備後歴史雑学 

「本願寺」影の内閣:下間三家老


 戦国の一大勢力・本願寺一派を影で支え続けた下間一族。
 なかでも「三家老」と呼ばれた有力者がいた。


 元亀元年(1570)9月12日の夜半、大坂石山本願寺の鐘が鳴り響いた。やがて大坂近辺の寺
院や道場の鐘に伝わった。
 それは、さらに早鉦となって摂津・河内・和泉そして紀州の雑賀荘まで伝播していった。
 早鐘は本願寺の危急を知らせ、武装した兵員の上坂を求めるものである。

 織田信長が足利義昭を擁して、石山本願寺に近い野田砦・福島砦に籠もる阿波の三好三人衆を
攻めるべく出兵してきた時から、この事態は想定されていた。
 信長は三好衆を攻めるといいながら、天王寺から渡辺・川口・難波・木津にいたる布陣は、明らか
に本願寺を包囲するものである。

 信長はすでに本願寺に矢銭五千貫を課しただけでなく、石山からの退去を要求し、応じなければ
「破却すべし」[顕如文書]という脅しをかけていた。
 開祖・新鸞から十一代の本願寺宗主となる顕如光佐は、信長方の布陣を目のあたりにして俄然と
「早鉦を打て」という断を下した。
 ここに石山本願寺と信長との足かけ11年にも及ぶ「石山合戦」が開始されたのである。


 石山本願寺は、京都山科にあった本願寺が細川晴元や六角定頼と法華宗徒によって焼き払われ
て以来、一向宗(浄土真宗)の本山となっていた。
 石山本願寺の寺域は戦火から身を守るために、堀を掘り、塀を築いて、あたかも一大城郭の観を
呈していた。
 そればかりか六町とも八町ともいわれる寺内町を形成して、堺に比肩するばかりの商工都市にな
っていた。

 さらに八代蓮如以来、全国に広まった一向寺院や門徒によってもたらされる志納金や物資によっ
て、本願寺は戦国大名以上の富を所有していたという。
 その頂点に立つのが、新鸞・蓮如の血脈となる宗主の顕如である。

 顕如は、各地の寺院と講で結ばれる門徒たちにとっては、信仰の頂点に立つ「生き仏」であり、そ
の意向や命令は在地支配者のそれよりも、はるかに絶対的であった。
 そして宗主という「聖」的存在の顕如および本願寺と、寺院坊主や門徒、さらには世俗とを媒介す
る者として、本願寺の寺僕としての「下間氏」が存在していたのである。


 本願寺宗主に仕える下間氏の存在は古く、新鸞に随給した下間蓮がはじまりである。以降、下間
氏は本願寺宗主の世俗部分を担う役割をもって存続し、やがて本願寺の進路を左右するほどの大
きな存在になっていった。

 石山合戦開始時、顕如を支える下間氏は頼総・頼廉・頼龍である。のちに頼総に代わって仲之が
登場して下間三家老とも呼ばれるが、彼らはいずれも本願寺の坊官として、天下の動向を見すえた
戦略と、石山攻防の指揮を執った。
 このほか下間一族は、本願寺の坊官として加賀・越前・越中・近江などの一向宗勢力の拠点で武
略を受け持っていた。

 下間氏は本願寺が門跡寺院に列すると、その世俗部分を担う坊官の地位を固めたばかりか、宗
主の求めに応じて各地の寺院や門徒を支配するという隠然とした力を示すようになる。
 下間三家老は、本願寺内においては宗主顕如を補佐し、家臣となる殿原・中居・綱所(ごうしょ)を
統率し、石山寺内町の町民に対する裁判権を有していたようである。
 こうした下間三家老体制は、石山合戦以降ますます強固になったようである。


 本願寺宗主を中心とする信仰で結ばれた関係は、他の大名にはない独特な態勢をもっていた。大
名たちが領国支配に制約されているのに対し、その支配を超えた機動性を発揮した。
 それは本願寺にいながらにして、各地の情報が集まり、それを総合的に分析することで逆に各地
に指令を下すことができた。
 また、すでに存在していた本願寺の防衛隊というべき「番衆」を各地から動員できたばかりか、武
器・兵糧なども領国の枠を超えて集めることができたのである。

