備後歴史雑学 

真田一族の女性たち

猛々しい合戦の世にありながら真田の男たちは日陰に咲く花を踏みにじることなく愛しんだ!

 弱肉強食の戦国の世にあって、牙を持たない女たちが如何に軽んぜられたか、系譜を繰る度に悲
しくなる。
 後継者を産み次代を育てたのは女たちであったのに、その存在は殆ど意識の外である。
 政略のために結婚をさせられた大名家の子女たちは、しばしば実家や婚家の過酷な仕打ちに泣
いた。於大・お市・濃姫・おふう・ガラシャ・・・数えあげたらきりがない。が、真田三代は妻たちを裏切
らなかった。


 「昌幸の妻」 

 真田昌幸の正室山之手殿の出自には菊亭晴季の娘または養女、武田晴信の養女、正親町実彦
の娘、遠山氏の娘など諸説あるが、[石田氏系図]に記された宇田頼忠の娘という説が、最も信憑性
が高いとされている。
 また頼忠の子の頼次は石田家の養子となり、昌幸の妾腹の娘を娶っていた。この娘は頼次が佐
和山城で死去すると滝川一積に再嫁する。昌幸と三成は二重の縁戚関係で結ばれていた事にな
る。
 山之手殿は控えめながら、正室としての覚悟を充分に備えた昌幸思いの女性だったという。
 関ヶ原の直前には大坂城を抜け出し、商人に身をやつした家臣の葛籠に潜んで昌幸の籠る上田
城へ戻った。
 そして戦後、昌幸が九度山蟄居を命じられると、山之手殿も髪をおろし、寒松院と称して夫と共に
恭順の意を表するのであった。

 昌幸には九人の子かあり、信幸・幸村以外は全て妾腹である。だが寒松院はひたすら昌幸の身を
案じ、一日も早い赦免を仏に祈り、家康の側近本田正信に盛んに働きかけるのだった。
 慶長16年6月4日、寒松院の悲願もむなしく昌幸が九度山で死去すると、二年後寒松院もあの世
へと旅立った。その日がちょうど昌幸の三回忌の前日にあたっていることから、後追い自殺ではな
いかといわれる。
 だとすると、自分の血縁を裏切らなかった昌幸への、せめてもの詫びの気持ちであったものか。
 寒松院のこれほどの一途さが、昌幸を西軍に駆り立てたとも考えられる。


 「信之の妻」

 家康の婚姻政策は凄まじく、17人の実子の他に4人の養子と19人の養女、それに猶子3人を動
員した。信之の妻もその一人である。
 天正14年(1586)秀吉の口利きで昌幸は家康と和睦し、その証しに21歳の長男信幸(関ヶ原後
信之)を家康の人質とする。
 信幸はそこで徳川四天王の一人本田忠勝の娘を、家康の養女として娶った。

 天正元年生まれの妻は、幼名を於子亥または稲、長じて小松姫といった。猛将忠勝の娘だけあっ
て、なかなかの女丈夫であった。
 真田家の系譜を綜合すると、小松姫は天正19年に長女「まん」を、文禄2年(1593)に次女「ま
さ」を、さらに慶長元年に信政、4年に信重を産む。
 そして翌5年の関ヶ原合戦の時の小松姫の働きはあまりにも有名である。

 下野犬伏の陣の談合で西軍加担を決めた昌幸と幸村は、上田城への帰途につく。その道すがら
沼田城への立寄りを思いたち、城に使者をたてた。
 とくろが使者を迎えた小松姫は、何故に家康公に従わず帰陣するのか、信幸も一緒かと聞く。
 使者が急な事で理由は判らないが、昌幸に同道しているのは幸村だけだと答えると、いち早く事
情を察し、
「妾はこの城の留守を預る身、舅といえども、しかとした理由もなしに城へお入れ申すことは出来ま
せぬ。たってとあらばまず子を殺し妾も死に、城に火をかけた上でお渡しいたしましょう」といい、城
下に休息の場を設けるので、そちらで寛いで欲しいと入城を断った。
 けんもほろろの返答に使者は驚き、城を下ろうとすると、すでに櫓門には弓鉄砲を構えた城兵が詰
めており、小松姫も鉢巻たすきに薙刀を携えた侍女を従え、城の守りを固めるよう指図を始めてい
た。

