備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就3
「吉田毛利家襲封」

 大永3年(1523)7月15日、西条鏡山城から帰って来たばかりの幼主幸松丸が病死した。元就
は本家である吉田毛利氏を相続した。
 一説にはこの幸松丸、西条鏡山城攻略の陣中で敗将の首実験に立ち会い、そのあまりの惨たら
しさに戦慄驚動して卒去したとある。
 それはともかく、元就は8月10日に毛利家中の衆議により、毛利家の当主となった。しかも、この
年の4月、安芸新庄の吉川家から嫁いで来ていた妙玖(みょうきゅう)夫人との間に嫡男隆元が生ま
れて、二重の喜びである。

 しかし、この襲封の裏には激しい毛利家内の相続争いがあった。
 毛利家の先代興元には三人の弟があった。元就と二人の異母弟元綱と就勝である。末弟の就勝
は早くから山手の常楽寺にやられて出家していたので問題はない。

 元綱は郡山城西南方の船山というところに砦を構え、今義経と噂されるほどの武芸達者であっ
た。これを擁立しようとしても不思議ではない。
 元綱を擁立したのは坂広秀と渡辺勝である。この二人は元就の襲封連署状にも名を連ねた重臣
であったが、尼子氏からの働きかけもあって、元綱に肩入れした。
 坂広秀は日下津城(向原町)の城主であり、渡辺勝は長見山城(甲田町)の城主であった。
 知略の長けていた元就は、かねてから側近に細作(間者)を養っていたので、この情報を入手する
と、すぐさま先手をうって元綱一味を誅伐した。
 元綱をその居城船山に襲って討ち取り、坂広秀の日下津城へは討手を差し向けて一族もろとも自
滅させ、渡辺勝の長見山城もまた毛利軍の急襲を受けて滅んだ。
 こうして庶弟元綱一味の反逆は未然に防止されたが、実はこの陰謀、出雲富田城の尼子経久が
裏で糸を引いていたそうである。


 尼子経久は過ぐる永正15年(1518)に、出雲阿用の戦いで嫡子の政久を失い、孫の詮久を継嗣
とした。が、若い詮久の下での尼子家に危惧の念を抱いていた。
 このとき安芸支配の要となる毛利家に、不世出の名主が出ることに危険きわまりないと感じてい
た。
 先の、西条鏡山城攻略の際の元就の知略を見てそう思ったのである。
 しかも、どちらかというと元就は大内贔屓であり、尼子の支配を脱して自立したい気持ちを持って
いる。
 そこで径久は、密かに腹心の亀井秀綱に意を含め、元就の庶弟元綱一派を調略していたから、今
度の事件が起こったのである。

 出雲へ派遣していた細作からこの情報を入手すると、元就はすぐさま尼子氏と手を切って大内氏
の陣営へ走ろうとした。
 だが、弱小戦国大名の悲しさ、重臣二人を人質に差し出して臣従を誓っている現状では、どうにも
ならない。
(このとき人質として差し出されていた家臣は、赤川就秀と光永秀時であった。両人は、毛利家が尼
子家とは決別し、大内氏と盟約を固めることに意を決したとき、富田城からの脱出を命じられた。両
人は示し合わせて夜陰に紛れて脱出を図ったが、富田衆に追尾され、秀時は討死。就秀のみ襲い
かかる追っての白刃をくぐりぬけて、ようやく帰還した。この就秀は尼子氏の情勢を元就に詳報し、
毛利氏の尼子攻めのときには、先導役をつとめたといわれる)


 たしかに毛利氏は、この事件の後も当分の間は尼子氏の陣営に留まっていた。
 大永4年(1524)5月、大内義隆が大将となって安芸佐東郡の銀山城(武田氏)を攻めたとき、元
就は尼子軍の一翼をになって7月10日から始まる銀山城救援合戦に参加している。
 元就はこのとき、最初は亀井・牛尾両氏の率いる尼子直属軍に先陣を譲って、尼子軍が敗北する
のを傍観していたが、そのあと安芸の国人部隊を糾合して精強な夜襲部隊に編成し、大内軍の陣
営へ夜襲をかけた。
 この夜襲で元就の指揮する安芸国人部隊は、五百二十余の首級をあげている。
 だが、そのあと元就の態度は次第にあやしくなる。


 翌大永5年4月、攻勢に転じた大内義興は、前年につづき安芸の諸城を攻略し、大内軍の名将陶
興房(隆房の父)に天野興定の籠る志和米山城を囲ませたが、そのとき元就は、大内氏と天野氏と
の和談を斡旋している。
 元就自身に大内義興との信頼関係がなければ、他人にそれを周旋できるはずがない。
 さらに享禄元年(1528)10月、元就は家臣の井上新三郎を人質として山口へ派遣し、大内氏に
誠意を示したので、義興は毛利氏の服属を大いに喜び、元就に安芸可部七百貫・温科三百貫・深
川上下三百貫・玖村七十貫等の地を預け与えている。

 享禄元年12月20日に、その義興が死去し23歳の嫡子義隆が大内家を襲封すると、元就はこの
義隆に対してもすくさま服属の態度を明らかにした。
 翌享禄2年5月に、現在の美土里町横田にあった安芸松尾山城の高橋弘厚を攻め、ついで弘厚
の子興光を石見国阿須那藤掛城に攻め、謀略によって興光を自刃させたのは、そのためである。
 これは元来毛利氏とは姻戚関係にあった高橋氏が、大内氏の支配から転じて尼子陣営へ走ろう
としたからといわれる。

 ここにおいて元就は、尼子離反の旗幟を鮮明にしたわけである。
 これに対して尼子経久の執った行動は?。


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