備後歴史雑学 

幕末剣心伝1「江戸町道場」

激動の幕末期五百を越す剣術諸流派の町道場が江戸の巷にあった


 武術はもともと戦場で、敵を倒すためのものである。
 特に戦国時代に鉄砲が伝わると、戦術が一変して個人的腕力戦から集団戦闘となり、一見、白兵
戦のため武芸は衰えるかと見えたが、そうではなかった。

 謀略戦、スパイ戦がおこなわれた為、将軍・大名といえどもいつ敵に襲われるか知れず、護身用
の武芸はどうしても必要であった。
 戦国末期には将軍足利義輝も、義昭も、徳川家康・秀忠も真剣に武芸に励んでいる。


 江戸時代の初期は、戦国の余風から武芸は盛んで諸流派が競い立った。したがって力を試す他
流試合も多かったが、野外の立ち会いが主で屋内の道場を使うことは稀であった。
 一刀流の祖伊藤一刀斎が愛弟子の神子上典膳と小野善鬼に試合をさせ、勝者にあとを継がせよ
うとし、決闘の場を下総小金ケ原に選んだのがそれである。
 神道流の諸岡一羽の弟子の岩間小熊と根岸兎角の決闘の場は、江戸城前の常盤橋に選んでい
る。
 この二試合よりもっと有名な野外試合は、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘である。

 ところが江戸中期になり、平和が定着すると武士は戦士から行政官へ変身した。
 武芸も実践からはほど遠い、型どおりの武士のたしなみや、心得として身につけるものとされた。
 試合も地形や日光のため不公平となる野外ではなく、屋内道場の床の上で同じ条件で戦うべきも
のとされた。
 徳川将軍家や大名、または大身の旗本は家中に道場を建て、武芸師範を自家に招いて教授を受
けるようになった。
 各藩では家臣中、特に武芸にすぐれた者が師範役となり、城下の自邸に道場を造って伝授した。

 しかし武芸者は身分が低く禄はいたってすくなかった。将軍家の師範役の小野次郎右衛門忠明
(神子上典膳)などは、わずか禄高二百石にすぎない。
 封建の世はいつも家格が物をいう。武芸師範は文官系の課長補佐ぐらいの待遇しか受けられな
かったのである。


 武家の窮屈な規範を脱し、おのれの腕だけを頼りに、市井に稽古場を開いて教えるのが「町道場」
である。あるじは、戦乱の中に主家が滅んだか、幕府の大名取り潰し政策によって牢人させられた
者が多かった。
 中には有名な剣客でありながら、わざと野に下っておのれを練る奇特な人もいたようだが、何しろ
実力の世界なので、評判を聞いて大身の武士が入門したり、やがて諸藩や幕府に認められて扶持
をもらい、さらには幕臣・藩士に取り立てられる者もいた。

 馬庭念流の十六世貫斎は、江戸小石川の道場主だったが、実力を認められて七日市藩主前田大
和守に召し抱えられたのがよい例である。
 剣脈の中の貴種が町道場を開いたよい例に、中西派一刀流の中西忠太子啓(たねひろ)がいる。

 前出小野忠明の孫だが、将軍家指南役の家筋を捨て、江戸市内に町道場を開いて門弟を育て
た。本来なら将軍家の剣法として「御止め流」だが、特に許可を得て教えたので、上下の者が押す
な押すなと入門して、たちまち門弟三千人にものぼった。
 評判とは恐ろしいもので、中には大身の旗本や諸藩の家老クラスもいて、門前には供侍や中間
が、槍を立てて稽古のすむのを待っていたという。

 その稽古だが、戦国から江戸初期にかけては木立に向かって闇雲に突撃、もっぱら腕と体力を練
った。
 やや進歩した練習法が組太刀(後の型)を繰り返した。基本的な刀の使い方を反復練習するので
ある。

 そして試合ともなれば、防具なしで木刀で叩き合った。打たれれば怪我をするか、間が悪いと死ん
でしまうという野蛮なものであった。
 武芸者が試合で敗れ、廃疾者として不幸な一生をおわる者が数知れなかったそうである。

 それが江戸中期になると、平和剣法に変質し、組太刀の練習に力点がおかれ、進退作法をやか
ましく言われた。
 裂帛の気合をかけ、飛鳥のように飛んで相手の急所を撃つ。いかにも美しくスマートに見えるが、
ただそれだけのことで、相手の体の寸前で刀を止めなければならない。
 さらばといって素面・素籠手では負傷するので、ここにはじめて竹刀と防具が開発された。竹刀は
早く江戸初期に、柳生新陰流で使っていた。
 竹刀といえども撲られたらやはり痛い。かくして生まれたのが防具である。これによって剣技のあり
方が一変した。
 開発者は真心影流の長沼四郎左衛門国郷で、正徳年間(1711〜15)に面・籠手を作り出して着
用した。

「しかしなあ、あれは侍らしくもない卑怯な道具だ」という者もいた。
 非難する者も多かったが、宝暦年間(1751〜63)一刀流の中西子武(たねたけ)が、この防具と
柳生新陰流の袋竹刀を採用すると、この(痛くない剣術)にわっとばかり門人が集まって来て一度に
普及した。

 かくて稽古の方式ができ、道場も板敷に武者窓、床の間には武術の発祥に因む香取・鹿島神宮
の軸をかける道場形式ができた。
 あまり標札のない時代だが、武術の道場にだけはそれがあった。
「一刀流剣術指南所」「馬庭念流剣術指南所」などで、それ以外にはよけいな文字は書かなかった。
標札は当流の誇示と門人集めのため掲げられた。