 すっかり胆をつぶした使者が昌幸にこの様子を告げると、昌幸はさすがは本田の娘と感心し、た
だ孫に逢いたい一念でそこまで気付かなかったと、再び使者をさし向けたのである。
 小松姫は約束通り城外に宿舎を設け、食事の炊き出しを始めた。だが鉢巻たすきに長い棒を持っ
た侍女が三十人ばかり見張っていたので、兵卒たちは食事が咽喉を通らず、野原に陣を設けて一
休みすると、早々に上田へ立ち去っていった。
  時を移さず小松姫は留守を預かる諸臣の妻子を悉く城へ集めさせ、慰安会を催し数日間城に泊
めた。
 真田家が二手に分かれた事を知って、家臣が異心をおこし西軍に奔る事のないように妻子を人質
としたのだった。

 この小松姫の知勇ある働きは、弓取りの妻の鑑として大いに讃えられた。
[大蓮院御事蹟稿]には、信之の妻は権現様へも台徳院様(秀忠)へも御直の御前にてものを申上る
程の「はきこ」の女性なり・・・感心したる程の「御勇猛の女性なり・・・とある。
 小松姫の後ろ盾である実家の本田家は徳川家の一族に連なっていた。弟の忠政は家康の孫娘
(信康娘)を娶り、妹は家康の外孫奥平家昌に嫁していたし、忠政の子忠刻はこの後千姫を妻に迎
えるのであった。
 しかし徳川の妻小松姫は、信之には少々気重であったのだろう。信之はちょくちょく息抜きをしてい
る。

 長子信吉の母もその一人である。[滋野世記]によれば、この女性は伯父信綱の娘である。信政の
生まれる一年前に信吉を産んだが、早世したとある。
 さらに中年の信之には影のように寄り添う右京という女性が登場する。
 右京は京都の玉やという町人の娘で、はじめ福島正則に嫁したが同家の没落後、玉川伊予守の
養女となって信之に仕えた。
 右京は女中頭という名目で常に信之の側にあり、出陣に際しても準備万端を整えたと伝えられ
る。

 信濃史料には元和5年(1619)9月9日に、信之が坂巻夕庵に送った小松姫の看病の労を謝す
手紙がある。
 すっかり体調をこわした小松姫は、6年の春を待って草津温泉へ湯治に出かけるが、途中、鴻巣
の宿で2月24日不帰の人となった。病名は判らない。
 いかに女丈夫とはいえ、信之を虜にした若い側妾の事が体に障ったのではあるまいか。この時5
3歳の信之の側には、48歳の小松姫に代って19歳の右京がひたと寄り添っていたのであった。
 一説に鬼瓦などと囁かれる小松姫とは異なり、京女の右京は文字通り才色兼備の女性であったよ
うだ。
 小松姫の亡き後は、御内室様といわれ、信政の跡目相続など表向きの事にも、大いに手腕をふる
い信之を動かしている。
 信之は若い伴侶を得たせいか、なんと90歳まで松代藩主をつとめるのである。
 信之は実に女性に恵まれていた。前半生の30年余りは小松姫に支えられ、後半生の40年ばか
りは右京が仕えていた。

 万治元年(1658)10月17日の夜、信之が柴村の隠居所で92歳の生涯を閉じると、右京は髪を
おろし、その剃髪で、
 みだ頼む こころは にしに ありあけの  南無阿弥陀仏
                    月にね覚の あけぼのの空
                            清花院正岳妙貞
 という、自詠自讃自筆の自画像を縫って、高野山の蓮華定院に納めた。
 そして京都に出て、寛文11年(1671)11月5日、71歳で没した。いま松代町の梅翁院に眠る。
 正室小松姫に勝るとも劣らぬ賢夫人であった。


 「幸村の妻たち」

 夫人に支えられた信之とは逆に、幸村は弱い女性を支えた。
 敗者幸村の子女の史料は非常に乏しいが、[左衛門佐君伝記稿][真田一族と家臣団]によれば、
幸村には少なくとも五人以上の妻妾がいた事になる。

 天正15年(1587)幸村は上杉景勝から秀吉の人質となり、秀吉の直臣に取り立てられて大谷吉
継の娘「竹林院」(妹、姪を養女としたという説もある)を正室とする。
 竹林院は幸村の九度山蟄居に従い、九度山で四女あぐり・長男幸昌(大助)・六女阿菖蒲(おしょ
ふ)・七女おかね・次男大八の二男三女を産む。

