備後歴史雑学 

毛利元就32「大友・毛利氏の攻防@」

 「大内義長討伐後」

 厳島合戦で大勝した毛利元就は、、豊後の大友義鎮(よししげ宗麟)が弟の大内義長を救援する
ことを恐れ、弘治2年(1556)春、家臣の小寺元武を府内(大分市)に遣わして事前に交渉させてい
る。
 内容は、主権を守るためのもので、毛利側の北九州への不干渉と引き換えに、防長支配を大友に
諒解させる相互不可侵の密約であったというが、あくまで一時的親交ににすぎなかった。
 義鎮は既に弟義長の滅亡を予期して、その後も救援の手を差しのべなかった。
 翌年3月、毛利氏は且山城に拠る大内義長主従を攻めたので、義長は逃れられず4月3日、長府
の長福院(現功山寺)に入って自害した。
 時に26歳(他説では27歳)であった。


 防長両国を手中にした毛利氏は、既に石見国にも兵を進めており、その領域は芸・備・防・長五カ
国に及んだが、他方では出雲の強敵尼子氏と、九州最強の大友氏との両勢力と接し、両面作戦を
展開するようになる。
 とくに大内氏の遺領を継承しようとする毛利氏の豊・筑(北九州)進出は、元就の策動によって不
穏な情勢となった。

 まず筑前の有力国人古処山城主秋月文種と、五ヶ山城主筑紫惟門が元就に呼応して挙兵し、周
辺の小豪族に大友からの離反を働きかけて独立を図った。
 これを知った大友義鎮は、弘治3年7月、戸次(べつき)鑑連・臼杵鑑速・高橋鑑種・志賀親度らの
武将に命じて、二万余の軍勢をもって秋月・筑紫の討伐に差し向けた。


 秋月氏は、鎌倉以来筑前の夜須郡秋月に住み原田・高橋と並ぶ大蔵氏三豪族の一人である。
 大友討伐軍は、7月7日の早暁から戦闘を開始し、山麓の杉本城を落として山伝いに古処山城(8
62メートル)へと迫り、秋月勢に猛攻を加えた。
 そのため、さしもの要害も防ぎきれず長子晴種はじめ数百人が討たれ、文種は同月12日、自害し
て落城した。
 文種に遺児、13歳の秋月種実は家臣に守られて城を脱出し、毛利氏を頼って周防山口へと逃れ
た。

 また筑紫惟門も大友軍迫るや五ヶ山城に火を放ち、海路毛利氏のもとに落ち延びた。[秋月家譜]
[陰徳太平記]
 毛利氏は秋月・筑紫らを庇護したが、特に毛利隆元は種実と兄弟の約を結んで太刀一腰を贈って
いる。

 その後惟門は密かに筑前に潜入、再興を策し永禄元年(1558)6月には、宗像(むなかた)大宮
司宗像氏貞も同国許斐(このみ)城に拠って大友に叛いた。
 また、豊前の長野弘勝(三岳城主)らも毛利氏に服属した。

 翌2年正月、秋月種実は元就から精兵三千と軍資金の援助を受けて帰国し、直ちに大友の兵が
守る古処山城を攻めてこれを奪回し、旧領を回復したのである。
 豊・筑各地の国人領主たちの間に、次第に反大友の旗色がなびき出してきた。

 そんな中、この年6月大友義鎮は、将軍足利義輝から豊前・筑前・筑後の三国守護に補任され、
つづいて九州探題職となったのである。


戦国末期の北九州における有力国人領主たち


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