備後歴史雑学
弘治元年(1555)10月1日卯の刻、毛利軍主力の総帥毛利元就は、次第に明け行く東の空を背
に太鼓を叩かせ、四度目はその太鼓の拍子に合わせて、一斉に鬨の声を上げさせた。突撃命令で ある。
目路の限りに大野瀬戸が広がり、眼下に厳島神社の赤い大鳥居と塔の岡の五重塔が美しく見え
る。
尾根つづきに幟旗を立てた陶軍の陣営が、朝もやの中にかすかに見えていた。
寡兵とはいえ、二千に余る軍勢である。喊声をあげながら駆け下る将兵は、あたかも坂道に毬を
転がすようであった。
陶晴賢の本陣は、五重塔より一町ほど東へ上がった丸山壇にあった。その本陣めがけて毛利軍
主力は、矢と鉄砲を射かけ撃ちかけながら、一気に駆け降りて行ったのであった。
陶軍将兵の狼狽が、その極に達したことはいうまでもない。
陶晴賢とその将兵にとって、これは全く寝耳に水の出来事であった。全軍為す術を知らない。
実はこの日、陶軍は宮尾城への総攻撃を予定していた、そして陶軍の将兵は、総攻撃の戦果を
夢みながら夜の明けるのを待っていたのである。
この場合、数の優劣はかえって負の要素となった。なにしろ二万という大軍が、身動きのできない
程までに塔の岡へ詰めかけていたのである。
急いで山頂からの攻撃軍に対処しようとすると、今度は岡の下から鬨の声が起こって、毛利軍別
働隊が山坂を駆け上がる。
陶軍の混乱動揺は名状すべくもなかった。
一説によると、このとき弘中隆兼は万一を考えて博奕尾近くに陣を取っていたが、不意を襲わて、
陣容を立て直すため陶の本陣へ合流しようとした。これが敵の来襲と見誤られ、陶軍の混乱を増大 させたという。
いずれにせよ、その弘中隆兼は、大和興武・三浦房清などと共に、直ちに晴賢の本陣へ馳せ参じ
て、塔の岡から大御堂の間に陣列を敷き毛利軍に対抗したが、かえって混乱を深めるばかりであっ た。
かくして、陶軍は総崩れとなり、大将の叱声怒号もはかなく、先を争って大元浦へと逃れて行く。
[三島海賊家軍日記]に記載された厳島沖海戦の模様は、およそつぎのようである。
塔の岡で合戦が始まると、海上でも太鼓を三度打って「えいえいえい」と鬨の声を上げ、戦闘が始
まった。
まず、前夜敵の目を欺いてひそかに敵陣中へ上陸していた小早川軍が、塔の岡めがけて駆け上
がると、それを合図に沖家村上水軍の猛者が敵船団へ攻撃をかけた。攻撃は能島の村上水軍総 帥村上武吉の下知によって行われた。
まず、まわりを板で囲んだ射手の船が、弓・鉄砲を射かけ撃ちかけながら、藻切り鎌をもって敵船
の前を横一文字に往復して碇綱を切って走る。
そこを二番手の火矢船が四・五艘出て、沖から漕ぎ寄せ敵船へ火矢を射かける。
そのあと、三番手の焙烙船が秘伝の焙烙(火薬)を敵船に投げ込み、最後に武者船の武者たち
が、白刃を振りかざし、一斉に敵船へ乗り移って切り込み攻撃をかけた。
敵船は西から東へと船列が乱れる。そこを村上水軍は南から西へと自由自在に向きを変えて攻め
立てるので、敵船団は総崩れとなった。
陶軍の船団は、あるいは火をかけられ、あるいは乗っ取られて、残りの船団は残らず厳島海域か
ら西へ逃走した。
毛利軍の厳島奇襲攻撃はこうして開始されたが、陶軍は大軍である。
|