備後歴史雑学 

毛利元就26「防長進撃@」

 厳島合戦のあと、元就は10月11日まで厳島にいて、12日に本陣を小方(大竹市)へ移し
た。防長経略を行うためである。


 元就が厳島合戦で勝利をおさめたといっても、大内傀儡政権の当主義長は健在であり、その大内
軍の配備を見ると、義長は内藤隆世と共に三千の軍勢をもって山口に在陣していた。
 また、石見三本松城の吉見正頼に備えて配下の者を長門渡川に滞陣させ、防府の右田ケ嶽城に
は右田重政が内藤勢の応援を得て立て籠っていた。
 さらに、都濃郡の富田若山城には陶晴賢の嫡子長房が、同じく都濃郡の須々万(すずま)沼城に
山崎興盛、玖珂郡の蓮華山城と鞍掛城には椙杜(すぎもり)房康・隆康父子と杉隆泰とが、それぞ
れ立て籠っていた。


 元就の防長経略は、玖珂郡の鞍掛城攻撃から始まった。
 先ず10月18日、元就は使僧を蓮華山城へ遣わして、城主椙杜父子に帰属を勧誘した。椙杜父
子は人質を元就のところへ送ってこの勧告を容れたので、早くも大内防備網の一角が崩れた。
 これを知ると隣の鞍掛城を守っていた杉隆泰も、人質を送って元就に帰属を申し出てきた。
 元就はこの申し出を受け入れたのだが、間もなく蓮華山城の椙杜氏から、杉隆泰の降伏は偽りで
あるという証拠が提出されてきた。
 そこで元就は機先を制して椙杜勢の先導で鞍掛城を攻撃した。

 攻撃は10月27日未明から始まったが、城兵は不意を突かれて防戦することが出来ず、杉隆泰
も、
「大内家の恩を忘れて敵に寝返る椙杜の者どもは許し難い、鞍掛城は最後の一兵となるまで戦い
抜くのだ」と自ら槍を取って戦っていたが、間もなく討ち取られてしまった。亨年31歳。そのほか死者
八百余人を出して城は陥落した。


 鞍掛城を落として玖珂郡の征服を完了すると、元就は今度は西隣りの都濃郡に兵を進めた。
 当時、都濃郡における最も有力な大内方の城砦は、山崎興盛の拠る須々万の沼城と、陶晴賢の
長子長房の拠る富田の若山城とであった。

 沼城の攻略は、隆元や隆景の軍勢によってしばしば行われたが、要害堅固な城で三面を沼沢に
囲繞されているため、容易にこれを陥落させることはできなかった。
 そこで元就は、毛利軍の全力を挙げてこの城を攻撃するとともに、二つの新戦術を採用した。

 一つは新武器である鉄砲を攻撃のため使用したこと。もう一つは沼沢を渡るために兵士たちに編
竹と薦を一枚ずつ用意させたことである。
 元就は包囲網をととのえて敵の退路を断ち、翌弘治2年2月19日を期して鉄砲を撃ちかけながら
沼城へ総攻撃をかけた。
 だが、城兵はよく防戦して3月に入ってもなお意気盛んであった。そこで元就は3月2日に再び総
攻撃命令を出し、寄手に編竹と薦を大量に沼地へ投げ入れさせ、その上で城中めがけて突撃させ
た。

 これにはさすがの城兵たちも唖然となり、たちまち士気を阻喪して降伏を申し出た。
 城主山崎興盛は城の麓の本條という所で自刃した。


当時の周防経略関連図(太い線が毛利軍の進攻経路)


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