備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就16「対陶戦:謀略」

「対陶戦:謀略」


 謀略は元就のお家芸である。とくにこの時代、外交的謀略は武略としてよく用いられ、元就の謀略
は陶軍との厳島合戦を前にして最高度の威力を発揮した。

 その一つに「新宮党の抹殺」がある。
 天文23年(1554)11月1日、尼子晴久は自ら尼子軍最強の戦闘集団であった新宮党の党首国
久とその嫡子誠久を誅殺し、翌2日にはその一族すべて滅ぼした。
 尼子経久の次男で晴久の叔父の、紀伊守国久とその子式部大輔誠久・同左衛門大夫敬久らは、
三千余騎の手勢を擁して富田の新宮谷に居住していたのでこの名がある。
 これは、新宮党の内部告発によって、国久が安芸の毛利氏に内通して晴久へ謀叛を企てたのが
発覚したから、ということになっている。
 しかし、[吉田物語]や[温故私記]などの軍記物では、尼子家の当主晴久が新宮党の横暴に業を煮
やしていることを耳にした元就が、謀略をめぐらし、新宮党が毛利氏と連絡を取り謀叛を企てている
という偽りの情報を流した結果の出来事だと記している。


 「新宮党が毛利氏に通じている」との噂が富田近在に流れていた。
 折しも、富田城近くの山中で殺されていた巡礼の懐中から「晴久を首尾よく討ち取ったならば、所
望どおり雲・伯二国を与えよう」という密書が出てきた。
 それまで噂を一笑に付していた晴久も、さすがにこの密書の文面には逆上した。
 元就は、罪人を座頭の巡礼に仕立て密書を隠し持たせ、これを山中で殺し、死体を捨てて置い
た。晴久は、この策謀にまんまと引っ掛かった・・・というのが話の荒筋である。

 いずれにせよ、この事件によって新宮党一族は滅亡し、晴久は最も頼りになる戦闘集団を自らの
手で葬り去ってしまったのである。
 来るべき前門の虎(陶氏)との対決において、元就は恐るべき後門の狼(尼子氏)の牙を抜いたと
いうべきであろう。


 次に元就が用いた二つの内通偽装工作がある。
 天文24年3月16日、陶晴賢は弘中隆兼に命じて、重臣江良房栄を岩国の琥珀院に襲って殺害
させた。
 これも元就による謀略の結果である。
 江良房栄は弘中隆兼と並ぶ陶晴賢家臣団の柱石である。たびたび安芸や備後に出陣し、元就と
攻城野戦を共にした仲であり、元就の手の内をよく知っていた武将であった。
 元就は最初、この房栄を自分の陣営の中へ味方として誘い込もうとした。しかし、その態度が曖昧
であったので、不安を感じ、むしろ相手側である陶氏の手でこの人物を抹殺させようと考えた。
 そこで、陶方の間者を逆利用して、房栄が毛利氏に内応しているという偽りの情報を晴賢に密告さ
せた。
 愕然とした晴賢が部下の弘中隆兼に命じて、房栄を岩国の琥珀院に襲わせたというわけである。


 元就は厳島に囮城(宮尾城)を築き、ここを決戦場と決めてからは、さまざまな手段を使ってこの島
に陶軍をおびき寄せようとした。
 その手段の一つに桂元澄の陶方への内通偽装工作がある。
 桂元澄は毛利家の宿老である。当時は毛利軍の対陶防御網の最前線基地である桜尾城の城主
であった。
 この元澄の父広澄は、元就の毛利家相続の際、庶弟元綱の陰謀に加担した廉で自刃している。
 しかも元澄自身、父の自刃のあと一族を率いて元就と一戦に及ぼうとした前科がある。
 元就は30年前のこの事件を利用して、元澄に陶晴賢へ内通するという偽りの手紙を書かせた。
 すなわち、元澄はかねてより元就に対して恨みがあるので、この機会に元就へ反逆を企てようと思
う。ついては陶軍が厳島へ渡海して宮尾城を攻めれば、きっと元就も宮尾城を救援するために厳島
へ渡るであろう。
 その時この元澄が北上して、手薄になった吉田郡山城を襲い、城を占拠するというのである。

 さすがに晴賢も、この偽手紙の内容には疑念を持って、容易に信じようとはしなかった。
 ところが元澄は、更に起請文を書いてこれを晴賢のところへ送ったので、ついに晴賢もこれを信じ
た。
 神仏の祟りを絶対のものと考えていたこの時代、武士が起請文を書くというのは、よくよくのことで
あったのである。
 そこで晴賢は、「陸路をとって安芸へ進行する」という作戦の常道を捨てて、全軍を厳島へ投入して
しまったのである。


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