備後歴史雑学 

真田家中興の祖と仰がれる鬼弾正の苛烈な生涯

 真田三代という場合、昌幸・信之と幸村父子の知名度に比べると、真田弾正忠幸隆はいささか影
が薄く感じられる。
 だが、幸隆の存在をぬきにしては、真田氏の興隆はありえなかった。

 幸隆は永正10年(1513)、今の上田市の北東およそ12kmの真田の里に生まれた。
 真田の出自は信濃の名族滋野氏だが、後に海野氏となり、海野氏から禰津・望月が分れ、この三
氏を「滋野三家」と称した。
 通説では、海野棟綱の二男の幸隆が初めて真田を称したとするが、別説では、実は鎌倉時代から
無名ながら海野の傍流として真田一族が真田地方に居住しており、棟綱の娘が真田氏に嫁して産
んだのが幸隆だという。
 つまり幸隆は棟綱の外孫らしいのである。
 甲斐一ヵ国を平定した武田信虎は、広大な隣国信濃に侵攻した。

 天文9年(1540)佐久地方の諸城を落としたあと、諏訪頼重に娘を嫁入らせると、翌年5月に葛
尾城主村上義清と諏訪頼重を語らって、海野一族の領有する小県郡を襲った。海野一族のみでは
必死に防戦してもひとたまりもなく、棟綱の長男幸義まで討死し、一族は四散した。

 それから一月後、武田信虎は長子晴信のために駿河に追われた。家臣にも領民にも苛酷だった
信虎の追放は、逆に人々に喜ばれた。
 信虎は、今川義元に嫁している娘に会うため駿河におもむき、そのまま帰国できなくなったといわ
れる。
 うわさは幸隆の耳にも入った。流亡中の幸隆は、海野一族の羽尾入道幸全や、関東管領上杉憲
政に属して、剛勇の聞こえ高い箕輪城主長野業政の情けを受けつつ、心痛む日々を送っていた。

 幸隆より八歳も若い武田晴信は、実権を握るや 、天文11年7月、妹婿の諏訪頼重を謀殺に近い
やり口で滅ぼした。結果として晴信は、海野一族の怨敵三人のうち二人まで倒してくれたことにな
る。
 幸隆の旧領は二千貫にも満たなかったらしいが、父祖伝来の所領を奪われた失意は大きい。一
日も早く回復したかった。
「よし、晴信どのに仕えて大功を立て、旧領を取り戻そう」と決意した。

 一方、晴信の方も武勇・知謀とも、海野一族随一と評判高い幸隆を招きたいと思い、幸隆のもとへ
使者を立てた。使者は山本勘助ともいうが、同じ滋野一族で一足先に武田家に仕えていた禰津元
直と見るのが妥当であろう。
 幸隆の晴信服属の期については、14年説、15年説もあるが、天文12年に幸隆長子の信綱とは
腹違いの次子昌輝が生まれていて、その母が武田家家臣河原隆正の妹であることを考えれば、11
年と見るのが自然であろう。

 幸隆は晴信の期待に応えて、信濃先方衆筆頭の道を着々と歩きはじめる。武田家中のみにかぎ
れば海野の傍流にすぎなかった身が、幾ばくもせず、一族中最高の実力者にのし上がった。
 武勇もむろん抜群だが、幸隆の本領は謀略にあった。敵方に内応者をつくるのだが、成功率が極
めて高かった。
 晴信が惜しみなく提供する甲州金の魅力もさることながら、幸隆の説得に熱意がこもっていたから
であろう。
 幸隆には、鬼弾正の名に以げなく、やさしくこまやかな一面があった。

 天文12年武田に背いて敗れ、甲州で斬られた大井貞隆の子貞清が、三年後佐久郡内山城に立
て籠った際、先鋒として苦戦の末ようやく降伏させた。幸隆が、
「殺すに惜しい剛直な若者、一族ともどもご助命の上、家臣としてお取り立てを」
 と願い出たところ、晴信はこころよく聞き届けてくれた。

 天文16年、晴信は同じ佐久郡の志賀城をも手に入れたが、滋野一家の一つで佐久地方の実力
者望月一族は、主要な所領を守ってなかなか屈しない。
「幸隆、なんとかせい」
「かしこまりました。ただし、このたびは相当てこずるかと存じます」
 ところが、明くる天文17年2月、上田原で村上義清と戦った晴信は、両腕ともいうべき板垣信方・
甘利虎泰を失うほどの大敗を喫してしまった。
 晴信にとっては初めての屈辱的経験で、これを機に反逆者が続出した。

 同年の7月には、中信濃の小笠原長時が、甲斐侵攻を企てて勝弦峠に兵を集結させたことを察知
した晴信は、機先を制して18日深夜、峠頂上の長時の本陣に奇襲をかけて小笠原勢を潰走させ
た。俗に塩尻峠の戦いと呼ばれた。
 一日も早く村上義清を撃破して、上田原の雪辱を遂げようにも、望月一族に背後を衝かれる不安
があって、むなしく天文18年を迎えた。
 その間にも幸隆は、望月一族への工作を続けていた。明けて早々、望月源三郎が真っ先に武田
家への帰服を申し出た。
 大いに喜んだ晴信は、「七百貫の地をつかわす」という朱印状を、幸隆を通じて望月源三郎に与え
た。

 4月初めには、同じ佐久郡の春日城が落ちた。こうなればもう時の勢いをくいとめるすべはない。さ
しもの望月一族も動揺した。
 幸隆は甲州金の魅力と源三郎に与えられた朱印状を披露しながら、望月一族を説いた。
 その結果、望月新六以下の一族が5月の末ごろまでに次々に武田に降った。古い由緒を誇る伴
野氏も服属した。
 こうして佐久地方のあらかたが、晴信の領有するところとなった。

「幸隆、これはひとえにそちの大功、生涯忘れぬぞ」
 晴信は心から幸隆に礼を述べた。


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