 だがそれ以前に幸村は、上田で家臣堀田作兵衛興重の娘に長女阿菊(すへとも云う)を、また家
臣高梨内記の娘に次女於市と三女阿梅を産ませていた。
 長女阿菊は九度山へは行かず、作兵衛に養われて小県郡長窪宿の郷士石合十蔵重定に嫁ぎ、
寛永19年(1642)没。
 次女於市は九度山で病死した。
 三女阿梅は幸村に従って大坂城に入り、幸村の身の廻りの世話をし、大坂落城後は伊達政宗の
臣片倉小十郎重長の妻となった。

 五女なほ(御田姫)と三男幸信の生母は、三好秀次(関白秀次)の娘と伝えられる。
 秀吉による秀次一族の虐殺をどうくぐりぬけたものか、この妻は慶長9年に九度山で「なほ」を産
み、母娘は幸村に従って大坂城へ入ったが、落城直前に京都に住む秀次の母日秀尼の許に身を
寄せ、落城後二か月目の7月幸信を出産する。
 御田姫は長じて、出羽亀田町二万石の岩城但馬守宣隆の継室となり、寛永5年(1628)嫡子重
高を産む。
 弟の幸信も姉に従い岩城氏に仕えた。

 この他に九度山の農民の娘といわれる八女の(名不詳)生母がおり、娘は長じて青木次郎右衛門
という者に嫁いだと云わる。

 さらに四男之親と九女の生母がいるが、消息は不明である。

 幸村の妻妾は多彩だが、権力者の娘はいない。大谷吉継も三好秀次もすでに世を去った敗者で
あったが、幸村はこの弱い女たちを抱え、庇いつづけるのであった。
 そして慶長19年、大坂の陣が起こると、大谷の義兄弟吉治も頼継も馳せ参じ、妻たちも皆大坂城
へ従った。

 大坂落城後の妻たちの足取りは不明だが、[徳川実記]には、
大坂落城後12年目、慶長20年5月20日の項に、
「真田左衛門佐幸村が妻は、紀伊国伊都郡中に忍び居なるを、浅野但馬守長晟捕ふ。かの妻秀頼
より幸村に賜りたる来国俊の脇差ならびに金五十七枚を所持せりとて二条に献じければ、皆長晟に
給ふ」
 という正室逮捕の報告がある。女なので罰は免れ、正室はその後34年を生き、慶安2年(1649)
5月18日に没し、追号を竹林院梅渓永清大姉という。

 幸村と共に作兵衛も内記も大坂の陣の露と消えたが、妻たちはあるいは母をあるいは子を頼りな
がら、それぞれひっそりと生き抜いたようだ。

 幸村正室の竹林院が九度山で産んだ二男三女(四女あぐり・長男幸昌(大助)・六女阿菖蒲(おし
ょふ)・七女おかね・次男大八)のその後は、
 四女あぐりは、滝川一積の養女として、三春四万五千石の城主蒲生郷喜に嫁いだ。
 一積は滝川一益の子で徳川に仕え旗本千石であったが、この幸村の四女を養女として蒲生に嫁
がせた事をとがめられて、改易させられている。
 一積の妻は真田昌幸の娘で、子の一明の妻は真田信之の娘であり、その養子の一重の母は真
田信政の娘であった。幾重の姻戚関係か。

 長男幸昌(大助、信昌ともいう)は、慶長7年九度山生れ、慶長20年5月8日大坂落城のとき、豊
臣秀頼とともに討死(自刃)した。

 六女阿菖蒲(おしょふ)は、後に伊達政宗の家臣田村定広に嫁いだ。寛永12年没。田村氏は後
に片倉氏に改姓。

 七女おかねは、元尾張犬山城主一万二千石の石川備前守貞清、関ヶ原後牢人し京都で宗休と称
して茶人であった彼に嫁いだ。
 おかねは京都大珠院に幸村夫婦の墓を建てている。

 次男大八は、慶長17年九度山で生れ、姉阿梅の嫁ぎ先の片倉氏に引き取られ、片倉久米之介
守信と名のって三百六十石を知行された。寛永10年59歳で没。この家は後に真田性に復してい
る。

 真田幸村は猛々しい合戦の世にあって、日陰に咲く花を踏みにじる事なく愛しみ、敗者の女たちを
妻として堂々と抱えつづけた男らしさであった。
 愛にこたえて女たちは子を産み次代を育てた。敗者でありながらその血は脈々と流れ拡がり、幸
村の人気と共に今なお健在である。

 「日本一の兵」と讃えられた幸村の子たちは、各大名からの誘いが多くあったと伝えられている。
 現在でも東北地方には、幸村の子孫を名乗る家が多いそうです。


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