謳われた名道場であった。
 魚、水を得た如く弥九郎のめざましい精進ぶりが毎日続く。生涯刀を抜くことなく稀代の剣豪と囃さ
れた弥九郎の面目はここに幕をきって落とすのである。

 弥九郎は魅せられたように熱心に学んだ。精進は人間を磨きやがて衆に抜きんでる。
 伊予守は彼の魂を認めた。その心遣いは更に馬術を品川吾作、兵法を当代随一の誉れある平山
子龍について師事すべく取り計らわれる。


 岡田十松は文政3年(1820)8月15日、遺言もなく亡くなったのである。
 十松の嗣子三名は、いずれも体が弱かったそうである。俄然、後継者の問題がクローズアップして
きた。

 嗣子か、それとも初代戸ケ崎熊太郎の息かと談論風発。蜂の巣をつついた騒ぎは、当時二代熊太
郎胤芳すでに二番町道場で子弟の教育に当っている故の辞退があって、嗣子に傾いたかにみえ、
急転して実力者の充当に変った。
 自薦・他薦。鼎の沸く騒ぎである。それに門閥や藩閥がのしかかる。

 水戸藩、藤田虎之助(東湖)・武田耕雲斎は「武をもって、世に名誉を高める道場において、武に
剛き者を選ぶがよかろう。よって斎藤君を推す」と、かつて話題に登ったことのない弥九郎の名を上
げ頑として退かない。
 他の道場においてすら弥九郎を破る者はいない・・・実力を、彼我共に認めている武道界におい
て、むろん異論はなかった。

 衆議は意外な結果を生んだ。
 弥九郎は余りの成り行きに面くらって、「未熟故、まだその任ではありませぬ」と固辞するが、聞か
ばこそ、虎之助や耕雲斎は推して推しておしまくってくる。加えて弥九郎の莫逆の友、後に半生を共
に歩む伊豆韮山代官になる、江川太郎左衛門まで膝詰めの強談判で迫った。

 弥九郎は、「道場監督ならば」と答えざるを得なかった。一件は落着した。
 暫くして弥九郎は道場を「練兵館」と改めた。一騎討ちの時代は去ったのである。集団戦の時代は
もう手の届きそうなところまで来ていると思った。兵を練る道場にしたいのである。
 文政3年、弥九郎23歳の秋だった。


 この頃、江戸で武勇の誉れ高かったのは鏡心明智流の桃井春蔵と神道無念流の岡田十松の二
人であったが、十松去った今となってみると、桃井・斉藤が「江戸の龍虎」と並び称されるようになっ
ている。・・・後世。
 神田お玉ケ池の千葉周作を加えて、維新の三剣豪と囃したてたのは、水戸藩剣道指南役という関
係をもって、勤皇派の剣客を加えた庶民感情にすぎず、まして、剣より話術に長じた理論家の評価
高く、むしろ周作の弟定吉をもって、北辰一刀流の道場を支えていたというのが実情であったらし
い。

 時に、世相いよいよ物情騒然として、四囲に来航する外患・黒船の煙に、泰平三百年の夢は破ら
れようとしていた。
 諸国に欝勃として生まれた勤皇思想を奉持する者、次の政権担当を握るべく実力を養うべく、振幅
運動をくりかえしたのも一つの特徴だった。

 わけて、薩摩・長州・土佐・水戸・越前・北九州諸藩は、有為な青年武士を江戸に送りこんで、明日
への固めを培うに余念なく、ここ練兵館の門を叩く青年藩士が増えてきた。
 かくて、門下から維新の大人物と目される人々が輩出したのも当然である。

 当時門弟三千名を数えた中から、高杉晋作・品川弥二郎・山尾庸三・桂小五郎等、梁山泊を思わ
せる多士済々の人物が星のように並んだ。
 桂小五郎は後年塾頭にまでのしあがった皆伝の士でもある。

 練兵館近くに、武州多摩の産近藤勇が道場を開いていた。門人も余りなく、暇にまかせて斎藤弥
九郎の道場へ教えを受けにきていた。
 弥九郎は常に友人の礼をもって近藤を遇し、近藤もまた酒肴を捧げて盃を交したと伝えられるが、
事実は道場破りの他流試合に応じるため、練兵館道場門人を借りるのが目的であったらしい。

「門人があれほど腕が立つのであるから、さぞ近藤は強いに違いない」と、まことしやかな修行者の
間の噂でもあった。
 近藤に借りられた練兵館の門人たちが帰ってくる時は、きまってほろ酔いだったそうだ。
 門弟の間には、次は誰がゆくと順番が決められてあったらしい。

「なあに、試合が終わって、沢庵漬で一口やるだけですわい」近藤の口から洩れ聞いた弥九郎は思
わず笑ってしまった。「それも兵法なり」


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