備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就1

 安芸の在地領主より身を起こし、尼子・大内氏という強豪大名を相手に、二百余の戦いを勝
ち抜いた毛利元就の全知全能の戦いぶりを描く!!

「安芸の国人毛利氏」

 古い伝説のことはさておき、毛利氏が一族の精神的な支柱とする先祖は大江広元である。
 広元は源頼朝に招聘されて、鎌倉幕府の創業に参画した人物として知られる。
 元暦元年(1184)10月6日、公文所(政所)の開設とともにその別当となり、文治元年(1185)
に諸国の国・荘園ごとに守護・地頭を置くよう頼朝に建言して、武家政治の根底をつちかった。
 広元はその勲功により肥後の山本荘、伊勢の栗真荘、周防の嶋末荘、相模の毛利荘を授けられ
たが、その最後の毛利荘を相続したのが第四子の李光(すえみつ)である。

 李光は毛利氏を称して、承久の乱で手柄を立て、関東評定衆となった。ところが、宝治元年(124
7)に三浦泰村の乱がおこったとき、泰村の軍に加わったため、鎌倉の法華堂で自刃した。このとき
李光の子息たちもこれに殉じたが、一人第四子の径光は越後に在国していて、この乱に関与しな
かったので、径光の所領であった越後佐橋荘と安芸吉田荘の地頭職を安堵された。

 安芸吉田毛利氏の始祖時親は、この径光の二男である。
 時親は文永7年(1270)、父径光から佐橋荘のうち南条と安芸吉田荘の地頭職を譲り受け、六波
羅評定衆となって功績があったので、河内国加賀田郷の地を与えられた。
 佐橋南条は二千貫、吉田荘は千貫、加賀田郷は二百貫の地である。
 元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡したとき、時親は老体を理由に出家し、その後の南北朝の
抗争で時親の名代をつとめたのは曾孫の元春であった。
 その時親が安芸吉田に移住したのは、建武3年(1336)6月の山門合戦(後醍醐天皇が立て籠
った叡山を足利直義が攻撃)のあとと思われる。
 時親の子貞親と孫の親衡は公家(南朝)方に属して越後の佐橋荘にいた。元春は武家(北朝)方
であった。

 元春が吉田に下って来たのは、曾祖父時親の代官としてであるが、のち郡山に城を築いて事実上
安芸吉田毛利氏の始祖となった。
 元春は在世中郡山殿と称されていた。
 元春の孫を光房といい、光房は将軍義教の命を奉じて大内持世に従い、九州に転戦している。
 光房の孫が豊元で、彼は応仁の乱に際会して、はじめ東軍に属していたが、のち西軍に転じて大
内政弘を助けた。
 豊元の嫡子が弘元で、これが元就の父である。


 弘元は応仁2年(1468)の生まれで、毛利家の家督を相続したのは9歳のときである。そのため
毛利家の実権は父豊元の時代から執権であった坂氏の手に握られていた。
 そうしたこともあって、弘元は早くから家督を長子興元に譲って、多治比猿掛城へ隠退した。その
とき弘元は次男であった松寿丸(元就)を連れて猿掛城に移り、死後この城を松寿丸に譲っている。

 弘元が猿掛城で亡くなったのは永正3年(1506)正月21日である。亨年39歳であった。
 弘元の嫡子が興元である。明応元年(1492)生まれで幼名を幸千代丸といい、8歳のとき父から
毛利氏の家督を譲られた。
 興元は将軍義稙を奉じた大内義興に従って東上し、各地に転戦したが、永正13年(1516)8月2
5日、酒害のため病死した。亨年24歳と若かった。
 興元のあとは、嫡子の幸松丸(永正12年〜大永3年1523没)がわずか2歳で相続した。


 「元就初陣」

 安芸国人衆であった毛利氏は、終始防・長の大内氏に従属していた。
 大内義興は自分の在京中、安芸国内で紛争が続出していることを憂えて、安芸国の旧守護であっ
た武田元繁に、帰国してこれを鎮撫するよう命じた。元繁は佐東郡銀山城の城主である。
 大内義興はこのとき、帰国する元繁に権大納言飛鳥井(あすかい)雅俊の息女を自分の養女とし
て元繁に嫁がせ、この旧守護家との関係をより親密にしようとした。

 ところが、すでに出雲の尼子氏から調略されていた元繁は、
「わが安芸守護家は中国探題として、九州探題今川氏に比肩すべき家柄であるのに、いつしか大
内氏の沙汰に従う地位に転落してしまった。義興と有力国人衆が在京中の今こそ、国内を平定して
守護家の権威を回復しなければならない」
 と、押しつけられた妻の飛鳥井氏を離別して義興に背き、大内配下の諸領を自分の支配下に取り
込もうとした。

