備後歴史雑学 

関ヶ原合戦シリーズ5
「死を賭した男たち」

 「後藤又兵衛」黒田長政隊:満身創痍の歴戦の闘士
 永禄3年4月10日(1560年5月5日)、播磨別所氏家臣後藤基国(後藤氏当主)の次男として生まれ
る。幼少の頃父を亡くしたことから、父の友人であった黒田如水(孝高)に引き取られた。如水の家
臣として仕え、数多くの軍功を挙げ、「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。
 朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどに従軍、朝鮮出兵の第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車
を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本儀太夫一久らと一番乗りを競った。

 後藤又兵衛(基次)の従士に長沢九郎兵衛という者がいた。その長沢が沐浴の場で又兵衛の裸
体を目にしたことがある。筋骨隆々たえる身体は、文字通り満身創痍だった。
 53か所・・・。重軽傷あわせて、それだけの疵あとが数えられたという。戦うために生れ、生きて、
そして死ぬべき宿命を天与されていた男である。
 黒田長政から、又兵衛は16,000石を与えられたという一事からしても、彼の関ヶ原合戦での
赫々たる戦功が推想されるであろう。


 関ヶ原の前哨戦の一つに、合渡川の戦いがあった。8月23日、墨俣川の上流の合渡川をはさみ
両軍が対峙したときの戦いである。
 この日の朝、又兵衛の主黒田長政は、田中吉政・藤堂高虎らとともに軍を動かして木曽川下流を
渡って岐阜城下に至ったが、城下は城攻めの小荷駄に塞がれて進みがたく、また落城も近い様子
に見えたので、転じて大垣城へと向かった。これは大垣城の西軍が岐阜に来援するのを予想した
からである。
 岐阜城攻略戦で福島正則と池田輝政に後れをとった黒田・田中・藤堂らの諸将は、落城を見る前
に大垣方面へ進出した。
 そのころ、石田光成は大垣城を出て清洲への途中にあたる沢渡村に陣を張り、合渡川に守備隊を
派遣、東軍の進攻に備えていた。

 合渡川は大垣から約20キロほどのところを流れている。そこに黒田長政らが至ると、濃い川霧の
向う岸に敵が営している。石田光成の部将舞兵庫らの部隊であった。
 雨季の川は水かさが増して渡渉は容易でなかった。進んで川を渡って討って出るか、渡河してくる
敵を邀撃するか、諸将は鳩首凝議したが、なかなか結論が出ない。
 このとき藤堂高虎が銀天衝の前立の兜に黒母衣をかけた武者を見て、
「あの戦巧者の考えを問うてみようではないか」と言った。後藤又兵衛のことであった。
 事を相談されると又兵衛は笑いをふくみつつ言った。
「今は御評定にあたら時を費やす場合ではござりますまい。内府公に対して面目を立てんと思うなら
ば、この川を討死の場と覚悟するのが男子の本懐というものでござろう」
 この一言で渡渉攻撃作戦に一決。黒田隊は上流浅瀬を渡って舞兵庫の隊に突入してこれを敗走
させた。
 石田光成は、合渡川の戦いで守備隊が簡単に粉砕されるや早々に陣を払い、大垣城へ撤退し
た。
 東軍はそれ以上の追撃はせず、8月24日には先発隊の全軍が大垣城西北約4キロの赤坂に集
結し、家康の着陣を待つことになった。

 さて決戦当日、開戦と同時に黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政らの諸隊は、石田光成の
本隊に突入した。
 銃撃戦から白兵戦に移ったが、このとき後藤又兵衛が大橋掃部という十文字槍を馬上で振りまわ
す荒武者(光成家臣)と槍合わせして、その首を取ったことが伝えられている。

 戦後、又兵衛は長政から筑前小隈城一万六千石の城主という好遇を受けたが、なぜか慶長11年
(1606)黒田家を去っている。理由については諸説となえられているが、すべて憶測の域を出ない
ものである。
 又兵衛の武略は大胆にして細心、彼は真に歴戦のプロであったが、それだけに自信家であったに
相違ない。その自信が主人の勘気にふれる一因となったのではあるまいか。とある。


 大坂の陣には秀頼に招かれて入城する。
 大坂城に拠った武将たちの中でも、長宗我部・毛利・明石・真田・後藤は新規召し抱えの牢人組と
はいえ、それぞれに手兵を預けられ五人衆として配置についた指揮官である。
 大坂冬の陣は、豊臣方は秀頼の譜代家臣大野治長以下三万余と西国各地から馳せ参じた豊臣
恩顧の牢人たち、他を合せて十万余。(実数は詳らかでないが、十九万とも)これに対して徳川方の
兵力は二十万余である。
 慶長19年(1614)12月19日、穢多ケ崎の砦から戦いが始まった。ついで26日今福・鴫野の戦
いといわれるもので、冬の陣最大の激戦が展開された。
 これは、佐竹義宣・上杉景勝の軍勢と、後藤又兵衛・木村重成の軍勢の戦いで、勝敗はどちらとも
いえない状況であったが、豊臣方はこの戦いでかなりの自信をつけたようである。
 しかし、後藤又兵衛はこのときの戦いで鉄砲疵をうけており、引き続く29日の伯労淵・野田・福島
の戦いでは徳川方が完勝している。

 翌慶長20年(途中で元和と改元された)4月29日、和泉の南部・樫井で紀州の浅野長晟の軍勢
と、大野治房の部将塙団右衛門直之との合戦があり、事実上大坂夏の陣は開始された。
 5月6日、後藤又兵衛・毛利勝永・真田幸村らが道明寺に進出し、徳川方と大激戦が繰りひろげら
れた。

 真田幸村は、5日夜、ひそかに後藤又兵衛・毛利勝永らと密議し、翌6日の払曉を期して道明寺
付近の隘路において徳川軍を迎撃する作戦を相談した。
 かねての手筈通り、後藤又兵衛は手兵二千八百を率いて道明寺の西、藤井寺まで進んだが、ま
だ幸村隊および毛利勝永隊は到着していなかった。
 又兵衛は斥候を出して徳川軍の様子をさぐらせたところ、すでに敵は目と鼻の先にあることが分か
った。この切迫した状況に又兵衛は、単独でも徳川軍にあたらなければならないと考えた。また、合
戦の最中に幸村隊・毛利隊が到着するとふんで、戦いの火蓋を切ったのである。
 この時の徳川軍は、先鋒主将が水野勝成(福山城の水野氏参照)であり、本田忠政・松平忠明・
伊達政宗など約三万五千であった。
 しかし、幸村隊・毛利隊の到着は大幅に遅れ、幸村が到着したときには、すでに後藤又兵衛基次
は壮絶な斬り死にを遂げていた。

 小松山を中心に両軍の戦闘が開始されたが、なんと、この死闘が延々七時間の長きにわたって
続いたそうである。同じ七時間でも関ヶ原本戦のだらしない両軍の戦闘ぶりとは全く異なる。
 ようやく薄田隼人の援軍が駆けつけ、後藤隊の奮戦を援けたが、ついに後藤も薄田も力尽く。
 又兵衛は玉砕の覚悟で、後藤隊も獅子奮迅に荒れ狂っていたが、多勢に無勢である。彼はつい
に腰を撃ちぬかれ、尻もちをついたまま口より泡を吹きつつ、なお槍を振りまわして敵を待ち受ける
構えだったが、やがて従者に下知して首を刎ねさせた。
 満身創痍の歴戦の闘士らしい最後であった。享年六十余歳という。




関ヶ原合戦シリーズ5「塙団右衛門」へ続く


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