備後歴史雑学 

「播磨三木城主・別所長治」

羽柴秀吉の大軍に包囲され籠城二年の末に自決の悲壮な辞世


 別所氏は赤松氏の庶流である。その祖については諸説混沌としていて鮮明ではない。
 大筋では、赤松季則の子頼清(母は源為義の娘という)が播磨国加西郡別所村に住し別所氏を称
した。
 頼清は二万貫余を領したが、のちに三木郡を領するにおよんで三木城を築いてそこを本拠とした。

 以後、何代か続き敦則の時、足利氏の執事・細川氏清の乱に参戦して戦功を立て、播磨の佐用・
平福・利神采邑三千貫を加増された。
 敦則には嗣子がなく、赤松則村(円心)の孫・敦範を養子に迎え(敦範始祖説)、佐用郡豊福を本
拠地としたが、則治の頃(応仁・文明の乱)三木城主となり、その孫の就治、子の安治の二代にわ
たって家勢をのばし、東播磨八郡二十四万石の領主となったと伝えられている。
 この他にも異説が多々あって、どれが正しいのか判りかねるようです。


 安治から子の長治にいたる別所家に、戦国時代を燃え立たせた織田信長旋風が真向から襲いか
かって来た。
 侵略・覇道を突き進む織田の大軍を眼の前にして、播磨の武将たちは敵となるか味方になるかの
二者択一をせまられた。
 安治は味方になる道を選んだ。

 永禄12年(1569)正月、三好勢が将軍足利義昭を京都に襲った。
 急を知った信長は兵を率いて上京し、諸候に檄をを飛ばして兵力を結集した。
 別所安治は、弟重棟に兵三百を与えて上洛させ、信長軍を応援した。重棟は京都白川の合戦に
武功を立て、信長より名馬一頭と感状を与えられた。

 重棟はこれより信長を尊敬するようになり、兄吉親と一層激しく対立した。吉親と重棟はかねてか
ら別所家内での勢力争いに終始していたが、重棟が信長寄りになると吉親は反撥して信長に抵抗
する姿勢をとり出した。
 元亀元年(1570)安治が39歳で病死し、子の長治は12歳で家督を継いだ。
 叔父吉親は少年の当主長治を援けて執権となり家政を独占したので、重棟との間はますます険
悪になっていった。


 丹波の波多野氏と三木の別所氏とは婚姻関係にあった。丹波国多紀郡八上城の波多野秀治の
妹が三木城主別所長治の室となり、丹波氷上城の波多野宗長の娘は、長治の弟治定の室となっ
た。

 波多野宗長の父宗高は、70歳を越える老齢に鞭打って、越前一乗谷の朝倉義景の館に行き、信
長と交戦するという義景の軽挙を戒めたが、義景はこれを聞かずついに、織田・徳川連合軍と戦っ
て敗れた。
 宗高もまた敗走する義景を援けて戦死し、その首級だけが氷上城へもどった。
 宗高と義景は知友の間柄であったようだが、波多野一族と織田信長との間は、宗高の行動に見る
ように、すでに相容れない仲となっていた。



 毛利氏と波多野氏が縁家であり、波多野氏と別所氏がまた縁家であることにおいて、別所氏は当
然信長を敵とする立場にあった。
 だが別所重棟は、織田軍に合流すべきだと主張したが、孤立化したとわかると手勢を率いて織田
軍に投じたのである。

 天正7年(1579)6月2日、波多野秀治兄弟が安土城で信長に謀殺された。
 翌天正8年正月7日には、籠城二年の末、ついに別所長治は三木城を開城し、一族の自決をもっ
て城兵将士の命乞いをしたのである。

 攻囲軍の司令官羽柴秀吉は、長治の請いを入れ、城中へ酒肴を運びこませた。
 長治の辞世、
 今はただ恨みもあらじ諸人の 命に代るわが身とおもえば
 は、武将の覚悟のほどを歌ったものである。別の歌に、
 ながはるとよばれしこともいつはりよ 二十五年の春を見すてて

 東播磨の豪族別所氏「断絶の歌」として、青年長治の無念の想いがこの別の歌の方に深くこめら
れていて、歴史の持つ悼みが胸をうつようである。


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