備後歴史雑学 

主家を売った馬場主水

 真田伊豆守信之の記事で少し触れましたが、大坂の陣の折に信之が幸村と気脈を通じていたと、
幕府に訴え出た家臣か居た。
 父の代から真田の家に仕えている馬場主水は、槍一筋の家で戦場では命を的に敵と戦ってきた
猛者である。

 大坂城が落ち戦火がおさまっても、彼の体内には戦いの余燼が消えずにくすぶっていた。
 ありあまるエネルギーのおもむくままに百姓娘を襲い、己の欲望をみたす嗜虐的な楽しみを覚えた
も、戦いのあとの一種の後遺症ともいえるようだ。
 身分の差別が厳しかった封建時代、百姓娘を辱めることに主水は良心の呵責を覚えることはなか
った。
 被害を受けた方もほとんどが泣き寝入りで、訴え出ることはない。
 が、被害にあった娘の一人が、このことを親にうちあけたのち自殺したことから問題となった。
 名主は骨のある男だったので、恐れずに訴え出た。

 領主の真田信之はこの訴えを取り上げ、主水を捕えるように命じた。
 牢へ入れられた主水は、たかが百姓娘のために、武名を誇った侍が牢につながれることが、心外
でならなかった。
 主水は主の信之の仕打ちを恨み、牢を破って逃亡した。そして幕府に、真田信之の行状を訴え出
た。

 その内容は、大坂の戦いの折りに信之が西軍の弟幸村と気脈を通じていたということだった。
 東軍の真田勢の一部を城方に加勢にやったことや、信之の息子たちが真田の出丸に攻め込んだ
とき、あらかじめ兄に頼まれていた幸村が、わざと甥たちを見逃して一番乗りの手柄をたてさせたと
いうことなどである。

 関ヶ原では真田家は親兄弟が敵味方に分れて戦い、大坂の陣でも信之と幸村の兄弟が東西に分
れて戦っている。 
 それだけに、家康についた信之の戦後は難しかった。殊に関ヶ原戦を前にして、真田親子に苦杯
をなめさせられた将軍秀忠は、真田に好意をもつはずもなく、警戒の手をゆるめなかった。
 もし、少しでも領国に騒ぎが起これば、その責任を問われ真田の家を取り潰されることは、火を見
るより明らかである。
 このようなとき、何よりも民百姓の信頼を得ることが大切である。村人が安心して暮らすための治
安は、最も大切な仕事である。

 それを乱した主水を許すことは出来なかった。他の家臣たちが二度と過ちを繰り返さぬようにする
見せしめのためにも、厳しく罰する必要があった。
 信之は主水の逃亡を知ったとき、
「どうして、戦時より難しいこの局面をわかってくれないのか!」と、深い嘆息をもらした。

 主水の訴えを取りあげた幕府は、真田家の江戸家老を江戸城へ呼び出した。老中の尋問に家老
は、馬場主水が主の立場を少しも理解せず逆恨みして、ありもしないことをでっち上げて、訴訟を起
こすなど言語道断である。と言い切り、堂々と申し開きをしている。
 信之の許にも詰問書が届いたが、かねてからこのことを予測していた信之は冷静に対処してい
る。
 一方、真田領内に潜入している幕府の密偵の暗躍もはげしくなった。が、どうしても証拠をつかむ
事は出来なかった。
 やがて詮議は打ち切りとなった。

 真田家では馬場主水の身柄引渡しを願い出たが、幕府は訴人に出た者を引渡した例はない。と
いう理由で、主水を追放してしまった。
 ここに至って、馬場主水は幕府の隠密ではなかったかという疑問が出てきた。
 信之は腕利きの刺客を放って主水の行方を追わせた。

 この馬場主水を主人公にした池波正太郎氏の短篇があり、小説では信之の密命を受けた小川某
が、主水を殺し秘かに埋めてしまった。ということだが、この事件の真相ははっきりしない。
 ただ分かっているのは、逃亡以来、主水の姿を再び見た者はなく、いつの間にか馬場主水探索の
件が取りやめられてしまったということである。


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