備後歴史雑学 

毛利元就31「雲石経略C」

「富田月山城の攻防」第二回総攻撃



永禄8年4月17日、毛利軍第一回進攻図


月山富田城攻防戦:中央が御子守口、左が菅谷口、右が塩谷口


 永禄8年4月の第一回総攻撃のとき、尼子籠城軍の士気はなお旺盛で、味方の犠牲が多くなるこ
とを憂えた元就は、再び洗合の本陣に帰営して持久戦法を続けた。
 ところが、この洗合の陣中元就は一時危篤状態に陥るほどの大病にかかる。
 毛利家が京都から招請した名医曲直瀬道三の治療が効を奏して、大病を克服した元就は、再び
富田へ出陣して月山城攻撃の指揮をとるが、往年の気力は失せ、その体力は頓に衰えが見られ
た。


 富田月山城に対する毛利軍の第二回総攻撃は、この元就の大病とは関係なく、両川(吉川元春・
小早川隆景)及び毛利家重臣たちの手で、永禄8年9月20日から行われた。
 総勢三万五千、孤立した月山城はこの毛利の大軍によって完全に包囲された。
 この年の4月以来富田月山城は毛利軍によって包囲されたままであったので、城外からの補給は
断たれ、あまつさえ毛利軍は富田城下の田畑で稲薙・麦薙を断行したから、城内へ食料が少しも入
らなくなった。

 かくして第二回総攻撃が始まった晩秋、例年の田園風景とは異なり、今は黒々とした焼け田が不
気味に打ち続いているばかりであった。

 前回の総攻撃で富田城の防備の堅固さを知る毛利軍は、無謀な攻撃は仕掛けない。
 城前の飯梨川を挟んで両軍は無聊のなかで対峙したが、小競り合いを繰り返すばかりであった。
 結局は開城に至るまで両軍主力の激突は起こらないままに終わるのだが、その間に、尼子軍の
山中鹿介幸盛と毛利軍の品川大膳の間に一騎打ちの火花を散らせたことは、退屈な両軍の将兵に
とって、一服の清涼剤とも称すべき出来事であった。


 ある夕刻。品川大膳は飯梨川の対岸に立派な装束の武将を望見した。
 赤糸縅の鎧に、冑には三日月の前立てに鹿の角の脇立て。まぎれもない鹿介である。すかさず大
膳が大声で呼ばわる。
「そこの御仁、山中鹿介殿と見うけたまわる。我こそは、益田越中守藤兼の臣?木(たらのき)狼介勝
盛と申す者。願わくば、これなる中島にて、人を交えず一騎合わせに、いざ勝負、勝負!」
 すると鹿介も、すぐさまこれに応じて太刀を携えて川の中州へ出向いた。

 大膳は初め鹿介を弓矢でねらったが、尼子側の武士が、
「一騎打ちの合戦に飛道具とは卑怯である」と、遠矢でその弦を射切ったので、大膳は弓を捨て、太
刀を振りかざして鹿介めがけて斬りかかった。
 鹿介も則光の名刀を抜いてこれに応じ、互いに切り結んだが、打物業では鹿介に一日の長があ
る。
 大膳は受け太刀となったので、今度は刀を捨てて大手を広げ、鹿介に組み打ちを挑んだ。
 大膳は大力無双といわれる大男で、たちまち鹿介を組み伏せた。
 ところが、下になった鹿介は素早く鎧通しを抜いて、覆いかぶさった大膳の太っ腹を下から抉っ
た。

 大膳は名を?木狼介勝盛と称していたが、鹿の角を落とす?木と鹿を食い殺す狼の縁起をかついだ
のである。
 鹿介は大膳を討ち取ったあと、敵味方を見回して、
「出雲の鹿が石見の狼を討ち取った」と大音声に勝名乗りを上げた。
[雲陽軍実記]の描写。ということであるが、
(鹿介はどうやら秋上庵之介の助太刀で大膳を討ちとったらしく、鹿介もむこうずねを切り割られる深
手を負ったと[太閤記]にある。)


 鹿と狼の合戦では尼子方の鹿介が勝ったけれども、戦局の大勢は毛利方に絶対有利であった。
 富田城中では、将士たちが飢餓に苛まれ逃亡者が続出した。
 初め元就は、尼子軍将兵の富田城からの逃亡・投降を許さず、見つけ次第容赦なく斬り殺してい
たが、そのうち城内の将兵が仲間割れを始めると、今度は積極的に投降や逃亡を勧めるようになっ
た。
 これは最初は城内の食料を出来るだけ多くの人数で食いつぶさせようという魂胆であり、城中の
食料が底をついたとわかると、
「降参した者は命を保証し、領地も与える」
 という内容の高札を城門近くに立てさせ、今度は投降を勧めて、城内の戦闘員を出来るだけ減少
させようとする元就の策謀である。
 そのため、城内から毛利軍への投降者が続出し、城内の将兵は互いに疑心暗鬼を抱き、尼子家
累代の重臣や城主側の側近の中からも主家を見捨てて投降する者があった。


 永禄9年9月、富田城下で毛利軍による三度目の稲薙が行われ、もはや城内へ一粒の米も入ら
ぬことが決定的となった。
 富田月山城の落城は旦夕の間に迫ったのである。


 「月山落城

 永禄9年11月、尼子義久は残り少ない家臣たちを集めて富田城大広間で最後の評定を開いた。
 毛利軍に降伏するかどうか、その去就を衆議にはかって決定しようとしたのである。
 このとき大方の意見は籠城継続説で、元就がこの年5月より瘧病(おこりやまい)にかかり、発熱し
て食事も喉を通らぬ有様だというから、やがて病死して局面が好転する。というのが、その理由であ
った。

 しかし、城主義久とその弟倫久らは、
「もはや長年の籠城で戦死者・逃亡者が多く、一粒の米の蓄えもない。元就の病状のことはともか
く、この上苦戦したところで、万に一つの勝ち目はない。ここはひとまず降参して時節を待ち、旧臣を
駆り集めて再起をはかるのが上策」
 と開城論を唱え、結局衆議はこの尼子兄弟の意見に従った。

 かくして、永禄9年11月21日、元就は元春・隆景・輝元と四人が連署した誓書を月山城中へ送
り、続いて26日には毛利家の宿老福原貞俊・口羽通良・桂元重の三将も誓書を尼子氏へ送って誠
意を示したので、尼子兄弟はついに譜代の重臣と妻女たちを伴い、月山城から落去したのであっ
た。
 この日、永禄9年11月28日、安芸の国人領主元就が生涯かけた出雲経略の夢は、ようやくにし
て現実のものとなったのである。


 尼子軍将兵から瘧病による病死が噂された元就は、それから5年あとの元亀2年(1571)6月14
日に亡くなった。亨年75歳であった。
 法名、洞春寺殿日頼洞春大居士。


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