備後歴史雑学 

幕末剣心伝3「北辰一刀流・千葉周作」


 千葉周作成政・幼名於蒐松(おとまつ)の祖父千葉吉之丞は、家伝の北辰流をもって陸奥国相馬
中村藩の剣術師南役をつとめていたが、同藩の上山角之進なる者と君前に試合って敗れたため、
一念発起して、相馬家が累代尊崇する北辰妙見宮に参籠した。
 彼は、心魂を凝らして修業した結果、ついに夢想のうちに「北辰夢想流」の一流を開悟発明した。
 しかし吉之丞はやがて中村藩を退いて、陸奥国栗原郡花山村荒谷の里に移り住んだ。
 なぜ彼が終の棲家にこの地を選んだかは、その出自に由来する。

 千葉家の遠祖は、下総の名族千葉介常胤なのである。
 鎌倉幕府草創の有力御家人だった常胤の一族は、文治5年(1189)における源頼朝の奥州平泉
討伐に従軍しており、戦後、花山村に根をおろした千葉太郎胤政を城主とする百目木(どうめき)館
を中心に帰農したのである。


 この剣客吉之丞に「北辰夢想流」の印可を受けるとともに、娘婿となったのが同族で元秋田藩士
の千葉幸右衛門である。
 二人の間に生まれたのが長男又右衛門、次男於蒐松こと周作、三男定吉の兄弟である。
 兄弟三人は、当然のことのように幼い頃から、祖父吉之丞と父幸右衛門によって厳しく北辰夢想
流を仕込まれた。
 しかし、草深い山間の村では剣術の入門を乞う者もいないため、農だけでは暮らしが立たぬ。吉
之丞は医術の心得があるのを幸いに、人間ばかりか牛馬の病まで診て便利がられた。
 娘婿の幸右衛門も、このとき舅から習い覚えた医術が後年、わが身の助けになろうとは夢にも思
わなかった。


 文化6年(1809)、ついに住み慣れた故郷を捨てた千葉幸右衛門は、まず江戸に近い下総松戸
に居を構え、名も浦山寿貞と改めて医業を営んだ。
 出郷する際は、家伝の北辰夢想流をもって身を立てようと意気込んでいた彼も、自分ほどの腕前
の剣客など、江戸では掃いて捨てるほどに存在すると知り、剣を捨てたのである。時に、周作16
歳。

 幸右衛門の篤実なる人柄と、親切な医療は松戸宿の人々に好感をもって迎えられ、一応一家の
暮らしは安定した。
 ついで翌年には長男又右衛門が、武州岡部藩二万石阿部氏の剣術指南役塚越家の養子に迎え
られたと思うと、今度は次男の周作が、若州小浜藩十二万三千石酒井家の剣術指南役浅利又七
郎義信の推薦によって、八百石のと旗本喜多村石見守正秀の小姓になった。
 松戸には浅利又七郎の小野派一刀流の出張道場があり、また彼は旗本喜多村家にも出稽古して
いたので、手筋が良いと見た周作を、喜多村家に紹介したのである。

 この浅利又七郎は少年時代に、中西派一刀流中西忠兵衛子正(子啓とも)の内弟子となり、数年
とたたずに免許皆伝の腕前になったというから、一種の天才を有していたそうである。
 中西忠兵衛子正は中西家の四代目で、初代は中西忠太子定で小野派一刀流宗家の小野次郎右
衛門忠一の門人であり、一刀流の正統である。
 幸右衛門こと寿貞の医業も評判がよく、千葉一家にも安息の気配が感ぜられるようになった。


 旗本喜多村家の小姓となった周作は、小浜藩江戸中屋敷内にある浅利道場に通い、寸暇を惜し
んで激しい稽古に明け暮れた。
 そして文化13年、周作は弱冠23歳にして免許皆伝となった。故郷の花山村を捨てて6年目にし
て、浦山寿貞の夢が実現したわけである。
 寿貞の感慨とは別に、師匠の浅利又七郎義信は周作をおのれの後継者に望んだ。夫婦の間に
子供のない彼は、心中に姪の小森せつを娶らせ、夫婦養子に迎えようと考え、その旨を寿貞と周作
父子に懇望した。

 中西派(小野派)一刀流の浅利又七郎義信の道場といえば、小なりといえども天下に聞こえた名
門道場だ。寿貞と周作が又七郎の申し入れをうけると、表情を明るくした又七郎は、
「わが師家である中西道場へ参って、なお一層の研鑽を積んでくるがよい」
 と勧めてから、
「そなたも存じていようが、あの道場には、寺田五右衛門・高柳又四郎・白井亨という三人の名手が
いる。彼らのうちの誰でもよい、一本なりとも打ち込めたら、日本中どこへいっても一流の剣客として
通る筈だ」


