備後歴史雑学 

「山陰の覇者」尼子経久

逆境をはねのけた山陰の覇者

 戦国大名のはしりといえば、ふつう北条早雲を指すが、尼子経久(1458〜1541)はこの早雲と
同時期、同様に「国盗り」に奔走し大をなした人物である。歴史の上では経久もまた戦国大名のはし
りなのである。
 経久は一代で、山陰・山陽十一か国の太守といわれるまでになった。
 それも出雲守護代の地位を剥奪されたあと、徒手空拳、牢浪の身からのしあがった。

 その飛躍の一歩が、文明18年(1486)元旦の富田月山城奪回戦である。経久29歳のときであ
った。
 これより2年前の秋、経久は主君の守護京極氏に背いて追放され、守護代の地位も権力も、領地
も本拠の富田月山城も、何もかもまるごと失ってただの浮牢人になった。
 [陰徳太平記]によると、その後経久は諸国を流浪したあげく、食うに困って寺の沙弥(給仕)のよう
なことをしていたという。
 また別の伝え[雲陽軍実記]では、中国山地の山里にある母の実家に隠れ住んだと記しており、こ
れが真相に近いらしい。
 いずれにしても経久は落魄した。が、まる一年経って冬を迎えるころ、経久は富田城奪還・尼子家
回復を策し、山中入道ら出雲の残るわずかな旧臣と連絡をとりはじめた。
 その結果、山中一党17人と旧臣56人の同士を得た。しかし、この人数で要害の富田城に攻めか
かるのは無謀というもの。


 経久主従は相談の結果、月山山麓に住む鉢屋賀麻(はちやかま)党を味方に誘うことにした。
 鉢屋というのは、祭礼や正月などに芸を演じる芸能集団だが、兵役もつとめていた。
 その賀麻党は、毎年元旦に城に入って祝いの舞を演じることになっている。経久はここに目をつけ
たのだ。
 賀麻党は旧城主の頼みとあって、二つ返事で味方になった。一党の人数はかれこれ70人ほどで
ある。
 これで尼子勢は140人程になった。もちろん、まともに城攻めの出来る数ではないが、経久は賀
麻党の特質を利用することで勝算ありと読んだ。そして新しい年の元旦を待った。


 文明17年大晦日の夜半、尼子勢は動いた。まず経久以下旧臣の部隊が、城の搦め手に忍び寄
り塀をのり越え、勝手知ったる城内各所に潜んで手はずの合図を待ちうけた。
 やがて翌18年元旦、時刻は午前三時ごろ、賀麻党70余人は、笛・太鼓もにぎやかに城の大手門
に繰り込んだ。
 一党は皆、烏帽子の中に兜を冠り(との説明だが鉢鉄か)、衣装の下に具足を着け、武器を隠し持
っていた。
 城内では、今年は来るのが早いぞと言いながら「善は急げということじゃ、めでたい、めでたい」と
浮かれて、武士も女子供も起きだしてきて、賀麻党の舞の見物に集まった。

 かねて忍びこんでいた経久の部隊が、賀麻党の太鼓の音を合図にどっと起ち、城内各所に火を放
ち、鬨の声をあげて乱入した。
 と同時に賀麻党も、烏帽子・衣装をかなぐり捨てて、見物の城衆に襲いかかった。
 城中は一瞬のうちに修羅場と化した。尼子勢は武器を取る間もない城兵を殺戮し続けた。
 やがて城主塩冶掃部介も、みずから槍をふるって戦ったのち、自刃して果てた。
 こうして経久は、凄惨な殺戮によって富田城奪回に成功し、以後近隣諸豪を次々に従えていくので
ある。


 その後経久は、美作・備前・備中・備後・安芸と山陽側に勢力を伸ばし、瀬戸内の三島村上水軍
や大三島大祝家にまで策謀の手を伸ばしている。
 大三島大祝家の指揮下にあった村上水軍が、第一次・二次・三次にわたる大三島合戦で、執拗な
大内水軍の攻撃を受けながらも、大内氏に屈しようとしなかったのはそのためである。(鶴姫伝説が
残っていて、鶴姫所用の胴丸が 大山祇神社に展示されている)


 尼子経久は血なまぐさい謀略家だったかというと、逸話として伝わる経久は、女子供にも親しまれ
る温和な人柄で、負傷兵にはみずから薬を与え、戦死者の遺族には食禄を増やしてやり、供養の読
経までしてやるような人物である。
 それに度はずれて気前がよく、人から道具類や調度品を誉められるとひどく喜んで、どんな高価な
物でもすぐにそれをくれてしまう。
 このため、人々は恐縮して、以後、経久から自慢の品を見せられても、誉めずにただ眺めるだけに
したという。
 この話、戦国武将としては類型がないようなので、案外、事実なのかもしれない。


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