備後歴史雑学 

幕末剣心伝24「天然理心流・土方歳三E」

「蛤御門の変」

 元治元年(1864)7月、戊申以前における最大の戦闘が行われたのが蛤御門(禁門)の変
である。新選組も勇躍戦闘に参加。焼失家屋約三万に及んだ。


 長州藩の志士たちは、ついに武力請願行動を取ることに決した。
 久坂玄瑞や真木和泉の率いる先発隊三百人が三田尻から船で東上し、大坂から淀川をさかのぼ
って山崎・天王山方面に陣を敷いた。

 ついで福原越後に率いられた長州兵三百余人が大坂に到着したのは、6月22日であり、24日に
は伏見まで兵を進めた。
 さらに来島又兵衛・国司信濃が率いる六百余人の第三軍は、嵯峨天竜寺に布陣。
 益田右衛門介の第四軍六百余人は、八幡に着陣した。

 長州藩の意図は会津藩を京都から追い落し、8月18日政変以来の屈辱をそそぐ事にあった。公
武合体派を追放するためだ。


 毎日、二条城へ詰めている近藤の話や、探索方からの報告で、土方歳三は長州勢の動きを知り、
(おかしいな)と首をかしげた。
 戦をする気ならば、一気に押し出してくるべきなのである。それなのに、いたずらに日を送ってい
る。

 7月に入ると、屯所に帰ってきた近藤がいった。
「薩摩がしきりに動いている。それも公卿方の意を体してのことらしい」
「やはりそうか。戦の支度だけはしておいた方がいい。で、軍中の心得を作っておいた。局中法度は
あるが、あれでは戦はできないからね」歳三はそういって、前もって書いておいた文章を近藤に見せ
た。

 九カ条からなる「陣中法度」である。
一、役所を固く相守り式法を乱すべからず。進退組頭の下知に随うべきこと。   
一、敵味方強弱の批評一切停止のこと。付、奇嬌妖怪不思議の説を申すべからず。
一、食物一切美味禁制のこと。
一、昼夜に限らず急変これあり候とも決して騒動致すべからず。心静かに身を固め下知を待つべき
こと。
一、私の遺恨ありとも陣中に於て喧嘩口論仕間じきこと。
一、出勢前に兵糧を食い、鎧一縮めして槍太刀の目釘心づくべきこと。
一、組頭討死に及び候時、その組衆その場において戦死を遂ぐべし。もし臆病を構えてその虎口逃
来るやからこれあるにおいては、斬罪微罪その品に随てこれを申し渡すべく候、かねて覚悟、未練
の働きこれなきよう相嗜べきこと。
一、はげしき虎口において組頭の外屍骸引退くことをなさず、終始その場を逃げず忠義をぬきんず
べきこと。
一、合戦勝利後乱取禁制なり。その御下知これあるにおいては定式のごとく御法を守るべきこと。
 というものであった。いかにも新選組らしいのが第七条である。
 指揮官が戦死したら、全員が死ね、というのである。
「よろしい。これを全員に徹底させよう」と近藤はいった。


 7月半ばを過ぎて、ようやく戦機が動いた。長州藩兵がそれまで攻撃をしかけてこなかったのは、
藩主の入京許可を求め、その回答を待っていたのである。

 はじめ、一橋慶喜は長州藩をなだめるつもりで、会津藩に戦闘の準備を許していなかった。
 しかし、薩摩は一戦する決意を固めた。西郷吉之助が手配をし、会津藩にも申し入れてきた。
 京都守護職・松平容保は、一橋慶喜とも謀って勅許を得、在京の諸侯に動員令を下した。
 新選組は、会津藩軍奉行・林権助の一隊として、銭取り橋を固めた。総員百名である。
 幹部は甲冑着用、隊士は剣術の胴衣に浅黄地の羽織である。

 7月18日の夜に入って、長州藩家老国司信濃の一隊が中立売門から決戦の火蓋を切った。
 その砲弾が御所に飛んでくると、公卿たちはたちまち震え上がってしまい、帝を奉じて避難するこ
とに決した。
 松平容保はこのとき病床にあって、馬にも乗れないほどだったが、玉座を移されてしまっては、京
都守護職として面目が丸つぶれである。家臣にかかえられ這うようにして参内した。

 御所の中では家臣は介ぞえはできない。一橋慶喜と桑名藩主松平越中守(容保の弟)が両わき
から容保をささえ、拝謁の間に伺候した。
「かくのごとき騒ぎ、恐縮至極に存じますが、なにとぞ臣にお任せあらんことを」そういうのがやっとで
あった。
「よろしい、その方に任せる」という帝の仰せに、容保は平伏した。
 帝が、容保に任せる、と決めたからには公卿らは動くに動けない。なかには、半狂乱になって、
「何と愚かなことを」と嘆く者さえ出る有様だった。
 会津藩としては、帝の仰せは万余の大軍に匹敵した。


