備後歴史雑学 

毛利元就27「防長進撃A」

 須々万の沼城を落とした元就は、余勢をかって周防富田の若山城(新南陽市福川)を落とそうとし
て軍を進めたが、ここでは城主の陶長房が杉重輔のために襲撃され、長穂の龍文寺へ逃れたとこ
ろで、自刃に追いやられていた。
 杉重輔はかつて自分の父が陶晴賢によって殺された怨恨があったので、復習のため家人を集め
てこの挙に出たのである。


 富田若山城の攻撃と時を同じくして、元就は書状を防府の松崎天満宮の供僧圓楽坊に与えて降
伏を促した。
 また防府の西北にある右田ケ嶽城の城主右田重政にも書状を送って、これを降した。
 残るところは、大内家の重臣内藤隆世と大内義長の拠る山口の高嶺城だけとなった。
 弘治3年(1557)3月12日、元就は若山城を出て山口攻略の軍勢を進め、自らは主力軍を統率
して防府に入って大専坊に本陣を置いた。


 3月15日、内藤隆世と大内義長が山口の高嶺城を脱出して、長門国豊浦郡小野の且山城に立て
籠ったという情報が毛利軍本陣にもたらされた。
 元就は情報を入手すると直ちに福原貞俊に将兵五千を与えて、その攻略を命じた。
 大内義長主従が山口を脱出して長門へ移ったのは、関門海峡を渡って豊前国へ逃げるためであ
る。
 そこで元就は、大友義鎮の援軍が豊前からやって来るのを阻止するために、沖家水軍を海上警固
に向かわせ、かつ千余騎の軍勢を陸路下関へ派遣した。


 且山(勝山)城は長府の西約4キロ余りにあり、城郭は嶮岨で容易に陥落させることはできない。
 そこで元就は福原貞俊に得意の謀略を授けた。
「内藤隆世は陶晴賢に一味して主君大内義隆を殺した叛逆者であるから許すことはできない。それ
に引きかえ、義長は晴賢の傀儡に過ぎず、遺恨がある訳ではないから、一命を助けて豊後へ送り返
す」
 という内容の降伏勧告を矢文で城中めがけて射込ませたのである。
 義長は「自分だけが助かって内藤隆世を死なすことはできない」と反対したが、隆世は、義長の生
命を助けるためにこれを受諾したのである。


 かくして4月2日、義長は城を出て長府の長福院に入り、隆世は4月3日に切腹した。
 だが、内藤隆世が且山城で自刃して城が落ちると、福原貞俊麾下の毛利軍は、すかさず長福院を
包囲した。
 貞俊は元就の意思として、義長に自決を促しているのである。
 義長は欺かれたことを知り憤ったが、どうすることもできず、覚悟を定めて自刃した。
「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
 大内義長の辞世の句である。

 義長は豊後国の守護大友義鎮(宗麟)の異母弟で、大友八郎晴英と名乗っていた。
 陶晴賢がこれを豊後から迎えて自分の傀儡とした。義鎮はこのとき、どうせ晴賢の傀儡にされるに
過ぎないからと極力反対したが、晴英がどうしても行くというので仕方なく賛成したという。
 大友義鎮は、元就に弟義長を護送するがいかがかと問われたとき、武門の意地を見せてつっぱ
ねたという。

 毛利氏との和平のために、あえて義鎮はこの異母弟を見殺しにしたのである。
 またこのとき、陶晴賢の孫鶴寿丸(6歳)が、家臣野上房忠の手で義長に殉じている。

 これによって、防長の由緒ある名家陶氏も大内氏と共に、その正統が断絶するに至った。
 元就による防長経略が完了したのである。


長門経略関連図(太い線が毛利軍の進攻経路)


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