 その名門中西道場に通い出して周作を戸惑わせたのは、中西道場の特異な教授法である。
「師家中西氏(忠兵衛子正)の教え方とは相違にて、寺田派・白井派・中西派と三派に分れ、一つ道
場に於て、組太刀は寺田派を賞して寺田氏に学び、或は白井に随身して白井に学び、又は師に学
びて、終始稽古一致せず。夫れ故毎々議論ありて、さてさて六ケ敷ことなり。余は寺田派を学び、今
以て門人に教授致すことなり。

 寺田氏は自分の構えたる木刀の先より火炎燃え出ずると云ひ、白井氏は我が木刀の先より輪が
出ずると云ひ、何れも劣らぬ名人なり。然し実は火炎も、輪も出ずるに非ず、ただ切先のするどさを
云ふて、我が木刀の先へは寄せ付けぬとの意なり」
 これは後年、周作が記した道場の模様だが、寺田や白井に師事する門人は多いが、難剣の高柳
又四郎には、滅多に教えを乞う者があらわれないのである。

 高柳の稽古は苛烈を極めた。つねづね、
「わしが剣術をやるのは、人に教えるためではない。自分自身のために稽古をするのだ」
 と称し、ひとたび道場に立てば、相手が高弟と呼ばれる者たちはもとより、たとえ初心者といえども
容赦なく、得意の強烈な突きを入れて突き倒して傲然としている。
 しかも、何びとと立合っても、これまで一度として竹刀に音を立てさせないため、「音無しの構え」と
いって恐れられた。


 三年の歳月が流れ去り、ついに周作は中西忠兵衛子正から免許皆伝を許された。
 いずれの道場にあっても、免許書授与とともに、その卒業の成果発表の会ともいうべき送別の式
試合をするのだが、その相手になんと高柳又四郎が名乗りを上げたのである。

 文政2年(1819)秋、ついにその日は訪れた。
 幾組かの式試合が終了し、これまで師範席にいた高柳又四郎が道場に立ち、検証役の寺田五右
衛門が又四郎と周作の間に進み出ると、一気に道場内の空気が緊迫した。

 対峙した両者は、竹刀を星眼に構えたなり動かぬ。案の定又四郎は音無しの構えで、飽くまで周
作の仕掛けを誘い「後の先」をとる作戦と見られた。

 両者とも凝固したように動きをみせず、長い時間の対峙ののち周作は、竹刀の先を鶺鴒の尾のご
とく小刻みにふるわせながら、なおも又四郎の出様を伺ったまま長い時の流れがあって、ついに引
き分けかと見られた時、瞬時にして形勢はさっと変転した。
「お面っ!」「おう」

 両者の気合が場内の空気をふるわせた瞬間、息をのみ、静まり返った道場に、竹刀の音が憂然と
成り響いた。

 周作の大きく踏み込んだ竹刀と、後の先をとろうと突いて出た又四郎の竹刀が宙に激突したので
ある。
「おお・・・・!」「鳴った!」嘆声が上がった。
 この時の周作の踏み込みが、いかに強烈であったかは、彼の踏みおろした片足が、一寸二分もあ
る道場の厚い床板をばりっと音を立てて踏み破っていたのである。

 これまで幾多の剣客を見てきた中西忠兵衛でさえ、
「この道場床を踏み破るとは、尋常でない」
 と歎賞し、その敗れた床板を切りとって額に納め、道場に掲げて後進の教材としたくらいだ。

 この試合を検証役の寺田五右衛門は、「相討ち」としたが、竹刀に音を立てた高柳又四郎は、これ
まで無敗を誇った「音無しの構え」が敗れたのを恥じたか、この日以来中西道場から姿を消し、その
行方を断ったそうだ。


 高柳又四郎の難剣と立会い、相討ちの引き分けとなったこの試合は、江戸の話題を賑わすと同時
に、若い千葉周作の名が一躍江戸剣客界に知れ渡った。
 しかし、浅利又七郎の養子となった周作だが、ただ一途に一刀流の古法を墨守する養父と意見の
衝突をきたした結果、一刀流の伝書を返上し、浅利家を飛び出してみずから「北辰一刀流」を創始し
たのである。

 周作は千葉家伝来の「北辰夢想流」と「一刀流」を合した流名をもって、おのれの独立の門出を祝
したが、彼のこうした行動は、忘恩の徒の所業として江戸剣客界の眉をひそめるところとなった。
 この北風から逃れるようにして江戸を離れた周作の武者修行の旅は、文政7年まで続くのである。

 ともあれ、彼の明解な剣理・剣技・指導法は、人々に新鮮画期的な刀法と歓迎された。
 最初、日本橋品川町に、ついで神田お玉ケ池に開いた周作の北辰一刀流「玄武館」は、斎藤弥九
郎の神道無念流「練兵館」、桃井春蔵の鏡心明智流「士学館」と並んで、「江戸三大道場」の筆頭と
謳われるまでに発展、やがて門弟三千人を称すに至っている。

 安政2年(1855)12月、心ゆたかな晩年を過ごして病死。


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