備後歴史雑学
関ヶ原合戦の戦功で出雲・隠岐24万石の領主となった堀尾吉晴は、月山富田城に入城す
るがこの城は領地の東端に位置し山城のため城を移すことにした。新天地として選ばれたの が宍道湖畔の亀田山であった。
島根県松江市の宍道湖畔に優美な姿を見せる松江城天守は、山陰地方では唯一現存する江戸
時代の(桃山形式の荘重雄大な)天守閣で、標高29メートルの亀田山に聳えている。その姿は宍 道湖に羽を広げて飛び立つ千鳥のようで、千鳥城の別名を持つ。
この優美な城は加藤清正と並んで城普請上手といわれた堀尾帯刀吉晴。
吉晴は豊臣三中老の一人であったが秀吉の死後徳川家康に近づき関ヶ原合戦の戦功により、遠
州浜松12万石から出雲・隠岐両国の太守に任ぜられ尼子氏が本拠としていた月山富田城に入る。
勇を好む当時の武将はいずれも旧城に満足しない。しかも新兵器鉄砲の出現によって、今さら不
便な山城の価値はあるまいと見立てたのが松江城新築の直接の理由であったと思われる。
幕府の築城許可は慶長8年(1603)に得られた。しかし翌年、家督を譲ったばかりの嗣子忠氏が
27歳の若さで急死。跡を継いだ孫の忠晴はまだ6歳であり、実質的な藩政は吉晴が行うことになっ た。
慶長12年、ようやく始まった築城工事には足掛け5年の歳月がかかった。当時の亀田山は尾根
続きでほかの山とつながっていたため、この尾根をすべて切り崩してさらに堀を掘削しなければなら なかった。現在の塩見縄手の武家屋敷の一帯は、かつて尾根だったところを平地に均した場所の ひとつである。
慶長16年(1611)に完成したといわれる城郭の縄張りは、島根半島から南へ派生した低丘陵の
突端を切断して独立させ、最高所に天守と六つの櫓を持つ本丸、その南側に御書院・御広間・局長 屋・五つの櫓などからなる二之丸、米蔵のあった下ノ段、最南部の平地に御殿のあった三之丸を設 けた。
こうして松江城を完成させた堀尾吉晴だったが吉晴は慶長16年6月17日(7月26日) 没し、跡を継
いだ実質的な松江城初代城主にあたる孫の忠晴に嗣子がなく、忠晴の死によって寛永10年(163 3)堀尾家は断絶。
吉晴の苦心の末の松江城には若狭小浜から京極忠高が入封するが、京極家も後継ぎに恵まれ
ず断絶。
寛永15年に、信州松本から結城秀康の三男だった松平直政が18万6千石をもって転封となる。
直政は二度のお家断絶で荒廃した城を修復し、さらに松平氏三代綱近が三の丸を整備した。
東は中海、西は宍道湖に挟まれ「東洋のベニス」と称される水の都松江は、松平氏の系譜230年
の長きを見るのである。
歴代の藩主が武より風流の道にいそしんだためであろうか、中興の祖七代治郷が不味公の号で
呼ばれ、茶人大名として知られ松江の文化の流れの礎をつくった。
堀尾吉晴・忠氏・忠晴・京極忠高・松平直政・綱隆・綱近・吉透・宜維・宗行(注:行の字は間にシ
が入る)・治郷・齊恒・齊貴・定安。
天守は五層六階で高さ30メートル:南に付け櫓を設け出入り口とした複合式である。第三層
に大破風があり千鳥の飛ぶ姿に似ることから千鳥城とも呼ばれる。
松江城は一度も戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えた。
維新後、明治政府は城郭建造物を取り壊すことにしたが、旧藩士らの懇請により天守閣だけ
は保存された。現在は全国十二の現存天守の一つとして極めて価値の高い建造物である。
しかし三之丸他、本丸の北側の遺構は失われてしまったようである。内堀内の北側は車で通
り抜けできますが、往時の遺構が見られませんでした。
堀廻り観光舟は風情があってお勧めします。過去乗船した船頭さんの話では堀の底にはヘ
ドロが堆積しているそうです。
何度も訪城いていますが、撮影時に入った近年出来た蕎麦屋さんはお勧めです。上図の塩
見縄手を西(左)に行き図の切れる位置の右手にある蕎麦屋さんです。
駐車場有りですが昼時は満車(約8台位)状態です。何でも出雲産と北海道産の蕎麦粉を注
文出来るようでした。 |