備後歴史雑学 

安芸武田氏と安国寺恵瓊
「安芸武田氏」

 下剋上に敗れ消え去った名族

 安芸の武田氏は甲斐の武田氏と同族であるが、安芸に入った時期については、鎌倉時代説と南
北朝とする説があり、はっきりしないそうです。
 いずれにしても、安芸守護武田氏は甲斐源氏の流れである。
 いま一家、若狭守護の武田氏があるが、これは室町時代に安芸武田氏から分かれた家である。

 戦国時代の安芸武田氏は、西の隣国周防・長門を根拠とする大内氏の勢力に押されがちであっ
た。
 これに反抗したのが武田元繁である。
 元繁はなかなかの豪勇で、[陰徳太平記]の表現では、中国三国志の英雄「項羽」ほどの勇をふる
い、日ごろ鬼神のごとく恐れられた武将である。とあり、とにかくつねに戦場に出ていたようである。
 しかし元繁も、大内氏属下の新興大名毛利元就と戦って、武運つたなく永正14年(1517)敗死
する。
 以来、武田氏の家運は傾く一方となる。


 元繁の子光和は頽勢挽回をはかり、山陰の雄尼子氏と結んで、大内方に対抗するが、勢いを盛り
かえすまでにいたらず、天文3年(1534)病死してしまう。
 その後武田家は、光和の後継をめぐって光和の弟伴(とも)下野守の子信重と、叔父信実とが抗
争するなど、さらに力を弱めた。
 そこを毛利軍に衝かれ、銀山(かなやま)城は陥落。信実は出雲にのがれ、信重は自刃する。
 この銀山城陥落については、元就の奇略が伝えられている。
 元就は近郷の農民を動員して草鞋を山と作らせ、夜、これに火をつけて大田川に流した。
 銀山城の山頂からこれを望見した武田勢は、夜襲と錯覚し全兵力を大手に集めた。これが元就の
計略で、元就は毛利勢を搦手にまわし、一気に城を攻め登って攻略したという。

 こうして安芸の名族武田氏は滅亡するが、信重は竹若丸という4・5歳の男子を遺した。
 落城の日、竹若丸は家臣によって城を脱出し、安国寺に逃れた。安国寺は武田氏歴代が手厚く保
護してきた寺である。
 ちなみに安国寺とは、足利尊氏・直義兄弟が、後醍醐天皇以下の戦没者の冥福を祈るために、国
ごとに建立した寺である。
 新しく造営する場合も、既成の寺を修理してそれに充てる場合もあった。竹若丸が身をおいた安国
寺は後者の例で、平安時代からの古刹である。
 竹若丸はこの寺の僧となり、ひたすら仏道にはげんで、恵瓊と名乗った。

 安国寺恵瓊・・・・・。
 毛利家の外交僧として織田・豊臣時代に活躍し、のち関ヶ原の主謀者となって刑場の露と消え
た、異色の僧である。亨年62歳また64歳とも。
 恵瓊には、信長・秀吉の運命を予言して的中させた有名な話がある。
 天正元年(1573)のことである。恵瓊は信長・秀吉に会った印象を、
「信長の代は5年や3年はもつであろう。明年あたりは公家にでもなるように思われる。しかしその
後、高ころびにあおのけにころがってしまうと思われる。藤吉郎(秀吉)は、さりとては、の者である」
と書いた。
 そして10年後、信長はまさしく、あおのけにころがるような死を本能寺の変で遂げ、秀吉がその後
継者として登場するのである。

 いま、安芸守護武田氏の栄枯をしのぶ銀山城は、名も武田山となって大田川沿いにくっきりとそび
えている。
 本丸千畳敷への道をたどれば、途中に曲輪の跡がいくつか見えてくる。やがて頂上。本丸跡には
建物の礎石と見られる巨石が露出し、往時を想うよすがとなっている。
 見晴し台にひらける眺望は、眼下には大田川がゆるやかな曲線を描いて流れ、前方には広島の
街が海に面してひろがっている。
 山麓には武田氏ゆかりの寺や社の跡があり、大田川を下れば、東の対岸に安芸安国寺の清閑な
たたずまいが望まれる。


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