 永正14年2月武田元繁は、山県郡の大内方諸城を征服の対象とし、今田に陣を取り、付近の国
人衆に服属を呼びかけた。
 すると、さすがに旧守護の権威か、たちまち服属する日和見の国人衆が出て、その軍勢は五千余
にもふくれ上がった。
 三入高松城主の熊谷次郎元直、八木城主の香川兵庫助行景、己斐城主の己斐師道入道宗瑞を
はじめとして、飯田・山田・遠藤・福島・新里・入江・山中・温科などの諸氏である。
 この有田合戦は、そうした武田側の勢力と、それに属せぬ有田城主小田刑部少輔信忠を支援す
る吉田毛利氏、新庄吉川氏との間の戦いである。

 10月3日に武田元繁が有田城を包囲した。
 当時猿掛城主であった元就がこの有田合戦に初陣したのは、永正14年10月21日であった。
 しかし肝心の吉田毛利本家としては、この合戦に出陣することは極力避けたい気持ちであった。
当主の興元を前年に失い、わずか2歳の幸松丸を当主の座につけたばかりで、家中一同服喪の最
中だ。
 敵は新手の国人衆を味方につけて総勢五千余にふくれ上がっているという。新庄吉川氏からの援
軍を合わせても千五百に満たぬ毛利勢では、勝ち目はない。
 ところが期せずして戦端は先方から開けてきた。
 武田軍は21日、元就の猿掛城に近い多治比表へ進撃してきた。その数六百あまりが、民家に放
火して毛利氏を挑発しているのである。

 元就はありあわせの手勢百五十騎ばかりを率いて猿掛城から出撃し、これを撃退したが、さらに
敵を縄手に誘い込んで討ち取っている。
 緒戦で勝利をおさめた元就は、すぐさま吉田の郡山城へ急使を走らせ毛利軍を糾合した。
 元就の舎弟相合四郎元綱をはじめ福原・桂・井上・坂・口羽・渡辺・赤川・粟屋・児玉など当手衆と
いわれた面々七百余が集まり、新庄の吉川からも宮庄経友に率いられた三百余が加勢に駆けつけ
た。
 元就はこの援軍を率いて機先を制し、翌22日に有田へ出陣した。


 武田元繁は毛利軍の来襲を予知して、有田の中井手に防塁を造らせ、熊谷元直に手勢五百をも
ってこれを守らせた。
 毛利勢は最初この熊谷勢に遠矢を射かけていたが、大軍を擁する武田軍に背後へ回り込まれる
ことを恐れて、すぐさま敵本陣への肉弾攻撃に切り替えた。

 武田元繁は敵を小勢と侮り、一挙に毛利勢粉砕の挙に出た。特に先鋒の勇将熊谷元直は、毛利
勢三百が自分の本陣へ真一文字に突きかかり、味方が色めき立っているのを見ると、カッと血が頭
にのぼり、自ら槍を取って騎馬で毛利勢の中へ割って入った。すかさず毛利の射手がこの猛将を狙
って矢を射かけた。その矢の一本が元直の額を射抜いた。吉川勢の宮庄経友が駆け寄って首級を
挙げ、勝ち名乗りをあげる。
 思いがけない熊谷元直の討死を知ると、武田元繁はいきりたち、有田城攻撃の全軍に毛利陣へ
の突撃を命じた。
 包囲網には七百の手勢を残しただけである。

 毛利勢は中井手の敵塁を突破して又打川の近くまで押し寄せていたが、こうなるともとより数にお
いて毛利勢は武田勢の敵ではない。
 たちまち突き崩されて敗走を始める。元就は渾身の気力をふりしぼって味方を叱咤する。
 意気に感じた毛利勢千余は、一丸となって武田の陣へ押し返し、ようやく息を吹き返す。
「なにを小癪な毛利の若造め!」
 と、我を忘れた元繁は、元就に自ら槍をつけようと騎馬で又打川を飛び越えようとした。
 元就は、この元繁の匹夫の勇を嘲笑い、
「敵将元繁、謀短くぞ覚えたり。あれを射落として手柄にせよ、者ども!」
 と、部下に一斉射撃を命じた。狙った矢の一本が元繁の胸板を射通した。さしも豪勇をもって鳴る
武田元繁も、哀れ又打川の水際に真っ逆さまに転落したのであった。
 捨て身の戦法で旧守護家の大将を討ち取ったこの有田・中井手・又打川の合戦は、信長の桶狭
間の奇襲戦法に類似するので、後世これを「西国の桶狭間」と称する。このとき元就21歳の輝かし
い初陣であった。


 以後、元就は合戦につぐ合戦の生涯であるが、「西国の雄」としての天下の大知略を記載してみ
たいと思います。

 尚、のちの厳島合戦が本当の意味での「安芸の桶狭間」である。


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