備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就15「大内義隆」

武を忘れ墓穴を掘った文人大名


 大内義隆の本拠周防の山口は、城下町といっても城はなく、義隆の居所は四方に土塁と堀をめぐ
らせた館構えで、大内館と呼ばれていた。
 館の北方には築山館と呼ばれる豪荘華麗な別荘があり、山口を訪れる文人や京下りの公卿たち
との雅会の場所になっていた。
 町並みは京都ふうに条里にそって創られ、人々は町筋を大路・小路で呼んでいた。
 また、京都から勧請された祇園社や北野社もあった。
 郊外には香積寺の五重塔(後世、瑠璃光寺となる)が優美な姿を見せ、画僧雪舟作の枯山水の庭
が常栄寺にあった。


 山口には近国・遠国から多くの商人や職人が集まってきていた。日本ばかりでなく明や朝鮮からも
やって来ていた。
 義隆の晩年にはフランシスコ・ザビエルが布教の拠点を求めて義隆に会いにきた。
 そのザビエルによると、山口の人口は一万人以上だったという。町の姿といい規模といい、そして
文化の中身といい、たしかに山口は「西の京都」と呼ぶにふさわしい町であった。
 大内義隆が生まれた頃、「西の京都」はすでに諸国に知れ渡っていた。つまり、山口は義隆の歴
代の父祖によって築きあげられた町なのである。
 義隆はそれをそっくり受け継いだのである。


 領国もまた然り、大内氏歴代は有能な武将が揃い、南北朝時代に当主大内弘世が周防・長門二
国の守護に任じられて、以来七代数えて義興(義隆の父)の時には、周防・長門・石見・安芸から北
九州の豊前・筑前にまで勢力をふるう大大名にのしあがっていた。
 義隆はその大版図を22歳の時に受け継いだ。
 義隆自身、歴代から最も強く受け継いだのは文化的関心と素養であった。

 大内氏歴代は、武将のたしなみの域を超えた和歌の詠み手であったし、古典的教養の持ち主で
あった。
 義隆は生まれながらに、「西の京都」の京文化に触れ、中国の太守という貴族的地位に置かれ
た。
 言い換えれば、武将として育つ基盤が薄かった。そのかわり、学問や文芸には並々ならぬ関心を
もって取り組んでいた。

 儒学・宗学・和歌・連歌・漢詩文・有職と、驚くほど博く学んだ。そのため京都から頻繁に師を招い
ていたという。
 もちろん芸能にも耽溺した。蹴鞠・能・催馬楽・今様・管弦・舞楽等々、公家の好むものは何であっ
ても手を染めたのである。
 このあたりまでなら、義隆にさして批判すべき点はない。当時の戦国武将も義隆ほどではないに
せよ、教養として学問も芸能もこなしていたからである。
 問題があるとすれば、学問で得た知識を、戦国という時代を忘れて実際化しようとしたことであろ
う。

 義隆はその初政期、朝廷文書を司る官務家小槻尹治を山口に招き、小槻を召し抱えた。
 また同じ初政期、九州の少弐氏を討つ名分を得るため、朝廷に献金して太宰大弐の官名をもらっ
ている。
 敵の少弐氏が太宰少弐であることから、義隆はその上位の官でなくてはなるまいと考えた訳であ
る。
 これがはたしてどの程度の効き目があったか知らないが、義隆はめでたく勝利を収めた。
 もっとも、義隆が出陣して指揮したわけではなく、重臣陶興房(晴賢の父)が遠征軍の大将であっ
た。


 天文12年(1543)、義隆は出雲尼子氏攻めの遠征に失敗し、これを境にひたすら文人生活に浸
る。
 そんな義隆に、やがて重臣陶晴賢が謀叛を企て、義隆はなすすべもなく討たれることになったので
ある。


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