備後歴史雑学 

真田弾正忠幸隆2
「砥石城攻略戦」

 天文19年(1550)7月2日付けで、武田晴信は、
「・・・その方の年来の忠信、満足に思う。されば本意をとげた暁には、諏訪形三百貫ならびに横田
遺跡上条、合わせて千貫の地を進ぜる」
 というような趣意の判物(花押のある文書)を幸隆に与えた。
 諏訪形も上条も旧領のうちである。いまただちにもらえるわけではないが、幸隆は奮い立った。

 折から村上義清をめぐる噂が流れてきた。義清は多年手を結んでいた奥信濃の高梨政頼とにわ
かに不和となり、争いを始めたという。かと思えば、義清みずから五千の軍勢とともに、砥石城に籠
ったとの情報も入った。
 晴信は好機とばかり砥石城攻略を決意し、ただちに幸隆にもその旨伝えた。

 砥石城は真田の西南に位置する山城で、天然の要害として知られていた、しかも真田からはいか
ほども離れてはいない。
 当時、信濃府中(松本)まで進出していた晴信は、8月初旬じきじきに出陣した。
 従う者は百戦錬磨の老将横田備中守高松に、剛勇原美濃守虎胤らである。幸隆は戦線には出
ず、得意の調略に乗り出した。

 8月下旬、武田方は配備を終えたが、開戦に先だって晴信の本陣、長窪の西南の空に黒雲が生
じ、その黒雲の中から赤雲が西になびくという異変。不吉な現象に本陣を移しにかかると、途中、陣
中を鹿が横切った。
[高白斎記]の記述なので、疑う余地はない。とあります。
 うわさは全軍に伝わり、兵たちは不吉の前兆としておびえた。

 9月になっていよいよ城攻めが始まった。
 天然の要害である砥石城に、武田勢は初めから苦戦を余儀なくされた。
 攻めても攻めても砥石城はゆるがず、武田方の死傷のみが日ごとに増えるばかりで、一月近くた
ってしまった。
 その間、幸隆は村上に属する川中島平の清野・須原の両名を味方に引き込むことに成功した。
 両名の帰服は真実のものだったが、義清は幸隆を上まわる策を立てていた。
 肝心の義清は砥石城にはおらず、高梨政頼との争いもなれあいだったのか、両軍合体して、まず
武田に寝返った寺尾城を血祭りにし、余勢をかって背後から武田の本陣を襲うというのである。
 清野氏からの急報を聞いた幸隆は、ただちに晴信に知らせ、みずからは寺尾城救援に馳せ参じ
たが、そのときはもう、見殺しにするほかない状況。幸隆は一転、晴信の本陣に駆けつけた。
 撤退余儀なし・・・・・と軍議が決した頃は、義清の本軍が背後に迫っていて、武田方は前後から挟
撃される形となってしまった。
 横田備中守以下千余名が討死。晴信自身も手傷を負ったが、からくも血路を開いた。
 この大敗を俗に、「砥石崩れ」という。


 大敗の責めは、大半、情勢の把握と分析を誤った幸隆にあることは否めないところだが、晴信は
かえって、
「幸隆、あまり気に病むな。その方とて神ではないわ」
 となぐさめてくれたし、武田家譜代の武将たちも責めようとはしなかった。
 幸隆はいっそう心苦しい。「この不覚、いつの日にか」と日夜知能を傾けた。
 ねらいをつけた人物には、糸目をつけず甲州金をばらまき、かつ誠意をこめて説得した。
 幸隆の熱意に感動した人々が、今度は城内城外の知人にも誘いをかけた。最大の収穫は、高梨
政頼を義清から引き離したことだった。


 明くる天文20年5月、幸隆は真田一手をもって砥石城に向い、一日にして砥石城を奪い取ったの
である。
 これには内応者の働きが大きかった。さらに一つには、去年の大勝におごって城詰めの人数も少
なく、油断しきっていたこともあろう。
 砥石(戸石とも)城は、もともとは真田氏の本家にあたる海野氏の城であったが、村上義清と戦
い、敗れたため村上氏のものとなっていた。
 幸隆はそれを取り戻したわけである。

「さすがは真田」あまりのあざやかさに、敵味方を問わず感嘆した。
 この大功により武田家における幸隆の地位は不動のものとなった。晴信から、かねて約束の旧領
千貫の地を賜った。
 以後しばらく幸隆は、砥石城を居城とした。嫡男源太左衛門信綱はこの年15歳。信綱の初陣はこ
の年とも、翌年の節ともいわれている。


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