備後歴史雑学 

六文銭の由来

 真田幸村の紋所として有名な六文銭(六連銭)が文献にみえるのは、鎌倉時代からである。
 真田氏の先祖の海野弥太郎が、蒙古襲来のときに活躍した様子が「絵詞」に記録されているが、
その旗印に六文銭が描かれている。
 また武田氏から年功を賞して、金銭六枚を真田に賜ったので、これを紋にしたという説もある。

 真田昌幸がそれまでの定紋であった雁金から、あらためて六文銭を家の紋にしたのは、次男の幸
村の初陣の時からだとされている。

[真田三代記]によると、武田勝頼が小山田謀叛のため天目山で滅亡したとき、武田方に与していた
真田昌幸は、あとを追って天目山に馳せ参じたが間に合わなかった。
 上田城へ引き揚げる途中、徳川・織田の連合軍のほかに、北条・上杉の大軍に囲まれてしまっ
た。さすがの昌幸も進退窮まった。
「万事休す。わずか四百の人数で、何万という大軍に包囲されては、作戦のたてようもない。真田の
運命もこれまでだ」
 幸村はにっこり笑って、
「いや父上、それがしが見るところ、まだ血路をひらく道は残っています。上杉は小勢だが結束が固
く、容易に破れませんが、北条は多勢といっても所詮鳥合の衆の集まりです。ただ一戦で破ってご
覧に入れましょう」

 幸村は何も書いていない無紋の旗を六本取り出してきて、北条方の松田尾張守の紋である永楽
通宝の銭形を描いた。
 その夜、子の刻(午前零時)、ドッと鬨の声をあげて、北条の陣へ夜討をかけた。
 寝込みを襲われた北条軍は驚きあわて、「すわ何者ぞ!」と、闇をすかして見ると、松田の定紋の
永楽通宝の旗印が見える。
「南無三、味方の謀反か」上を下への騒動となった。
 同士討がはじまった隙に、真田勢は道を開き、無事上田へ引き揚げた。
 ときに幸村16歳の初陣であった。

 感激した父の昌幸は幸村の初陣の記念に、真田の紋所を六本の永楽銭にちなんだ六文銭に改
めている。
 大坂の陣では、華やかな赤備えの軍装に身をかため、真田軍の行くところ赤地に染め抜かれた六
文銭の旗が炎のように燃え、敵の心胆を寒からしめた。
 真っ赤な六文銭の旗が林立してひるがえった真田丸は、さながら満開のつつじに埋めつくされた
丘陵を見るように美しかったといわれる。
 無紋銭を三枚ずつ二列に並べた形は、仏教の六道(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天上)からきて
いる。
 死者が渡る三途の川の渡し銭が六文なので、死者はあの世に旅立つとき、六文銭を棺の中に入
れてもらう。


 大坂夏の陣の幸村は、死出の旅の路銀である六文銭を押し立て、まっしぐらに家康の本陣めがけ
て斬り込んで行った。
 家康をあわやという窮地に追い込んだ。旗本たちも大切な御旗を放り出して、家康を守りながらほ
うほうの呈で逃れた。
 が、しかしこの時、家康は逃げきれず、幸村の手で討たれ、これ以後の家康は影武者がなり代わ
った偽物である、(以前テレビドラマでは関ヶ原合戦のとき、島左近の手の者の忍びが殺害しまし
た)という説が出るくらいに、幸村の戦いぶりはすさまじかった。

 一方大坂落城のとき、燃えさかる火の下をかいくぐるようにして、白綾の鉢巻をしめ白柄の長刀を
振りかざした十六・七の美少女が伊達軍の中に斬り込んできた。
 伊達の重臣片倉小十郎がこの少女を捕えてみると、幸村の三女阿梅であった。
 幸村が小十郎の武勇に感じて、最後のときは、その陣へ斬り込むよう梅に申し渡したともいわれ
るが、一説には小十郎が乱取り(略奪)したともいわれる。

 小十郎重長(後の白石城主一万五千石)は梅を連れ帰り、後妻にしている。彼は武名高い幸村の
娘を妻にしたことを誇りにして、こののち片倉家の紋を六文銭に改めている。
 この話には後日談がある。
 松代藩主幸道(真田信之の孫)が、伊達家を訪れたとき、家臣の中に真田と同じ六文銭の紋をつ
けた侍がいるのに気づいた。
 幸道は不思議に思って質ねてみた。六文銭の紋所をつけた侍は、片倉沖之進という者で、先祖の
小十郎の話をした。
 幸道は頷き、沖之進にねんごろな言葉を与えたので、感激した片倉は、わざわざ真田家の江戸屋
敷へ礼に来たという。
 六文銭が結んだ奇しき縁であった。


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