備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就4「郡山合戦」決戦前夜

 百万一心、両雄の狭間で地歩を固める

 「郡山合戦」決戦前夜

 元就が尼子氏と絶交し大内氏の配下に復帰すると、尼子氏の勢力圏であった芸備両国は次第に
蚕食されはじめた。
 このため尼子詮久(晴久)は出雲富田の月山城内に重臣たちを集めて、吉田郡山城攻略の軍議を
開いた。
 天文8年(1539)11月1日の軍議で、翌天文9年秋を期して安芸遠征を行うことに決した。

 天文9年6月に、瀬踏みの軍勢を備後路から送った。
 尼子新宮党の国久・誠久・久幸の三将に率いられた三千余が、八幡山城(三次市下志和地町、尼
子方の三吉隆信の属城)に陣を進めた。
 ここから可愛川(江の川)を渡り、祝屋城・五竜城を陥れたのち郡山城に迫る計画である。しかし、
これは深瀬の犬飼平(甲田町)で、毛利氏と結んだ宍戸元源(もとよし)、孫の隆家(元就の女婿)、
深瀬隆兼らの決死の防戦で、撃退されて失敗する。




 同年8月10日詮久は、出雲・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後・石見・安芸の兵約三万の大軍
を率いて、月山富田城を出発し、石州路を通って吉田へ来襲した。
 尼子軍は9月4日に本陣を郡山城の西北約4キロの風越山に置いた。この合戦は尼子軍の全勢
力を誇示する大デモンストレーションであり、短期間で毛利氏をつぶしてしまう作戦であった。
 詮久は、部下の湯原弥次郎ら三千余を左翼に、高尾久友・黒正久澄・吉川興経らを右翼に、石州
相合に別軍を留め、国司の白豆峠、会下谷方面にも出兵して背後の警戒に当たらしめた。

 毛利元就は事態の重大さに鑑みて、城下の者を農民・商人に至るまで、ことごとく妻子を伴って城
内に収容して、これに対抗した。
 郡山城へ籠城した人数は約八千であるが、毛利軍の精兵は二千四百である。また宍戸元源は五
竜城に籠り、隆家を郡山城に入れ、天野興定も入城した。
 福原広俊は鈴尾城の守備、小早川興景・大内軍の杉元相らは坂・豊島まで来援して駐留した。
 その一方で元就は、急使を山口に派遣し、大内義隆の援助を懇請した。
 防備は郡山城の西南青光井山の麓から多治比川に至る方面には竹柵を作り、幕を張り旗を立
て、いかにも警備の厳重なありさまを示し、郡山城背面の防備は故意に薄くした。多数の伏兵を山
谷、深林の中に配置し、号令一下直ちに決起出来るように諸隊に命じた。


 「決戦前夜の元就の訓示」

 郡山城内の精兵は二千四百余で、尼子軍の十二分の一の兵力にしかすぎなかった。 元就はこ
れらの軍士をことごとく集め、
「およそ、戦は軍勢の多少によらず、士卒一和し進退一如なるときは千術自由ならずという事なし、
敵多勢といえども恐るるに足らず」
 と、訓示した[温故私記]。

 「郡山籠城戦に加わった領民たちの謡」

 大挙して押し寄せる尼子軍を前に、郡山城内には吉田の領民たちも加わった。
 尼子軍は民家に火を放った。自分たちの家々が次々と黒煙をあげて燃える悲惨な光景を、領民た
ちは郡山城内から目にしたのである。
 ところが彼らは落胆するどころか、「尼子殿は雲客、引き下ろして、ずんぎり、曳こ曳こ」などとうた
い、平然とはやしたてたという。
 これは「出雲尼子は天にある雲である、引き下ろして、寸切りに切り捨てよ、さあ引き下ろせ、引き
下ろせ」という意のようである。
 領民たちを懐柔して、戦力として組み入れれば、精兵たちとはまた異なった威力が発揮される。
 元就は、この術を熟知していたに違いない、智将といわれる彼の統治能力の一面を垣間見る興味
深い逸話である。


郡山城籠城戦のイラスト


トップへ戻る     戻る     次へ



inserted by FC2 system