 信長に対する挙兵にさいして、近江の浅井長政・越前の朝倉義景と呼応したばかりか、信長の勢
力圏にある寺院や門徒に挙兵を指示したのは、本願寺ならではの特異な戦略であった。
 それによって近江をはじめ伊勢長島で強力な一向宗勢力が出現して、信長を苦しめることになる。
 さらに甲斐の武田信玄や、信長に反抗した足利義昭や毛利氏とも結び「反信長包囲網」を形成し
えたのも、本願寺の特異なネットワークがあったからである。


 こうした総合的な戦略を展開したのは、形のうえでは宗主顕如であるが実際は下間三家老の判断
であったと思われる。
 それは顕如が各地に発給した指令文書には、必ず三家老のいずれかの添え状があり、そこには
具体的な指令が示されていたのである。

 対信長戦は初戦以降、摂津や河内の寺内町などで断続的な戦いがくり返されるだけであったが、
やがて武田信玄が没し、浅井長政・朝倉義景が信長に滅ぼされると、本願寺をとりまく状況は変化
していった。
 信長は眼前の敵をまず討つべく、長島を攻めて二万人余の門徒を虐殺、さらに越前では三万とも
四万ともいわれる門徒を皆殺しにした。
 そのうえで信長は石山本願寺を攻め、包囲作戦をとった。

 天正4年(1576)、本願寺は信長勢によって包囲されたが、51カ所の出城や砦でこれに対抗し
た。


「顕如上人大坂籠城之節」と題して、その配置を記した文書がある。
 それによると川口砦は常楽寺、楼ノ岸は順興寺と僧侶が大将となり、付城の大将には下間仲之・
下間頼廉がなり、大手門の大将にも下間大進・下間宮内卿といった下間氏が指揮を執っている。
 下間仲之・頼廉は坊官のトップであるが、彼らは戦略だけではなく、「四万人余籠城」とされる籠城
者の先頭指揮に携わっていた。
 下間氏は、宗主とその法灯の護持に身命を捧げていたのである。


 石山本願寺の籠城は、安芸門徒の協力による毛利水軍の兵糧搬入で、はじめは意気盛んであっ
たが、二度目の搬入で毛利水軍が織田水軍に敗れると、状況はしだいに悪化していった。
 しかし、それでも阿波・紀州門徒、とくに雑賀衆の鉄砲隊などの精鋭によって、四年におよぶ籠城
を保つことができた。
 だが信長勢力の伸長の前に、ついに本願寺は朝廷の仲介による和睦の道を選んだ。

 このとき信長は、本願寺の石山退去を含む七カ条の条件を提示した。
 顕如は講和を切望する妻の如春尼の勧めもあってか、早期に和睦を望んだのだが、下間頼廉・仲
之・頼龍の三家老は誓紙の提出に難色をみせたようである。

 本願寺の存続は認められているが、「表裏比興」、つまり約束をすぐ裏切る信長のやり方を石山合
戦の経緯のなかで体験していたために、信長を信じることはできなかったのである。
 これは籠城する番衆や寺内町の町人もそう認識し、とくに戦闘主体となる雑賀衆が強く反対した。
雑賀衆などは調停役の勅使一行に乱暴してまでも、この和睦に反対の意志をみせた。
 それに対して顕如は、下間三家老の血判誓紙を得るために「子々孫々まで別儀あるべからざる」
[下間宝物帖]という証文を入れることで、ようやく三人の血誓をうけている。
 それほど下間三家老の意向は重要視されていたのである。


 信長は朝廷経由で提出された三家老の誓紙と顕如の誓紙を喜び、顕如に黄金三十枚、如春尼に
二十枚、頼廉・仲之・頼龍に各十五枚を贈っている[信長公記]。
 しかし、本願寺の上層部だけによる和議は、雑賀衆を中心とする籠城兵や寺内民の激しい反発を
まねいた。

 和平の成立を認めず、信長に徹底抗戦すべきだという気運が強く、ついに顕如は退城条件の三カ
月前に石山を退出し、紀州の鷺森へと移った。
 その間、抗戦派に押されたのが顕如の子の教如光寿であった。

 下間三家老のうち頼廉と仲之は顕如に従って恭順をみせたが、頼龍は教如について、各地の門
徒に動員を指令し抗戦派の指揮を執った。
 ここにおいて本願寺は二分裂し、これがやがて東・西本願寺の分立の伏線となるのである。

 教如と頼龍は、信長からさらに石山寺内町の生活を保証するという誓紙を引きだして、ようやく退
城にふみきった。
 その直後、本願寺内から出火してすべての伽藍が焼失したのだが、これは本願寺を占拠した信
長方の失火であったことは、あまり知られていないようである。


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