備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就14「対陶戦:背後の敵保木城攻略」


 折敷畑合戦の敗報を聞いて陶晴賢は、愕然として色を失った。すぐさま大内軍の総力を挙げて安
芸へ出陣したいのだが、いまだ大勢が整わないので、とりあえず安芸内部にいる味方を鼓舞して、
毛利陣営の背後を脅かす作戦を取った。

 保木城の野間氏は、広島湾東岸の矢野に蟠踞する古くからの国人領主である。
 野間氏は安摩庄矢野浦と呼ばれる水軍基地を擁し、これから陶軍の来襲に備えて広島湾岸を固
めなければならない元就にとって、この野間氏の動向は座視することのできぬ関心事であった。
 ところが、この野間氏は、元就が晴賢と断交するに及んで毛利氏と絶ち、晴賢に一味したのであ
る。
 野間氏の当主隆実は、陶方の国人領主白井氏(安芸府中出張城主)を語らい、毛利方の仁保島
と海田浦を襲撃した。
 しかも、この隆実は安芸内部にあって毛利方諸将の動向をことごとく山口へ通報しているというの
だ。
 これでは元就も野間氏の保木城をそのままに放置しておくことは出来ない。


 天文24年(1555)4月9日、元就は隆元・元春・隆景の三子をはじめ、宍戸・志道・福原以下三千
五百の軍勢を率いて保木城を攻略した。
 保木城主野間隆実は、晴賢から派遣された援軍三百に自分の手勢千二百と合わせて毛利軍と
戦ったが、衆寡敵せず4月11日にいたって遂に降伏した。
 このとき元就は、野間氏の降伏の申し出を許し、一度は城兵の命を助けるといって城外へ退去さ
せたが、その多くを城外で殺害させている。
 これは、毛利氏が厳島決戦を前にした生死の瀬戸際であり、後方の不安を取り除くために、やむ
なくといった措置だといわれている。

 また、元就はこの頃、瀬戸内海の蒲刈島を攻めて多賀谷氏を降伏させ、その西の倉橋島でも同族
の多賀谷氏を攻め滅ぼしている。
 やっとこれで元就も、陶氏と全面対決する大勢が整ったのである。


毛利元就当時の安芸国一円図


折敷畑合戦の毛利軍の進軍経路


厳島合戦直前の毛利軍の陣営図


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