備後歴史雑学 

真田弾正忠幸隆3
「上州経略戦」

 砥石城落城によって村上義清は落胆し、気力も自信も失った。こうなれば没落も早い。離反者も相
つぐ。
 天文22年(1553)4月、武田勢に攻められるや、義清は本城葛尾城を捨てて越後へのがれ、春
日山城の長尾影虎に救いを求めた。
 上杉謙信は当時はまだ長尾影虎である。
(影虎が、越後に亡命した上杉憲政から、関東管領職とともに上杉性を譲られたのは永禄4年156
1であり、不識庵謙信と称したのは元亀元年1570である。また武田晴信が徳栄軒信玄と号したの
は永禄2年1559であり、幸隆も間もなく一徳斎と改めた。以後両雄を謙信・信玄とし、幸隆は最後
まで幸隆で記載します)

 村上義清と高梨政頼にすがられた謙信は、信濃に攻め入った。
 これが世に名高い「川中島五度合戦」の発端となる。この年まだ6歳の三男昌幸を、人質をかねて
信玄のお側に差し出した幸隆は、上田付近の秋和三百五十貫を新たに賜ったという。
 ことのついでにふれると、川中島における両雄五度の対決のうち、最激戦となり、頼山陽の「鞭声
粛々夜河を渡る」で知られる永禄4年の戦いは、四度目にあたる。

 越後の上杉謙信と、甲斐の武田信玄との川中島の大会戦は永禄4年(1561)9月10日のことで
ある。
 8月14日上杉謙信は、今度こそ雌雄を決しようと一万八千の軍勢を率いて春日山城を発った。
 五千の兵を善光寺に残し、一万三千の兵とともに犀川を渡り、さらに武田の前線基地海津城を左
に見ながら千曲川を渡って妻女山に布陣したのが、8月16日である。

 一方武田信玄は、24日に妻女山の西8キロの茶臼山に陣を構え、五日間にらみあった末、海津城
に入った。
 妻女山の上杉軍とのにらみ合いは、さらに十日間続いた。
 9月9日夜、信玄はついに行動を起こした。軍師山本勘助の考えたキツツキの戦法を採用したの
である。
 夜、別働隊一万二千を妻女山に向かわせ、信玄率いる本隊八千は八幡原に鶴翼の陣で布陣し
た。
 真田幸隆と嫡子信綱は、妻女山攻撃の先鋒部隊に加わった。

 これに対し謙信の軍勢は海津城の炊煙を見て武田軍の動きを察知し、ひそかに山を下り、千曲川
を渡って善光寺平の信玄の本隊に迫った。
 馬のひづめは布で包み、口には枚をふくませて物音を殺した。頼山陽の詩は、このときのものであ
る。
 信玄は、濃い霧の中で妻女山から追い落とされてくる上杉軍を待ち受けていた。それにしては、戦
闘の気配が全く感じられないのは不思議であり不安でもあった。

 やがて日が昇り、霧が薄らぎあたりが次第に見え始めたとき、信玄の視界に入ったものは、まっし
ぐらに突進してくる上杉軍であった。
 頼山陽の詩では「暁に見る千兵の大牙を擁するを」と、うたわれている。


 謙信は「兜を伏せて敵を見るな。旗を前に倒して進め」と号令し、自ら、
「エイエイ」と掛け声をかけ、兵たちは「オウオウ」と応じた。
 壮烈な白兵戦が展開され、信玄の弟武田信繁は討死し、山本勘助も作戦の失敗を恥じ、敵軍に
突入して自害した。
 崩れかける我軍を、信玄は床几に腰をおろし必死で指揮していた。

 そこへ突如、放生月毛の馬にまたがり、萌黄の胴肩衣をつけ頭を白絹で行人包みにし、三尺の太
刀をふりかざした騎馬武者がただ一人突進してきた。謙信である。
 謙信は電光のように斬りかかり、太刀を抜くひまのない信玄は軍配で防いだが、三の太刀を浴び、
肩を傷つけられた。
 あわてて駆けつけた原大隅が、槍で謙信を突いたがそれたので、馬の尻をたたいた。馬は驚いて
走り去り、信玄は危機一髪で難を逃れた。
 川中島合戦のクライマックスであり、「流星光底長蛇を逸す」頼山陽の詩の名場面である。

 川中島合戦の話は「甲陽軍鑑」によって有名になり、戦闘の模様はほとんどがこの本によって伝え
られたものだが、史料としては信頼がおけず、つじつまの合わない点がたくさんあるようです。
「前半は上杉、後半は武田の勝利」といわれるこの戦いで、真田幸隆父子は、端役を演じるに留ま
ったが、最終的には川中島平をはじめ、北信濃は信玄の支配するところとなった。


