備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就21「対陶戦:厳島合戦C」

小早川水軍と沖家水軍の行動


 10月1日の夜はほのぼのと明け初めていた。この日、元就が定めた厳島合戦の陣立ては次のよ
うである。
 本隊は地御前を発して海を渡り、厳島の東北岸包ケ浦に上陸して博奕尾の峰を越え、塔の岡の背
後から敵本陣の右側面を衝く。
 これは陶軍への搦め手攻撃であるが、元就と隆元が総帥となって主力軍を率い、吉川元春が先
陣を務める。

 二番隊は水軍で宮島沖を大野・玖波方面から迂回し、毛利本隊が攻撃地点に着くのを待って西方
から厳島の正面に上陸し、宮尾城の将兵と協力して陶の本陣を衝く。
 これは小早川隆景が総帥となって、浦宗勝・末永景道・磯兼左近太夫らの率いる沼田水軍を指揮
する。

 三番隊は沖家村上氏の水軍部隊で、これは能島の村上武吉が指揮して、宮内から大野・玖波に
わたる厳島対岸の海面を遊弋しながら、陸上部隊の攻撃を合図に陶の船団を撃破して敵の退路を
断つ。


 さて、大野瀬戸を迂回して厳島神社正面に向かった二番隊と三番隊である。
 この水軍部隊の動きについては[三島海賊家軍日記]と[厳島合戦之記]がつぎのように記録してい
る。
 前者は沖家村上水軍の合戦記録であり、後者は毛利氏直属水軍川ノ内衆の合戦記録である。

 先ず[三島海賊家軍日記].

「毛利方の警固船は29日の暮れ方、宮内から大野の山へりを通って、玖波の方より梶ばかりで厳
島海域へ進入した。風が強く、その上、軍令により櫓を立てることが出来ないので、ようやく九つ(午
前零時)過ぎに厳島神社沖へ押し入った。敵船が筏のように見える。波にゆられ、どうにも、なす術
がないように思われた。船中にいる武者たちも、酒に酔い、船に酔い、くたびれて物音一つしない。
今すぐ夜討ちをかけるべきであると皆々申していたが、御軍法に背いてはならないので、辛抱して
夜が明けるのを待った」

 つぎに[厳島合戦之記]

「追手の攻撃に向かう警固衆と島衆とは、共に船三百艘ばかりで戌亥の刻(午後九時)頃から厳島
へ押し寄せた。隆景様がいわれるには、明日の合戦で皆船に酔って戦えなくなるから、大元浦へ船
を着けよう、といっても敵船が近く船を繋ぐこともできまいと。
 そこで磯兼と乃美氏が、このような大風の中では敵も味方も区別できなくなっているから、いっその
こと敵船中を押し通って鳥居のあたりへ船を着けようと、敵船の真正面に進んだ。

 しかし、敵船は数百艘も舟橋をかけ、船筏を組んだように密集しているから割り込めない。すると
乃美氏が一計を案じて、これは筑前国より加勢に来た宗像(むなかた)・秋月・千手の者にて候。陶
殿にお目通りする故、ここを開け候えと大声で叫んだ。
 暗夜のことであるから陶の船頭も、それが敵の船団だとは気がつかない。しかし、碇を掲げ直すと
船が陸へ打ち上げられるから、碇はそのままに船を少しすり寄せて通路を作った。すかさず小早川
の船団は、その間から船を鳥居前へ押入れ、徐々に船中の将兵を社壇へ上陸させた。そして夜の
中に塔の岡の坂下まで詰めかけて、戦機の熟するのを待った」


10月1日卯の刻(午前六時)暁の一斉攻撃直前の配置


 かくして二番隊は、敵の船団の中になにくわぬ顔で入り込み、沖では伊予村上水軍の軍船
が、虎視眈々と合図を待っていたのである。


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