 新選組に、「蛤御門を固めよ」と指示が届いたのは、午後十時頃だった。
 歳三は、「蛤御門だ。全員、駆けろ!」とどなると、隊士全員どっと動いた。
 御所の手前に達したとき、日野大納言邸から、射撃が浴びせられた。
 歳三は、「伏せろ!」すぐに井上・原田・永倉の三人に、
「二十名ばかり率いて踏み込め」すぐに邸内から斬り合いの雄叫びが聞こえてきた。
「本体は前進、足をゆるめるな」と歳三は号令をかけ、一気に蛤御門に達した。すでに各所から火の
手が上がっていた。

 その明りの中で、長州兵が遮二無二進んでくる。
 情けないことに、新選組には小銃が五挺しかなく、会津藩も銃は持っているのだが、その大半が
旧式の火縄銃だった。
「まどろこしいぞ。全員、抜け!」近藤が仁王立ちになって叫んだ。
 長州兵の射撃音がいっせいに高まったが、もはや銃は間に合わない。

 夜が明けるころには、長州兵は敗退した。
 新選組の損害は思いのほかに多かった。約四分の一が戦死傷をしており、しかも銃傷が大部分
だった。
 日野邸に突入し、長州兵を掃討した永倉・原田も共に軽傷を負っていた。いずれも銃弾がかすっ
た傷である。
 遺棄された長州兵の多くは、銃創よりも刀や槍で命を失っているか、自刃しているかであった。

 近藤は死体を改めると、
「勝敗を最後に決するものは、やはり刀槍だな」といった。
「必ずしも、そうとはいえまいがね」歳三は首をかしげた。
 長州兵で甲冑を身にまとっている者はさほど多くはなかった。どちらかといえば軽装である。士分
の者より足軽の方が多い編成のように思われた。
 会津藩兵や新選組の斬り込みの前に、ほとんどなすところがなかったのも、士分以外の者が多か
ったためだ。と歳三は感じた。

 ただ、近藤・土方も知らないことだったが、長州藩は前年のアメリカやフランスとの交戦の経験で、
様式装備に切り替えつつあり、また、高杉晋作が身分を問わない兵、すなわち奇兵隊をつくり、もっ
ぱら射撃の訓練をほどこしていた。
 戦国以来の伝統で、どこの藩でも銃を扱うのは軽格というのが常識だった。銃は士分ではなく卒の
持つ武器だったのである。
 長州藩においても変りはなく、奇兵隊は、はじめは士分の者から軽蔑されていた。

 徳川幕府は、銃器の数を制限し、武士たる者が扱うべきものではないとした。要は、幕府の安泰を
第一に考えた結果であり、二百七十年の間、日本では銃火器の進歩も発展もなかった。
 歳三も、この時までは、そういう旧思想から抜け切れていなかった。刀槍の優位を信じていた。
 長州兵に銃創がほとんどなかったのは、こちらの射撃が下手だったからにすぎない。上手であれ
ば、足軽が遠くから武士を倒すことができる。長州兵は、現にそれを立証した。
(もしかすると、間違っていたかも知れない)と歳三は思った。


 長州兵は敗退し、一緒に行動していた久留米の神官真木和泉らは、天王山に登って陣を張った。
真木には帰る所がなかったのである。
 この残敵掃討のために、近藤は約五十名を率いて、会津藩神保内蔵助の指揮下に入り、見廻り
組とともに出張した。
 真木は弾丸を撃ちつくすと、同志十七名と自刃した。

 近藤はさらに大坂へ行き、長州の蔵屋敷を襲い、居残った女子供を町奉行所に渡してから引き揚
げた。
 歳三は、残った隊士をまとめて壬生に戻った。近藤に同行した者を除くと、負傷者を含めて十数名
だった。
 蛤御門の戦闘の激しさに、脱走した隊士が相当いたのである。

 歳三は、帰京してきた近藤に一切を報告し、
「申し訳ない。副長として不行届だった」と頭を下げた。
「逃げたやつは、どれもこれも西国出身の者ばかりじゃないか。やはり、兵は東国に限るな。いずれ
にしても隊士が不足してしまったからには補充しなければなるまいが、このさい江戸へ戻って集めて
こようと思うが、どう思う?」と近藤はいった。
「異存はない。留守はまかせてくれ」と歳三は答えた。

 朝廷は禁門の変の責任を追及し、長州征討を幕府に命じた。


「新選組再編成」へ続く


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