備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就2

「戦国の狭間」

 大永年間(1521〜27)に入って、尼子氏の安芸侵略が激しくなった。
 当時安芸国は、芸備(安芸と備後)一帯が大内氏の支配下に置かれ、大内義興は安芸西条鏡山
(鏡山城)へ城を築いて、ここを拠点にして確固たる勢力を扶植していた。
 尼子経久はその大内氏の勢力圏に侵入して、ジリジリ勢力を広めつつあった。

 大永3年(1523)6月上旬、尼子経久は精兵を率いて安芸国へ出撃した。これは大内義興が筑
前国で起こった争乱を鎮圧するために、関門海峡を渡って北九州へ出陣した間隙を衝いたものであ
る。
 尼子軍は高田郡の北池田に屯営し、それまで大内氏の支配下にあった毛利氏へも安芸東西条へ
の出陣を要請した。
 経久は大内氏の拠点鏡山城を奪取するために、尼子氏の親類縁者の吉川氏と武田氏へも出陣を
要請していた。

 尼子氏と吉川・武田・毛利氏の親族関係は、尼子経久の妻は吉川元経の叔母。元経の妹は毛利
元就の妻であって、元経の娘が武田光和(討死した元繁の子)の妻である。しかも元就の妹は吉川
元経の妻である。
 こうした姻戚関係をたどれば、毛利氏もこの出陣要請を断ることができない義理合いにあった。
 毛利家ではこのとき、当主の幸松丸がわずか9歳であったので、後見人の元就が全軍の指揮をと
った。


 6月13日、元就は毛利軍を率いて吉川国経(元経の父)の軍勢と共に西条鏡山城下へ進出。
 民家に火を放ち、山麓から激しく鏡山城を攻め上げたが、城兵は大内軍の来援を確信しているの
か、少しもたじろぐ気配が見られない。
 そこで元就は、正攻法では落とすことのできない鏡山城攻略に、得意の調略を用いた。
 このとき鏡山城の守将は蔵田房信で、叔父の蔵田直信がこれを補佐していた。
 元就は城中へ間諜を放って情報を集めた。副将の直信が、生来利欲に走りやすい心情の持ち主
であることを知ると、すぐさまこの直信のところへ調略の密使を派遣した。
「鏡山城主将房信を討ち取ってくれれば、蔵田家の所領は安堵して、そなたに与えよう」というので
ある。
 すると、直信はたちまち元就の謀略にかかって、毛利軍を自分が守備する鏡山城二の丸へ引き入
れた。
 本丸の主将房信は驚いて一日一夜防戦につとめたが、つぎつぎと配下の将兵を討ち取られ、つい
に白旗を揚げた。

 房信が申し出た降伏の条件は、自分の切腹と引き換えに残った城兵と妻子助命を懇願するもの
であった。
 元就がこれを総大将の尼子経久に取り次ぐと、経久にも異存がなかったので、房信の申し出は了
承された。
 ところが、元就にとって意外だったのは、彼の謀略によって尼子軍に寝返った蔵田直信の処遇で
ある。
 総大将の尼子経久は、元就の懸命の執りなしにもかかわらず、直信を許そうとしなかった。
「直信は惣領の房信を裏切って利欲に走り、大義を捨てた。犬畜生にも劣る卑怯な侍であるから、
首を刎ねてしまえ」というのである。
 直信は処刑され、蔵田家の所領は没収されてしまった。

 面目を失った元就であった。大国の狭間に生きる弱小戦国大名の悲哀を感ぜざるを得なかった。
この年、元就数えて27歳。



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