 四度目の激戦のあといくほどもせず幸隆は、信玄から「まず上州を経略せよ」と命ぜられた。
 上州には滋野一族が多く、幸隆は二年に近い流亡中各地を転々として地勢や人情の機微に通じ
ていたので、これにまさる適任者はいない。
 しかし側近のうちには「虎を野に放つようなものでございます」と危ぶんだ者もいたが、信玄はその
諫言を一蹴した。

 感動した幸隆は、長子信綱・次子昌輝や武田服属のかけはしとなってくれた禰津元直など、滋野
につながる海野一族、禰津一族を中心に、他の信濃衆を加えて軍を編成し、西上州に向かった。
 もちろん武田家からの軍監もつくが、かつての流亡の土地に錦を飾る晴れがましさとは別に、幸隆
の心の底には不安がただよった。
「もし、昔ご恩を受けた人々を討たねばならぬはめになれば・・・」

 その危惧は現実となった。流浪中の幸隆を厚遇してくれた羽尾入道幸全が、同族の鎌原(かんば
ら)氏と争いになり、幸全は岩櫃城の斎藤憲広を頼った。斎藤氏は越後に援を仰いだことから、幸全
は反武田の立場に追い込まれた。
 岩櫃城の支城長野原城に居たところを、真田勢に攻められ幸全は討死した。幸全の弟海野長門
守・能登守両名は岩櫃城にのがれた。
 幸隆が直接城攻めにあたったわけではないが、幸隆の心は痛んだ。

 岩櫃城は全面は吾妻川に面した断崖絶壁、後方は山また山の天嶮で、当時「近国無双の城」と
呼ばれた要害で、さすがの幸隆も攻略に手こずったが、最後は得意の謀略にものをいわせた。
 兄羽尾幸全を討たれた海野兄弟が、城主斎藤憲広と不和だった甥の斎藤弥三郎引き入れに力を
つくしたのは、甲州金の魅力以上に幸隆の人間性に心を惹かれたせいもあろう。
 岩櫃落城は永禄6年10月なかばで、城主斎藤憲広・憲宗父子は越後へ去り、以後幸隆はこの岩
櫃城を居城として、事実上上州攻略の最高司令官的存在となった。

 岩櫃城東北4キロの地にある岳山城を、斎藤の有力家臣池田佐渡守が城将として守っていたが、
そこへ斎藤憲広の子の憲宗が越後の援軍とともに入城した。
 真田勢の強襲にも、池田佐渡の善戦でいっかな落城しそうにない。
 幸隆は思い切った手を打った。なんと、城将池田佐渡を味方にしてしまったのだ。永禄8年11月、
佐渡は岳山城から脱出した。ほどなく岳山城は落城し、斎藤憲宗は自害した。

 残る最難関は箕輪城である。翌永禄9年信玄みずから出馬した。
 流浪中、恩義を受けた長野業政はもはや世になく、19歳の現城主業盛は、幸隆の箕輪寄遇中は
生まれてもいなかった。
 幸隆の立場としては、「戦国のならい・・・」と見殺しにするしかなかった。
 9月箕輪城は落ち、業盛は城とともに運命をともにした。


 この年、幸隆は53歳、長子信綱は30歳ですでにひとかどの武将であり、次子昌輝は「むかで衆」
の一人として24歳。三子昌幸は信玄の命で武田家譜代の名門、武藤家の名跡を継いで武藤喜兵
衛と称し20歳。末子信尹をのぞき、三人それぞれの道を歩いていた。

 かねて胸を患っていた信玄は、上洛の途上病重くなって帰途につき、信州の駒場で病死した。元
亀4年(1573)4月12日没。亨年52歳。
 真田幸隆も翌天正2年5月、あたかも信玄のあとを追うように、62年の生涯を終えた。
 はた目には謀略家としての一面のみを強調して評価され、「鬼弾正」とおそれられた幸隆が、設楽
ケ原における信綱・昌輝の壮烈な討死を知ることなく、その前年に安隠に死ねたのは、謀略の底に
秘めた彼の人間性に感じた天の配慮であろうか。

 兄二人の討死後、昌幸が武藤家を出て真田氏を継いだ。幸隆は生涯を武田の部将として終わっ
たが、武田家滅亡後も昌幸が小なりといえども大名として残ることが出来たのは、とりも直さず、上
州経略の心魂を傾けた弾正忠幸隆の功績といえるのではないだろうか。


 「西国の雄」毛利元就へ続く


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