備後歴史雑学 

毛利元就30「雲石経略B」

「富田月山城の攻防」第一回総攻撃

 白鹿城を落としたあと、元就は尼子氏の富田城を孤立化する戦略をとった。
 富田城周辺の諸国人領主を次々と調略し、西出雲と富田城との連絡を完全に遮断した。
 また元就は尼子氏がその食料と武器を海上から補給していることを知ると、毛利の直属水軍を派
遣して海上封鎖を行った。

 児玉就方と飯田元著に兵船数百艘を与えて美保関から弓ノ浜一帯の沿岸を警固させ、さらに陸上
では福原貞俊に飛落元吉の指揮する鉄砲隊二百を与えて、海岸線に厳戒態勢をとらせた。
 また東の伯耆から富田城への補給路については、八橋の大江城(鳥取県東伯町八橋)と江府の
江美城(江府町江尾)が基地にになっていることを知ると、既に毛利氏の手中にあった尾高泉山城
主杉原盛重に命じてこれを攻略させた。


 毛利軍の富田月山城に対する最初の総攻撃は、永禄8年(1565)4月に開始された。この間、元
就は持久戦法をとり、尼子氏に対する包囲網を徐々に縮めた。
 最初の総攻撃が始まる二か月前の2月16日、元就は吉田郡山城中において13歳の幸鶴丸に元
服式を挙行した。幸鶴丸、元服して少輔太郎輝元。輝の字は、将軍足利義輝の一字を貰ったもので
ある。

 元就には余裕があった。この間、元就は陣中で蹴鞠をしたり、和歌や連歌の会を催して好機の到
来を待っていた。
 吉川元春などは、待陣中に[太平記]四十巻を筆写している。
「打つべき手はすべて打った。あとは富田城の兵糧が尽きるのを待てばよい」
 元就の思惑通り、春には富田城は完全に孤立無援の状態に陥り、城兵も飢餓戦線にあえぎはじ
めていた。


 月山富田城は、前面を流れる飯梨川(富田川)が外郭防御線をなし、内域の周囲は険阻な断崖が
守る複郭式の山城。しかも城内へ通じる道はわずか三条。
 正面の御子守口、北方の塩谷口、南方の菅谷口。いずれも狭隘で強行突破は不可能に近い。天
険の要害なのである。

「時機至る。総攻撃じゃ!」元就が重い腰をようやくあげたのは永禄8年の4月。
 星上山に本陣を置き、降兵を含めて三万五千に膨れあがった大軍勢を三分、御子守口、塩谷口、
菅谷口の三方面に配した。

御子守口=元就を総大将に、嫡孫・輝元(13歳で初陣である)を先鋒として、福原貞俊・粟屋元真・
国司元助・志道元保・天野隆重・児玉就忠ら一万五千。
塩谷口=吉川元春とその嫡子・元長(18歳)を大将に、熊谷信直・熊谷高直・阿曽沼元景らがつづ
く。
菅谷口=小早川隆景を大将に、米原綱寛・三沢為清・三刀屋久扶(ひさすけ)・杉原盛重・南条宗
勝・山田重直・真田孫兵衛らが従う。


 対する尼子軍は、一万二千四百余。迎撃地点は当然三か所だ。
御子守口=尼子義久を総大将に、三刀屋蔵人ら四千四百余。
塩谷口=尼子倫久を大将に、亀井安綱ら五千。山中鹿介幸盛・立原久綱らも混じる。
菅谷口=尼子秀久を大将に、宇山久信ら三千余。


「かかれ!」富田城総攻撃の火蓋は切って落とされた。
 三方面からの同時攻撃である。
 満を持していた毛利軍は、ここを先途と猛烈な攻撃を開始した。銃声が轟きわたり、大喊声が天地
を揺るがす。
 毛利軍対尼子軍の兵力比は約三対一。毛利軍優位だが、富田城は難攻不落の堅城。城内へ通
じる三つの口はいずれも隘路であり、大挙しての突入は不可能である。
 毛利軍は死者を乗り越え、遮二無二突き進むが、敵陣突破はならない。

 尼子の将兵も決死の覚悟で迎え撃ち、一歩も引かない。とくに塩谷口の抵抗は頑強であった。
 勇猛でなる山中鹿介・立原久綱が鬼神のごとく奮闘、寄せ手を次々と攻め崩していく。
 高野監物が鹿介に討ち取られるなど、一時、毛利軍が危機に陥るほどの善戦ぶりを見せた。


 御子守口・菅谷口でも尼子軍は奮戦。雲霞のごとく押し寄せる大軍を撃退、毛利の将兵を一歩た
りとも城内へ踏み入れさせなかった。
 執拗に攻め立てる毛利軍。必死の防戦に努める尼子軍。
 連日の激闘に死傷者が続出、戦線は膠着状態に陥った。
「これ以上の力攻めは無益。犠牲者が増えるばかりだ。急ぐ必要はない・・・」

 元就は、尼子軍の予想以上の徹底抗戦に一気の攻略は無理と判断して一時撤退を決意。
 4月28日、洗合城へ兵を引いた。
 しかし、包囲持久策は崩さない。
 そのころなお、伯耆の江美城、大江城が富田城へ兵糧や武器の補給に力をかしていた。


 江美城は、そこから山伝いに間道を抜けて富田城へ武器・兵糧を運び込む補給路の基点であ
る。
 城主は蜂塚右衛門尉で、守護山名氏の支配下にあった古くからの国人領主である。蜂塚氏は一
時毛利氏に服属したが、本城常光を誅殺したことから再び尼子陣営へ走った。

 江美城の攻撃に当たった杉原盛重は、尼子軍の海上補給路を遮断する戦いであった弓ケ浜合戦
で勇名を轟かせた猛将である。
 彼は吉川元春の麾下にったが、江美城の攻撃を命じられると、永禄8年8月5日に日野川をさか
のぼり、その夜のうちに江美城へ押し寄せて城を焼いた。城主蜂塚右衛門尉は城中で自刃し、妻の
お市の方は敗走の途中敵兵の手にかかって果てた。
 これによって富田城の兵站戦を完全に断ち切った。

 さらに、富田城を囲む京(経)羅木山・石原山・滝山(勝山)に向城を築き、いよいよ最後の詰めの
第二回総攻撃の準備が整ったのである。


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