 また、師弟の緊密な関係もこの時期に完成したと言ってよい。たとえ将軍であろうと、入門すれ
ば、わずか二百石の指南役に師の礼をとった。

 武芸の稽古がきびしいだけに、師はその分を精神面で門弟に報いなければならない。それには切
紙・目録・印可状など、段階的に門流の奥義を授け、同時に門流内の階級を表し、大いに褒賞的な
意味があった。
 門弟が一定の技と理論を覚えると、当流の奥義を授かる。これを授けられるのは一流の達人と認
められたのである。
 一般的には一通りを教えて許状をさずけ、一段すすんで免許状、皆伝に至って印可状をわたさら
れるのが普通となった。


 「幕末の江戸道場の実態」

 江戸の三大道場といわれたのが、千葉周作の北辰一刀流の玄武館、斎藤弥九郎の神道無念流
の練兵館、桃井春蔵の鏡新明智流の士学館である。
 当時、「位は桃井、業は千葉、力は斎藤」といわれていた。

 それぞれ大変な盛況ぶりだったが、なかでも神田お玉ケ池の玄武館は八間四面の道場と破風造り
の玄関を構えた豪荘なもので、門弟三千人をかぞえ、名実ともに日本一の大道場であった。
 なぜそれほど北辰一刀流に人気があったかといえば、千葉周作の剣理が明快・合理的でわかり
やすく、昇段制度もまた簡潔であったからである。
 例えば、ほかの流派では八段階もあった昇段過程を、北辰一刀流では「初目録」「中目録」「大目
録皆伝」の三段階とし、昇段のたびに納める謝礼金の負担を減らした。
 この昇段制度の改革が、玄武館が繁盛した原因のひとつだともいわれる。

 遠隔地からの修行者や、諸藩からの委託生も多かった。敷地内には常時五十人ほどが寝泊まり
できる寄宿舎があり、自炊しながら修業できるようになっていたという。
 月謝は金二分で、年間六両である。寄宿舎は無料だが、ほかに生活費がかかる。諸藩からの委
託生は藩費で出してもらえるが、そうでない者には負担が大きかった。

 門下生からは、海保帆平・井上八郎などの剣客や、清河八郎・有村次左衛門らの勤王の志士を輩
出した。
 周作の弟定吉の桶町の千葉道場では、坂本龍馬が修業に励んでいる。


 九段下俎板橋にあった神道無念流の練兵館には、長州藩の委託生として桂小五郎・高杉晋作・
品川弥二郎が学んだ。桂はのち塾頭まで務めている。

 京橋浅蜊河岸の士学館の塾頭は土佐藩の武市半平太である。

 いわゆる「江戸の三大道場」には諸藩の傑物が集まっていたが、士学館の武市半平太の立ち会
いのもとに、練兵館の桂小五郎と玄武館の坂本龍馬が試合をしたという話があるが、これは虚説だ
そうだが、あっても不思議ではない光景である。
 実際、互いに相手の存在を知っていたそうである。なぜなら、同じく剣を志した者だからである。

 このように三大道場は、諸藩の青年たちの剣術の修業場であると同時に、諸藩士と交流し、世事
を談じて見識を広めるという側面もあり、いわば今日の「大学」のようなものであった。
 やがて、清河八郎・坂本龍馬・桂小五郎・高杉晋作・武市半平太など多くが勤王討幕への魁となる
のだから、三大道場は明治維新の生みの親ともいえるであろう。


 一方、多摩や秩父地方の農民の間でも剣術が盛んに行われた。
 剣術好きな名主や大百姓の屋敷内には、稽古場と寝泊まりする小部屋のついた道場があり、旅
の武芸者を泊めては稽古をつけてもらった。

 秩父では逸見(へんみ)多四郎義利の甲源一刀流、多摩では近藤勇や土方歳三でお馴染みの天
然理心流が流行した。
 幕末には百姓も町人も、自衛上とにかく武芸を身につける必要にせまられた。
 牢人が時こそ至れと道場を造り、庶民にも一夜漬けのヤットーを指南したのである。
 したがって、道場主の中には至って素姓の怪しいのがおり、剣士かごろつきか区別のつかぬ奴が
いた。

 こんな手合が他流の道場を訪ね、「お手合わせを願いたい」といって、道場破りならまだしも、喚き
散らして飲代を稼いでゆく輩の方が多かった。

 逆に、案外おとなしく、小倉の高まち袴に稽古着をつけ、腰に修業帳をぶら下げてやって来る者も
いる。門弟がその応対に出ると、
「拙者は何々藩士、師匠は何の某でござる。剣術修業のため罷り出ました。何分ともご教授願いた
い」と、腰の修業帳をとって差し出す。

 すると道場側では、その修業帳へ道場主の名を書きこんで返してくれた。そこであちこちの道場を
歩き、署名を取るだけで稽古の印として鼻を高くした。大体そんな調子である。
 道場主の中には博徒の用心棒や、たかり専門の質の悪いのまでいた。
 それら有象無象を入れると、幕末の江戸には何流と号するもの実に五百流に達したといわれてい
る。


 こんな面白い話も伝わっている。
 他の弱い道場に強そうな道場破りが来ると、江戸の三大道場へ肩がわりを頼みに来た。練兵館は
「力の斎藤」といわれただけに、よくその悪魔払いの使いが飛びこんだそうだ。
 すると塾頭の桂小五郎が、「じゃ、ひと稼ぎして来るか」と気軽に出かけていったという。
 わけなくひと捻りすると、道場主からお礼金をくれた。なかなかよいアルバイトになったという。
 これが町道場の実態であったのである。



幕末に江戸市中にあった主な道場20か所


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