備後歴史雑学 

毛利元就25「陶晴賢」

文弱・大内義隆を討った武断派重臣


 陶晴賢の主君大内義隆は、よく言えばすぐれた文人で、悪く言えば文弱の徒だった。
 一方、重臣筆頭たる晴賢は、文芸にはまるで関心がなく、家中揃って催される連歌の会にもそっ
ぽを向くような武辺一筋の男であった。
 趣味の相違と言ってしまえばそれまでだが、主従は互いに親しみを欠いていた。

 大内氏の政権は主君を中心に、周防守護代陶氏・長門守護代内藤氏・豊前守護代杉氏の重臣ブ
ロックが、いわば内閣として中枢部を構成していた。陶氏が歴代、筆頭の地位を占めてきた。
 晴賢は天文8年(1539)4月、父興房の死により19歳で陶家を継いだが、代々の権威がバックに
あるので、主君の義隆でさえ会談のあとなど、わざわざ晴賢を見送りに立ったという。義隆は晴賢よ
り15歳年上である。


 晴賢は[陰徳太平記]によると、
「西国無双の侍大将、智も勇も人に越えたり」と評した程の器量人だった。それに将兵の間に人気
もあった。
 天文11年(1542)の大内氏が出雲の尼子氏を攻めて失敗し、敗走した折り、晴賢は殿軍をまと
めながら麾下の兵には残り少ない米を食わせ、自らは雑魚のはたわたと水をすすって凌ぐという情
け深い大将ぶりを示した。

 晴賢は兵を愛するという点で、まさに軍人であり武断派であった。
 反面、軍人の常で思考方法は単純であり、また、自らの非を認めることを嫌った。先の出雲遠征の
失敗がいい例である。
 この遠征は晴賢ら武断派諸将が、強引に主君義隆をひき出して一発、大利を狙って行ったもの
で、はなから無謀な戦いであった。
 その責任は明らかに晴賢にあったが、晴賢らは、敗軍の原因は家中に武勇の気質が欠け、奢侈
の風潮が蔓延しているためだと、鉾先を主君義隆を中心とする文治派に向けたのである。
 具体的には義隆側近の相良武任に対する非難であった。

 相良武任は肥後人吉の相良氏の一族で、父正任が義隆の祖父政弘に名筆をもって仕え、その縁
で彼も義隆側近の右筆となった。
 文人好みの義隆は武任の才を愛して重用し、譜代筆頭の陶晴賢と同時に、それも同じ従五位下
の位を朝廷からもらってやったりした。
 武断派・文治派というのはただでさえ仲が悪いものだが、そこへもってきての同格の叙任であった
から、譜代筆頭の晴賢としては腹が煮える思いであった。
 こうした日頃のうっぷんもあって晴賢は、出雲遠征の敗退の責めと怒りを自らに対してではなく、主
君義隆や相良武任に転じようとした訳である。
 以来、両派の対立は日増しに深刻の度を加えていき、たまりかねた相良武任は天文14年に一
度、肥後へ下った。


 晴賢には、こうした派閥的対立のほかに、直接主君義隆に含むところがあったらしい。
 大内義隆は、晴賢が押さえている周防国内の東大寺領の一部を東大寺に返還させようとしたとい
う。
 それも義隆の古代権威を重んじるという発想からだった。しかし、世は戦国である。戦国武将にと
って土地は命がけで取り、命がけで守らねばならないものである。
 晴賢は、こういう命令を平気で出す主君に激しい怒りを覚えたようだ。そして密かに義隆の隠退を
策した。
 それがやがて晴賢謀叛の噂となり、あとは、いつ晴賢が起つか、という関心事になったという。

 天文19年(1550)11月27日、晴賢は本拠若山城(新南陽市)に帰る。
 翌20年8月28日、晴賢は軍を率いて若山城を発ち、山口に討ち入る。
 それにしても、晴賢の謀叛が何年も前から世間で予測され、討たれる主君もそれを知りながら悠
然としていたというのは、思えば奇妙な謀叛である。


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